11 新生活始めました その2
スノウと別れた後、リチアは寄宿舎に戻る前にとある場所へと寄り道をした。
庭園の隅。リチアや身分の高い者をはじめ、上級の使用人たちが滅多に足を踏み入れない裏庭のような場所がある。
そこは小さな水路が通っていて、主に下級の使用人達が自分の衣類などを洗濯する為の洗い場だった。
「ちょっといい? 聞きたい事があるんだけど」
リチアが声を掛けると、乾いた洗濯物を手にメイド服姿の下女が振り返る。ご機嫌な鼻歌を口ずさんでいた下女がキョトンとした顔でリチアを見上げてきた。
「近衛兵の‥‥‥どうされました?」
子犬のような瞳をぱちくりと瞬かせ、小首を傾げる。その無垢な反応に、リチアは少なからずホッとした。
スノウたち騎士団は身分の事で使用人たちから嫌われていると聞いたばかりだったが、全員がそうとは限らないらしい。
何かしら?と、お人好しそうな表情をした下女を見つめ、リチアはにっこりと笑って見せた。
「あなた、鏡を持ってない? それと、ハサミとか剃刀とか、できれば櫛なんかもあるといいんだけど」
「はい、持ってますけど‥‥‥」
下女は少し戸惑いながら頷いた。
「本当? 良ければ貸してくれない? もちろんお礼はするから‥‥‥そうね」
リチアが提案したお礼の内容を聞いて、下女はパァッと顔を輝かせた。
「――あら! 良いんですか!? 少しお待ちを!」
小走りに去っていく下女の嬉しそうな後ろ姿を見送り、リチアは満足げにほくそ笑んだ。
下女から道具を借りると、今度こそ真っ直ぐ寄宿舎へと引き返した。
スノウ本人から教わった通りに、迷わず彼の自室に辿り着くと、奥にあった丸椅子を部屋の中央に移動させた。
丸椅子に座ったリチアは、早速下女から渡された布袋から鏡を取り出し、じっくりと現在の己の顔を眺めた。
「こうしてよく見ると余計に残念度が高いわね」
特に髪形がいけない気がする。
全体的に重めで、もっさりとした印象だ。目元や顎のラインまで隠してしまうような長さに加え、丸三日眠っていたせいか寝癖でうねりまくってしまっていた。
「はっきり言って、野暮ったいわ‥‥‥邪魔じゃないのかしら?」
伸びっぱなしの毛先を指先でいじくりながらぼやく。大した輝きも無く、パサパサとしていて櫛通りも悪い。梳こうとして何度もブラシに絡まってしまう髪にやや苛立ちつつ、リチアは一度鏡を床の上に置いた。
一瞬躊躇った後、意を決して上衣を脱ぐ。団服をベッドに放りなげ、リチアは今度袋の中からハサミを取り出した。
「あんまり短すぎるのも今時じゃないかな」
鏡とハサミを交互に見つつ、そっと前髪にハサミを入れた。
――シャキン。
リチアは以降無言でハサミを動かし続けた。
「‥‥‥‥‥‥うん、かなり良いんじゃないかしら」
納得したところでハサミを止める。切り落とした髪をささっと片づけ、リチアは一旦部屋を出ると、これまたスノウに教えてもらった寄宿舎近くの水場へと向かった。
「決められた時間しかお風呂に入れないなんて。不便ねぇ」
なんでも風呂は共同で、使用回数は一人につき一日一回。昼か夜のどちらでも構わないが、決められた時間内に二十分程度で済ませなければいけないらしい。
残念なことに、今は入浴可能な時間帯ではなかった。
リチアは桶に水を汲み、渋々と冷たい水で髪の毛を濡らしていった。余分な髪を櫛で梳きながら落としていき、身体に纏わりついた分の髪も濡れた布で拭きながら綺麗にする。ついでに包帯を外したところで、ふと腹部に違和感を覚えた。
(う、これはまさか‥‥‥!)
下腹部から来る馴染みのある緊張感。そのもどかしい感覚に、リチアは慌てて臍の下を押さえた。
(予想はしてたけど。やっぱり嫌だわ‥‥‥)
入れ替わった事態を受け入れた時より覚悟はしていた、生物なら致し方のない生理的な発作である。しばらく悩みに悩んだ後、意を決して宿舎へと引き返そうと立ち上がったリチアだが、次の瞬間――ハッとある重大なことを思い出してしまった。
「‥‥‥そういえば私、もうすぐアレの日じゃない‥‥‥?」
色々あったせいか、すっかり忘れていた。
女子なら誰もが憂鬱になる――月のもののこと。やや誤差はあるものの、決まって三十日以内には始まってしまう、あの現象。それを思い出した途端、リチアは頭の中が真っ白になった。
異性に‥‥‥アレを見られる!?
