第1章 空蝉の空論 : 第6話 いつか誰かの悪役に
この世に生を受けた時から、私は悪役だった。
愛人の子供だから、見た目が変わっているから、気性が荒いから。
様々な理由をつけては私を嫌い、私をネタにして仲を深める人たちばかりだった。
同僚と仲良くなるために傷つけ虐げ、家族との団結を深めるために忌み嫌われ仲間外れにされる。そして、父に近付くためだけに私を産んだ無責任な母親。
みんな私を悪役にしたがった。
だから私は悪役になることにした。
泣いても笑っても、私は正義のヒーローになれない。
いつか、正義のヒーローに退治される。
今日も肌を刺すような強い夏の日差しが私を襲う中、夜行性の私は珍しく外に出ていた。
「式ノ籠君、お待たせ。」
式ノ籠君に先日誘われていた水族館へ行く為に、私は真昼間から外出する羽目になっていた。
紅さんの想い人である彼とふたりっきりで会う事に気乗りしなかったが、秘かに彼に想いを寄せている私は少しくらい良いよねという軽い気持ちで水族館に来てしまっていた。
「僕も今来たところだよ、さだめ。
来てくれて嬉しいよ。」
照れくさそうに頬を搔き、私から視線を外す式ノ籠君を不思議に思いながらも水族館の中へと足を進めた。
水族館の中は冷房のせいか、真夏だというのみ肌寒い。
寒さと薄暗さが、海の中に迷い込んだような感覚にさせる。
夏休みという事もあり、人が多い事は予想していたが何故だか水族館の中に人気は少なかった。
「人、夏休みなのに少ないね。」
「本当だね、夏休みだからこの街の人もみんな旅行に行っていてここに来る人も少ないのかも。ゆっくり回れるし、丁度良かったね。」
「そうだね。」
水で満たされた水槽に囲まれて、私たちは静かに笑った。
この水族館には色々な魚がいた。
淡水魚、深海魚、海水魚。
カラフルな色の魚、地味な色の魚、物に擬態する魚、暗いところでしか生活できない魚。
人間の様に、色々な性格や見た目をした魚がいる。
私も魚だったら、気持ち悪いと思われることもなかったのかな。
なんてことを考えながら歩いていると斐妥宗君に呼び止められる。
「斐妥宗君、どうしたの?」
「この間、夜に神社で会った事、覚えている?」
「うん、覚えているよ。」
「さだめが女性の悲鳴を聞いて走っていったあとを僕も追いかけていて、見てしまったんだ。」
静かに告げられるその言葉に心臓が慌ただしく鼓動する。
あの日カラーコンタクトとウィッグが取れて私の本当の姿は露になっていた、あの醜い姿を見られていたんだと焦り、暑くもないのに汗が額に滲む。
あの姿に幻滅されてしまった、そう思いぎゅっと目を閉じて拳を強く握る。
「さだめ、どうしてあんなことをしたの?」
「———…?」
容姿について触れられると覚悟していた私の思惑は外れ、予想していた言葉とは違う言葉を掛けられたことで一瞬困惑をしてしまう。
「さだめ、自分を傷つけるようなことはしないでほしい。
君が傷つくのは、悲しいんだ。」
不幸中の幸いなのか暗い神社の中で式ノ籠君は私の容姿に気が付いておらず、私の行動を窘めている様子だった。
「…どうして、その時に私を助けてくれなかったの?」
「すまない、まだ、覚悟ができていなかったんだ。
わがままで申し訳ないと思っている。
でも、いつか、近いうちに覚悟を決めるから、それまで待っていてほしい。」
「…覚悟?」
何の覚悟だろうかと疑問に感じて彼の目を見る。
まっすぐに、私の瞳を見つめて式ノ籠君は真剣な顔をしていた。
カラーコンタクト越しに赤い瞳を見られているように感じて、私は式ノ籠君の瞳をまっすぐに見つめ返すことができなかった。
「さだめ、どうか、自分を大事にしてほしい。」
私はその問いに答えることはできず、曖昧に笑って見せた。
そんな私を見た式ノ籠君はそっと頬に手を添えると優しく微笑んだ。