考えただけで絶望だった。
(何でもっと早く気が付かなかったのよ! こんな大事なことをっ!!)
リチアは慌てて服を身に付けると、先ほどスノウと話した庭園へと急ぎ走ったのだった。
♢♢♢
「おかえりなさいませ。丁度良かった、沐浴の支度が整いましたよ」
ぐったりと肩を落として戻ってきたスノウに対し、ティティは冷静にそう切り出した。
「えぇ、あぁ‥‥‥はい」
スノウはどこか上の空でそれに応じた。
一刻程前と比べて明らかにげっそりとした様子のスノウ。ハインツとの面会で相当精神を削られたのか、力無くフラフラと歩いてきた彼はソファーの上に崩れ落ちた。
「結果はどうでしたか?」
ティティが歩み寄りつつ訊ねると、彼は額を片手で抱えながら顔を上げた。
「どうも何も‥‥‥旦那様の追求があまりにもしつこくて‥‥‥」
スノウは深い溜息を吐いた。
「事件がきっかけか、お嬢様に対して素直になってくれたのは喜ぶべきことですけど‥‥‥『もしお前に何かあったら私はこの先生きていけない!』とか、泣きながらそんな事を言われたらもう――」
「あぁ‥‥‥」
「お嬢様と約束したばかりなのに、うっかり正体を言いそうになりました」
「そんな事だろうと思ってました」
そんな小声と共に冷たい視線が肌に突き刺さって、スノウは打ちのめされたような顔で項垂れた。
「しかもここにきて突然の持病の告白はないですよ! いつ歩けなくなるかも分からない体だったなんて‥‥‥!!」
と、ガバッと顔上げて叫ぶスノウに、
「ただのぎっくり腰ですけどね」
ティティは冷静にツッコんだ。
「心中お察ししますけど、とりあえず大股開いて座るのはやめてくださいね、本当に」
棒読みでかつ刺々しく忠告するティティに、
「そうよ、私の身体でそんな隙だらけのみっともない姿は許さないわよ?」
クローゼットの扉が独りでに開いたかと思うと、中からリチアが現れた。
「お、おじょうさまっ!? なんでここに!?」
驚き過ぎて素っ頓狂な声を上げるスノウに、リチアは憮然とした態度で歩み寄り、仁王立ちで唖然と口を広げるスノウを見下ろした。
「あなたと会った場所について考えたらふと思い出したのよ。あそこの噴水のそばにここと繋がる隠し通路があるってことを‥‥‥それよりも、お父様には言わないでって言ったのに早速裏切るつもり? あと、少しは私として振舞う気は無いの? 人生に疲れ切ったおじさんみたいな姿をして、使用人に幻滅されたらどうするのよ?」
「じん‥‥‥お、おじ――!?」
絶句したスノウが岩のように硬直した。
「‥‥‥そんなふうに見えますか?」
「だってその通りの姿じゃないの。夢も希望も失ったような顔しちゃって。陰気臭いったらないわ」
自分自身から面と向かって説教をされる人なんて、世界広しと言えども僕だけではなかろうか。というか、自分の姿にそこまで言いますか。スノウは思わず黙りこくった。
「‥‥‥あれ、ちょっと待ってくださいお嬢様?」
と、スノウは正面に立った少年の顔をまじまじと見つめた。
「なに?」
「‥‥‥その頭、どうしたんですか?」
頭――正確に云えば髪型だった。
つい一刻前にリチアと会っていた時も思ったのだが、そろそろ適当に切らなければいうくらいの長さはあったはずなのに、今は随分とサッパリしてしまっている。後ろで軽く結べる程の長さは残っているが、それにしてもかなりの量が減っているように見えた。
スノウが問いかけにリチアは一瞬首を傾げ、それから「あぁ!」と察したように手のひらを打った。
「下女から道具を借りて切ったのよ‥‥‥もしかしてダメだった?」
「いや、ダメじゃないですけど‥‥‥お嬢様が御自分で?」
「そうよ? ていうか、貴方お給金はちゃんと貰ってるんでしょう? それなのにあの箪笥の中身は何なのかしら? 髪形と言い服と言いさすがに芋っぽすぎよ。もう少し身なりに気を使ったらどうなの?」
「芋‥‥‥」
「お嬢様、それはただの悪口です」