幸せな時間は永遠には続かない、そんなことはわかっていた。
それでも人間は祈らずにはいられない、この時間が永遠に続きますようにと。
「さだめ、今日はありがとうね。」
「こちらこそ、楽しかったよ。」
「今から部活だから送ってあげられなくてごめんね、気を付けて帰るんだよ。」
迎えの車に乗り込み名残惜しそうにしている式ノ籠君を見送ると、私も帰路に着く事にした。
帰路の途中にある河原では蝉の声がいつもより大きく聞こえた。
その蝉の声は発汗を煽るように不快で仕方ない。
ふと見上げた青天井には入道雲が広がっている。
夏は嫌いだが、綺麗な青空は好きだ。
あれだけ見たいと願った空だから。
「見たいと願った空…?」
ふと自分の思ったことに疑問を持ち呟いた瞬間、金属音があたりに響く。
見上げていた視線を正面を戻すと先日神社で会った男性たちが鉄パイプを構えて、私を上から下まで舐めるよう見つめていた。
「お礼参り、か。」
そうして今日も、この世界は私の平和を壊していく。
「さだめ。」
名前を呼ばれた気がして辺りを見回す。
血だ、足元が血の海になっている。
それに体の痛むところが痛みだし、両手の違和感にも気が付く。
「どうして。」
自分の両手は血にまみれていた、しかも自分の血ではない名も知らない誰かの血だ。
「また、自分の事を傷つけるようなことをしたのか。」
低く落ち着いた声、だがどこか怒りの感じる声が私を責め立てる。
「式ノ籠君、どうしてここに。」
彼の顔が見られない、人に怒られることは嫌いなんだ。
「なんでそんな馬鹿なことをするんだ。」
私が知りたい、どうしてこんなことをしたのか。
「君が傷ついて悲しむ人だっているのに、自分勝手すぎる。」
何かが目から滴り落ちる、これは一体何だ。
溢れだす激しく強い衝動は抑えきれず獣の様に血と争いを求めるその姿はきっと、化け物に見えたことだろう。
私はそんな自分が怖かった。
こんな化け物の私を助けてほしいと心が叫ぼうとするのを止め、代わりの言葉を吐き出す。
「ごめんなさい。」
頑張って作った顔はうまくできていたかわからない。
ただ、式ノ籠君はそんな私の顔をみて手を差し伸べてきた。
彼の手を取ると、式ノ籠君は何も言わずに私を彼の乗ってきたリムジンに乗せる。
リムジンは程なくして私たちを乗せて走り出した。
私が住む街を仕切る式ノ籠組の組長 式ノ籠 隆盛のひとり息子の式ノ籠 珀は私と違って大切に育てられている。
乗り心地のいいリムジンは式ノ籠君の為にこの場所に来ている。
私は実家に帰るときでさえ迎えをよこしてもらえないというのに。
何もかもが違い、住む世界が違うと言われているかのようだった。
乗り込んだリムジンにはすでに海外旅行から帰ってきた紅さんと式ノ籠君の後輩である尾流君が乗車していた。
紅さんと尾流君は共に血に塗れている私を見て一瞬固まっていたが、すぐに手当てをしてくれた。タオルで丁寧に血をふき取り、消毒を行い絆創膏や包帯を巻く。
そしてついに、手当てをする紅さんの手は私の手首に到達する。
「この包帯は一体何?」
鋭い質問が、私の心を刺す。
包帯の下がぎりぎりと締め付けられるように痛む。
「…これは自傷行為の傷、なのでしょう?」
「紅さん、私は…。」
「さだめ、手首を切ったところで死ねないってこと普通に考えてわかるよね?」
私の言葉を遮るように質問を続ける紅さんの顔は、尾流君や式ノ籠君には見えていないようだが、とても悪意に満ちていた。
「そんなことをして時間の無駄だと思わないの?」
その言葉を遮ろうとする尾流君を制止する式ノ籠君と、まるで勝ち誇ったかのような表情を浮かべて私の顔をまっすぐに見つめる紅さん。そんな2人の表情を見ていられなくなり尾流君を見るととても悔しそうに、そして悲しそうな表情をしていた。
あの時、あの日の教室の時と同じ、また誰も助けてくれない。
泣きそうになり、咄嗟に手の甲をつねる。
崩れそうになった心を必死に繋ぎ止める。
「今日はみんなでお泊り会でもして、気分転換しましょう。」
ぱっと笑顔でそう語りかけてくる紅さん、その意見に同意し静かに頷く式ノ籠君、俯き黙り込む尾流君、その光景はまるで地獄絵図そのものであった。
私の意見など聞こうとせず、この夏休みに思い出をたくさん作ろうと計画している式ノ籠君と紅さんが悪魔の様に見える。
私の意見も聞かないのになぜ、私がこの夏休みの計画に参加することになっているのか。
2人が建てている計画には不自然なくらいに必ず私の名前が出てくる。
そんな2人に悲しみを通り越し、苛立ちを覚えて思わず口を開いた瞬間だった。
「自分勝手すぎませんか。」
車内に作り出された2人の為の世界を壊したのは尾流君だった。
「どうしてあんな言葉をさだめ先輩に言ったのですか。
自傷は決して褒められた行動ではないですが、その行為に救われる者も存在するんです。
その行為を理解しようとせず、頭ごなしに否定するのは自傷行為に救われて生きている人を否定するのと同じ事です。
紅先輩は、さだめ先輩の事も僕の事も否定していることになります。」
その言葉に、私ははっとして葉風君の方を見る。
潤んだ彼の瞳、彼は自らの左手首を抑えて震えていた。
「…ごめんなさい。」
そんな葉風君を見てか、紅さんは不服そうにしながらも謝罪した。
彼女はきっと、自傷行為とは無縁な世界で生きており、体験したことがなかったのだろう。
気まずくなり視線を窓の外に移した。
今日は満月の夜、明るい都会の空には星が一つも存在していない寂しい空だ。
「どうした?」
しゅんとしていた私に式ノ籠君は心配そうに声をかけてきた。
「星が見たくなったの、満天の星空が。」
「そうか、この街にいる限り星は見えないよな。
ああ、せっかくの夏休みだ、満天の星空が見える田舎にでも泊まりに行こうか。」
「…いいの?」
約束だ、と式ノ籠君は微笑む。
すごく嬉しかった、満天の星空が見えること、誰かと共に過ごせること、孤独な夜を誰かと過ごせることを。
なんてことを考えている時だった、頭が鈍い痛みに襲われる。
あまりの痛みに唾を呑みこむことができず、口の端から唾液がだらしなく垂れる。
みんながこちらの様子に気付き、何かを口々に叫んでいる。
声を出そうとするが声は出ず、魚の様に口をパクパクとさせることしかできない。
ヒューヒューと喉から聞いたことのない音が鳴る。
右に曲がります、ご注意ください。
右に曲がります、ご注意ください。
右に曲がります、ご注意ください。
右に曲がります、ご注意ください。
身体が思うように動かずパニックになる私の脳内に、聞き慣れたアナウンスが響く。
身体が震える、うまく呼吸ができず、酸欠のせいか視界が歪む。
『 HAPPY END はまだですか? 』
響き渡るアナウンスの中で、たった一言、違う言葉が聞こえた瞬間、頭痛がさあっと引き、今までの不調が嘘だったように元の身体に戻る。
「さだめ、大丈夫?」
「あ、うん、何だろう、疲れていたみたい。」
平常を装い、俯きながら返答をする。
汗や唾液を急いでふき取り顔を上げると、皆は安堵の表情を浮かべていた。
式ノ籠邸に着き、リムジンから下車すると夏とは思えないほど肌寒かった。
寒そうにしている紅さんに、式ノ籠君は来ていた上着を羽織らせていた。
そのやり取りは幼馴染というよりは恋人の様だった。
まるでドラマを見ている気分になる。
見ているのに、近くにいるのに私だけはその物語にはいない。
仲間外れにされているかのような疎外感。
無意識のうちに芽生える黒い感情に俯いている私の耳に、紅さんと式ノ籠君の驚く声が聞こえ顔を上げる。
式ノ籠邸の目の前の道に人が倒れている。
倒れている人の服装や髪型には見覚えがある。
「斐妥宗君…?」