若干白くなったスノウを横目に、リチアは控えめな態度で口を挟んできたティティに視線を移した。
互いにジッと見つめ合う事数秒後、頷いたリチアに合わせて、ティティも分かったような顔で頷いた。
「状況はとっくに分かっているようで安心したわ。スノウの事、頼んだわよ?」
「――承知いたしました」
頭を下げたティティから視線を外し、再びリチアはスノウを見た。
「ところでスノウ。あなた、体調に変わったところはない?」
「変わったところ、ですか?」
「ほら、頭が痛いとかお腹痛いとか――そういうのはない?」
スノウは顎に手を当て、しばし考え込んだ。
「‥‥‥いいえ、特には」
「そう」
リチアは少し安堵し、チラッとティティに目配せした。
「良いことスノウ? 貴方は今“私”なの。つまり女性なんだから、男のときと違うのは当然。何事も動揺しないこと。それと、深く考えないでくれる? 変な気を起こされても嫌だし」
「し、しませんよっ! そんな!」
真っ赤になったスノウに、リチアはずいっと顔を近づけた。
「――ちょっ‥‥‥」
唐突な至近距離。己の顔だというのに、髪形がいつもと違うせいだろうか、妙に意識してしまった少年の顔に、スノウの中で心臓が大きく鼓動した。
「無よ。常に無を心がけるのよ。意識するのはダメ‥‥‥分かった?」
有無を言わさない圧を掛けられる。
「‥‥‥‥は、はい」
それ以外の返答をできる気がしなかった。
すんなり離れていったリチアから慌てて目を逸らしたスノウは大きく息を吐き出した。そこで初めて、今自分が呼吸を止めていたのを知ったのだが、どうしてそうしたのか分からず大いに戸惑った。
こんな感覚は初めてだった。シルベットから本気で叱られた時でさえこんなに緊張したりしなかったのにと考えて――ふと、「いや待て、つい最近身に覚えがあるぞ」スノウは我に返った。
(アレだ‥‥‥! 刺客からの殺気を感じた瞬間!)
はたとひらめいて。そうか、そうだったのか。一人で納得した。
(言葉ではああ言っていたけれど、お嬢様はまだ僕を信用できていないんだ。――そんなの当然じゃないか。だから変な企みを起こさないように念を押した。きっとそうに違いない! 危うくおかしな勘違いをしてしまうところだった‥‥‥)
浅はかな己を心の中で責めつつ、スノウはすっくと立ち上がり、今や頭一つ分は高いリチアの顔を見上げると素早くその場で敬礼をした。
「お嬢様!」
「うわ、なにっ?」
「旦那様に拾われたこの命、オーディン家の為に捧げると既に誓っております。お嬢様の命令を裏切るような真似は絶対に致しません!」
「う、うん?」
「それと女性であることを忘れずにこの身体を守り抜くという約束を遂行するのと同時に、目先の欲に動揺も意識もしないと誓います。ですから安心してください!」
「‥‥‥あ、うん」
いや、私が言いたいのはそういう事では無くて。生真面目な返答を聞き、リチアは言葉に窮してしまった。
「お嬢様、そのときは私が対処いたしますので‥‥‥」
結局、耳元でこっそりと呟いてくれたティティを信じることにした。
「まぁ、それはティティに任せるとして――もう一つ、大事な用事があってね?」
「用事?」
聞き返したスノウに、するとリチアはニヤリと笑んだ。
「そろそろ沐浴の時間だと思ったから‥‥‥ティティ、当然用意してあるわよね?」
「はい、勿論」
あたかも事前に示し合わせたような態度でティティが即答する。いつから持っていたのか、彼女はストールのような長さのある布を手に、じりじりとスノウに迫ってきた。
「‥‥‥それは?」
不穏な気配を察して後退りするスノウに、リチアは「そんなの決まってるでしょ」と答えた。
「文句は受け付けないから。ティティ! 早く縛って!」
リチアの号令と同時に、素早くティティがスノウの背後に回った。それはもう風の如く早業で目の前が布で覆われて‥‥‥逃げる隙など、一切無かった。