走って倒れている斐妥宗君に駆け寄り抱き上げると、彼の顔には血の気がなかった。
「斐妥宗なのか?とにかく急いで俺の部屋に連れて行こう。葉風、手を貸してくれ。」
「はい。」
式ノ籠君と尾流君は斐妥宗君を支えると式ノ籠邸に入っていき、そんな3人を追い紅さんも屋敷の門をくぐっていった。
私は置いて行かれ、その場に立ち尽くしていた。
ひとり立ち尽くす私は、夕焼けに染まる空を仰いだ。
本当はその感情に気付いていた。
でも私は忘れたふりをして、それを心の奥底にしまっていた。
幼い頃から気性が荒くすぐに暴れ怒っていた私は、ある日とうとう精神異常者という烙印を押され、実家の地下牢に治療という名目で軟禁された。
父は娘が精神異常者となったことに目を背け、監禁され苦しむ私を助けてくれなかった。
父は私の助けを求める手をとることなく、軽蔑の眼差しを向けてきた。
檻の外から、何も言うことなく、ただひたすら私を見つめてきた。
監禁された日々の中で、私はより醜い感情を抱えることになった。
自傷行為を繰り返しボロボロになった手足は拘束され、刺激を与えないよう目隠しをされ、身体が傷つかないよう布団以外何もない暗くてじめじめとした部屋に閉じ込められ、たったひとりで孤独な空間と悠久の様な時間を過ごした。
それは私の心を壊すのには十分すぎる環境と時間だった。
見上げた夕空はまるで私のことを咎めているように静かに見つめてくる。
愛人の娘。
たったそれだけの肩書は、私の心を永遠に縛り付ける。
姉からは馬鹿にされてあざ笑われ、兄には言葉を返してもらえずただ独り言のように同情の言葉をかけられた。
実家の地下牢に閉じ込められた幼少期に、たった一度だけ逃げ出したことがあった。
行く当てもなく、気の向くままに走って逃げた。
十分な食事を与えられていなかった私は程なくして力尽き、見知らぬ道に行き倒れた。
その日、私は初めて夕焼けを見た。
体力も尽き極度の空腹で倒れ仰いだその夕焼けは、今でも覚えている。
禍々しいほど赤く、気味の悪い空だったと。
それは悲嘆の逢魔が時の頃。
きっとまた思い出す、本当の記憶を。
「さだめ先輩、どうしましたか?」
空を仰いでいる私に、尾流君が声を掛けてくる。
「待っていても、ついてきていない様でしたので見に来ちゃいました。」
「ごめんね、考え事をしていたんだ。」
尾流君は弱々しく笑っていたが、不意に真剣な顔になり私と向き合う。
「先程、リムジンであった事は気にしないでください。
紅先輩や式ノ籠先輩は、自傷行為をしたことがないから僕達の気持ちがわからないんです。」
尾流君は着ている服の袖をそっと捲り上げる。
そこには深々と鋭利な刃物で切り付けられたような傷が複数存在していた。
「僕は雉鳴高校に来るまで、集団でいじめられていました。
親にもある理由から見放され、学校ではクラスメイトだけでなく先生や先輩にまで精神的に辛い事を言われて、時には暴力も振るわれました。
生きていることが辛くて仕方なかったです、明日を迎えることが恐ろしくて仕方なかったです。でも、死ぬ勇気もなかった。
僕は、生きていることを自覚したくて、まだ生きていられると思いたくて、自傷行為をしました。」
「…辛かったね。」
「先輩も辛かったはずです、友達ですらあんな風に言って自傷行為を受け入れようとしないじゃないですか。
僕に何ができるかわかりません。
先輩の辛いと思っている事をすべてわかっているわけでもありませんが、でも、少しでも力になれるのであればいつでも言ってください。」
「ありがとう。でもね、まずは尾流君の話を聞かせてほしいな。
人の痛みに気が付ける君は、辛い思いをいっぱいしてきたはずだから。
そんな君から、まずは辛い気持ちを吐き出してほしい。」
そんな私の言葉に、葉風君は目を潤ませた。
『さだめ先輩、僕の事は葉風って呼んでください。
…また今度、ゆっくり話しましょう。
でも今は斐妥宗先輩の様子を見に行きましょう。」
「それもそうね。」
私たちは顔を見合わせて少し笑うと、灯りの灯る式ノ籠邸に入っていく。
式ノ籠邸内部では、使用人であろう人たちが慌ただしく走り回っていた。
その様子に不安を覚えた私は、急いで斐妥宗君の運ばれた部屋へと向かい、襖を勢いよく開けた。
寝かされている斐妥宗君は寝息を立てていなければ死体にだって見えてしまうほどに血の気がなかった。
寝かされている斐妥宗君のそばに葉風君と共にそっと座り眠っている彼を観察していると、式ノ籠君が襖を開けて部屋に入ってくる。
「あれ、紅さんはどちらに?」
「ああ、今お手洗いに行っているよ。」
私の問いにそう答えながら、式ノ籠君は私の隣に座る。
「斐妥宗はおそらくは貧血だと思う。
呼吸も正常だし、顔色もよくなってきたから問題はないと思うよ。」
「そっか、命には別条がないみたいで良かった。
私、今日は帰るね。なんだか疲れちゃったみたい。」
「柘榴はお泊り会する気満々だぞ?」
「本当は泊っていきたいんだけどね、斐妥宗君の事もあるし、また今度にするよ。」
そう静かに言い残し、私はゆっくりと式ノ籠邸を後にする。
式ノ籠邸の門を出ると、夕焼けに染まる空がまだ私を見つめていた。
私は行く当てもなく、ふらふらと歩き出した。
ぼんやりと何も考えずに歩き続けている私の頬に、心地の良い風が当たる。
その風には塩の臭いが混ざっていて、私はふと周りを見渡し誘われるように足を進める。
気が付くと海岸に来ていた。
青い海を見つめていると、心が和やかになる気がした。
この青い海を見つめていたら、私の赤い目がいつか青い目になるんじゃないかと幻想を抱いていた頃があった。
そんなこと、あるわけないのに希望を抱いていた。
カラン。
金属音が聞こえる。
「嗚呼、飽きないね、神様も。」
気が付けば柄の悪そうな男性たちに囲まれていた。
神様が赦してくれないから、こんな試練を与えられるのか。
赦されようと祈るふりをして、私は口の端を釣り上げた。
赤い血飛沫、飛び散る唾液。
混ざりあう獣の様な呼吸と風の音。
何かのきしむ音と金属の擦れる音。
頭を殴られても止まらない激しい衝動。
人を傷つけ快感を覚える、これは本当にわたしなのか。
違う、これは私じゃない。
誰だ、お前は誰だ。
私はお前が怖い。
気が付くと私以外動くものがなくなっていた。
地面も空も、赤く染まっていた。
「私はまた、こんなバカげたことを。」
俯き、目を覆う。
ふと目に光がうつる、それは携帯電話の着信を知らせるランプだった。
そのランプは式ノ籠君からの不在着信を知らせているものだった。
何度もかかってきていた電話の不在着信を見て、何かが切れたように目から涙がこぼれた。
「怖い、私が怖いよ。」
携帯電話を握り締めながら、何度も何度も弱々しく呟いた。
怖くて心細くて、自分が自分じゃなくなるのではないかと怯えていた。
「見つけた。」
聞き覚えのある声が、背後から聞こえた。
振り返ると怖い顔をした式ノ籠君と息を切らした斐妥宗君が立っていた。
「お前、また喧嘩をしたのか。」
眉間に皺を寄せ、いつもより低い声で式ノ籠君は問いかけてくる。
「違う、私は、私は…。」
返答しようと声を出すが、どう弁解するべきか言葉が思い浮かばない。
そんな私を見た式ノ籠君は、一歩ずつ私に近づいてくる。
「来ないで。」
近づかれ、泣いている汚い顔を見られるのが嫌で、彼を拒む。
「お願い、近づかないで。」
怯える、今、私の目にカラーコンタクトはついているだろうか。
赤い目が見られてしまうのではないか。
彼を拒絶する言葉が、意図せず口からこぼれると同時に、当たりに乾いた音が鳴り響く。
遅れたように私の方がヒリヒリと痛みだす。
頬を叩かれた、式ノ籠君に。
どうして。
どうしようもないほどの悲しみと、惨めさが私を満たし、重苦しい無言の空気に耐えきれず、私はその場から逃げた。
涙が視界を濁らせ、私は何度も転び、そのたびに立ち上がると走り続けた。
手足が腫れて大量の血が傷口から流れ出していてもその足を止めなかった。
私の咽び声が静かな路地裏に響く。
自宅マンション付近には式ノ籠君や紅さんが私を探し回っていて近づけず、行く当てのない私はいつかの踏切のあるあの路地裏で小さくなって震え泣いていた。
ポケットの中にある携帯電話は着信を知らせるために震え続け、私を呼んでいる。
私を放っておいてほしい、そう願ったがその思いは叶えられなかった。
「さだめ。」
その声に身体が勝手に反応し、足が震える。
「斐妥宗君、私のことは放っておいて。」
怖くて足のすくんだ私はそう懇願するしか方法がなく、目を合わせない様に顔を背けた。
「守ってあげられなくてごめんね。」
何故か泣きそうな声で謝罪する斐妥宗君に私は何も返事ができずにいた。
「おかしいよね、こんなままごとみたいなことをして。
さだめの為のゲームのはずなのに、君がどんどん傷ついていくのはおかしいよね。
…こんなゲーム、いっそのこと壊れてしまおうか。」
怒っている様にも泣いている様にも聞こえる斐妥宗君の声に驚き彼の顔を見ると、斐妥宗君は不敵に微笑んでいた。彼は私と目が合うなりその青白く長い指で私の首を絞める。
「君は本当に可哀そうな人だ、知らないうちに人生を無茶苦茶にかき乱されて。」
私なんかよりもずっと苦しそうな顔をして、斐妥宗君は私を見下ろす。
「可哀そうなのは私じゃなくてあなたの方よ、斐妥宗君。」
咄嗟に出た私のその言葉に、斐妥宗君は顔をひきつらせて固まった。
「私は自分の事を可哀そうだなんて思って生きていない。
斐妥宗君、あなたは一体何に苦しんでいるの。」
私のその言葉に、斐妥宗君は一筋の涙を流した。
「ごめんね、僕は最低な事をしてしまった。」
斐妥宗君は小さく震えながら、首を絞めていた手を離した。
「…斐妥宗君、さっき言っていたゲームって一体…。」
先程の発言について斐妥宗君に尋ねようとした時だった、私を呼ぶ声がどこからか聞こえてくる。
今思えば、斐妥宗君の行動は時間稼ぎだったのかもしれない。
そう、式ノ籠君が来るまでの時間稼ぎ。
「式ノ籠君、嫌だ、来ないで。」
じりじりとその場から後退る。
「落ち着け、さっきは叩いてすまなかった。」
なだめようと両手を上げながらも近づいてくる式ノ籠君。
頭は様々な思考でパニックになり、視界が揺れる。
呼吸がうまく行えず、首を引っ掻き来るな、来るなと叫ぶ。
そんな私の様子に驚く式ノ籠君が視界に映る。
彼の顔を見て、実家で起こった出来事がフラッシュバックする。
「嗚呼、嫌、もうあんな牢屋に戻りたくない。何も見えない、動けない。縛られている手が、腕が痛いよ。暗い、寒い、苦しい。汚い、臭い、辛い。助けて。私は精神異常者じゃない、私はおかしくない。助けて、痛い、苦しいよ、ママ。ママ。ママ。ねえ、ママ。どこにいるの。返事して、ママ。ごめんなさい。悪い子でごめんなさい。いい子にします。ここから出して。ごめんなさい。ごめんなさい。ママ、ごめんなさい。寂しいよ。」
壊れたおもちゃの様に言葉を繰り返す私を、式ノ籠君と斐妥宗君はただただ宥め、抱きしめていた。
言葉を繰り返し続け、やがて酸欠になった私の意識は斐妥宗君の頬から流れ落ちる涙を見て、途切れた。
昔から暴れては自傷行為を繰り返す私を見かねた母の手により、実家の地下にある牢屋に閉じ込められた。
母もヒステリックをよく起こしており、そんな母に似せまいと牢屋に閉じ込めその癖を強制させようとしていた。
いつ人を殺してもおかしくない私を恐れるのは当然のことだった。
おかしいことではない、わかっている。
私の血で赤く染まった檻の中で姉に嘲笑われ、女中にいじめられ、身も心もボロボロになっていった。
私が怖かったから誰もが見て見ぬふりをした。
その頃にはもう限界が来ていて、隙をついて檻から逃げ出した。
行く当てもなく疲れ果て、行き倒れて見上げた自由な空は私にとってかけがえのない、一筋の希望だった。
意識を失い倒れた私はマンションの自室のベッドに運ばれ、ほどなくして目を覚ました。
「…。」
ベッドの両脇には式ノ籠君斐妥宗君がいて、目覚めた私を心配そうに見つめていた。
目が覚めても独りぼっちじゃない、そんな思いについ涙が零れて嗚咽をする。
そんなおかしな私をみて、ふたりは何も言わずに私の手を握り続けてくれていた。
気が付けば私はぽつりぽつりと言葉を零していた。
化け物の様に扱われ蔑視されて怯えるのはもう嫌だ。
愛人の子だと、軽蔑しないで。
私を利用しないで。
独りぼっちは嫌だ、私は幸せになりたい。
お願いだからもう、酷いことをしないで。
私を閉じ込めないで。
「もういいよ、もういいんだよ。」
そっと、私を包み込む斐妥宗君。
「辛い事を思い出させてごめん。」
優しく頭を撫でる式ノ籠君。
「もう君は自由なんだ、もう幸せになっていいんだよ。」
君はもうあの檻の中にいない、ここにいる。
僕達と、新しい思い出を作ろう。
「おかえり、さだめ。」
ふと、私を抱きしめる人数が増えていた。
紅さん、、葉風君。
皆、優しい顔をして私を見つめていた。
「紅さん、葉風君…、皆さっきの話を聞いていたの…?」
「柘榴って呼んで、これから私たちは本当の親友になるのだから。」
その言葉に大粒の涙が目から零れる。
「もういいんですか、幸せになっても、いいんですか。」
嗚咽が混じりながらも私はその言葉を言い切った。
今までずっと言いたかったこと、許されたかった事。
「いいに決まっているでしょう、幸せになっちゃいけない理由なんてないでしょう。」
強気に言い放ち、ハンカチを差し出す紅さんの手にそっと触れる。
「本当に?」
喜びに口元が綻んだ。
もう、許されていいんだ。
私たちはその日、全員で私の家に泊まることになった。
皆が寝静まった深夜に私はなんだか眠れず、喉の渇きを潤そうとキッチンに向かうことにした。
みんなを起こさないように静かにドアを開けると、ベランダで誰かが離している様で私は気づかれない様にキッチンに向かった。
「明、こんなところにいたのか。」
「珀君、どうしたの。」
「不安に持っているかと思って、柘榴のことを。」
そりゃあそうだ、と斐妥宗は答える。
「色恋沙汰はどうにもできない、柘榴も納得してくれているさ。
しばらくの間だって、ね。
まあ、下手したらヒステリックを起こすかもな。」
「勘弁してくれ、あの人のヒステリックは洒落にならない。」
2人はしばらくの間、押し黙った。
「もうすぐで終わるな。」
その言葉にふたりは顔を合わせると共に笑っていた。
喉の渇きを潤した私は、そんなふたりの他愛もない会話になんだか嬉しくなり微笑むとふたりに気が付かれない様に寝室に戻った。
この世に生を受けた時から、私は悪役だった。
愛人の子供だから、見た目が変わっているから、気性が荒いから。
様々な理由をつけては私を嫌い、私をネタにして仲を深める人たちばかりだった。
同僚と仲良くなるために傷つけ虐げ、家族との団結を深めるために忌み嫌われ仲間外れにされる。そして、父に近付くためだけに私を産んだ無責任な母親。
みんな私を悪役にしたがった。
だから私は悪役になることにした。
泣いても笑っても、私は正義のヒーローになれない。
いつか、正義のヒーローに退治される。
ありがとう。
これで正解、間違っていないよ、ハッピーエンド。
悪役は正義のヒーローに退治されました、そういうことでいいじゃないか。
世界はそうして平和になるのだから。




