第1章 空蝉の空論 : 第5話 空蝉の命乞い
平和だった日常たちが崩れていき、その破片たちは無情にも青天井から降り注いで小さなこの身体を引き裂く。
これは犯した罪への罰なのか、それともこうなる事が運命で決まっていてそのために今まで好きに生きさせていたのか。
散り散りになった日常の破片によって無様に地面に押し付けられて、それでも生きようと必死に藻掻く。
地面を引掻く爪は割れても尚、その手を止めない。
それはまるで夏の終わりの蝉の様に生に執着していて、滑稽であった。
蝉の声よりも遥かに耳を劈く阿鼻叫喚が、救いを与えようと差し出される蜘蛛の糸が、全ての出来事がここを地獄なのよと私を揶揄している様だった。
つい先日、長い夏休みが始まった。
私はひとり、巣にこもりソファーの上でアイスキャンディーを齧ると死んだ魚の様な目でぼんやりとTVの画面にうつる映像を眺めていた。
紅さんは海外旅行、式ノ籠君は部活動の試合で忙しい、斐妥宗君も来年には決まる進路の為に多忙を極めていた。
一方、私はといえば帰宅部の上に実家に帰る用事も特段なく、宿題も終わっていてことがない。
つまりとてつもなく暇なのだ。
廃人になってしまうのではないかという程暇な私は、暑さがマシになる夜を待つと行く当ても決めぬまま部屋から飛び出した。
青葉生茂る山とのどかに流れる川に挟まれた長い道の途中に赤い名神鳥居の並ぶ大杉稲荷という小さな稲荷神社がある。
入口には4つ鳥居が並んでおり、入り口から続く道は途中で二又に分かれて上に続く階段を昇れば狐の像が置かれている小さな本殿があり、二又の道の右の道に進むと手水舎と末社が2つ並んでいる。
一見、とても小規模で誰も寄り付かない寂れた神社だが、一つでも鳥居をくぐると周りの空気が一瞬にして変わる。
夏だというのに冷たい空気で満ちる神社の中。
手水舎で手と口を清め、上の本殿へと続く屋根で覆われたコンクリートでできた階段の一段目に足を置く。
心臓が暴れて、ドクドクと脈打つ音が聞こえる。
まるで足が石になってしまったかのように重い。
二段目、三段目、四段目。
五段目に足を置こうとしたその瞬間、階段の下の方から軽いものが地面に落ちる音がした。
竹箒だ、竹箒が落ちる音。
鼓動の音が先程よりも早く大きくなり、汗が頬を伝い落ちる。
階段の屋根の柱には物が置けるようにスペースが設けられており、そのスペースには神社の手入れをするための道具が置かれていたのを上り始めた時に目視で確認していた。乱雑に積まれた道具の一番上には竹箒が置かれていた。
だがどうにもおかしい、竹箒が落ちるはずがないのだ。
無風のこの神社、道具を置いていたスペースは屋根と柱の間であり、今私が上っていた階段とその柱は接していないので振動で落ちたという事も考えづらい。
この神社は先程確認したように人がいないので意図的に落とされたわけでもない。
私はその場にへたり込み、恐怖のあまり震えていた。
恐怖という感情に支配されているにも関わらず、私の表情は無表情のまま変わってくれることはなかった。
この神社は昔から幽霊が出ると噂の心霊スポットであった。
何処にでもあるような幽霊話、初めて聞いて感じたことはこんな噂話を信じるなんて、おめでたい頭を持った奴らばかりだな、と正直心の底で馬鹿にしていた。
そんな自分を今では恨みすらしている。
「さだめ?」
怯え震える私の耳に聞き覚えのある低くて落ち着いた声が聞こえる。
式ノ籠君だ。
声が聞こえた階段の上の方を見上げると、袴姿の式ノ籠君が私を見下ろしていた。
「女の子が夜に出歩くのは危ないよ、しかもこんな人気のない神社にいるなんて。」
「…心配ありがとう、式ノ籠君こそこんな時間にここで何をしているの?」
「ジョギング中にこの神社の前を通りかかって、お参りして帰ろうと思っていたらさだめが来たんだよ。」
そうなの、とそっけなく返事をして先客がいたことで気まずくなり力を振り絞って立ち上がると引き返そうとしている私の手を式ノ籠君が掴み引き留めてくる。
「夜で歩くのは危ないって言われたから帰ろうとしているんだけど、何か用?」
「家まで送るよ、こんな時間に女の子が一人で帰るのは危険だ。」
全く離す気のない式ノ籠君の手と、家に送るという強い意志に負けて家まで送ってもらう事を渋々許可した。
夏の生温い風が頬を撫でる。
仰いだ空には星が一つもなく、月だけが私たちを見守っている。
「さだめ、前に約束したこと覚えてる?」
「約束?」
ふと問いかけられ、驚き式ノ籠君の顔を見つめる。
「夏休みにふたりきりで出かけようって言ったこと。」
ああ、と彼に依然一緒にどこかに出かけようと提案されたことを思い出す。
「よかったら来週、水族館に行かないか?
父の知り合いに水族館のチケットを貰ったんだ。」
「水族館か。
いいね、水族館好きよ。」
その私の返事に、式ノ籠君は目に見えて嬉しそうな顔をしていた。
「あれでしょ、紅さんの相談がしたいんだよね?」
「———…え?」
私は無意識のうちに心の声をそのまま口に出してしまっていた。
その言葉に式ノ籠君は青ざめ、場の空気が凍り付く。
「…あれ、おかしいこと言ったかな?」
そんな私の言葉に返事ができないほど式ノ籠君は動揺していて、目を泳がせている。
紅さんと式ノ籠君は誰の目から見ても両想いそのもので、今回、式ノ籠君と私が二人きりで会うのも紅さんについての相談だと思い込んでいた。否、思い込もうとしていた。
…だって、私も式ノ籠君に想いを寄せていたから。
期待をして、そうでなかったときに絶望して落ち込みたくなかったから。
凍り付いた空気に肺が悲鳴を上げ、この場から早く逃げ出したいと身体が震える。
どうしようかと汗の滲む掌を握り締めた時だった。
甲高い悲鳴が、夜道に響く。
その声は先程までいた神社の方から聞こえてきたようだった。
式ノ籠君との間に流れる空気感に堪え切れなくなった私は、式ノ籠君の制止を振り切って神社の方に足を向け走り出す。
「いや、もういや…。」
煙草の臭いで淀む空気と暗い神社の本殿の裏で、女性が3人の男性に絡まれ身体を震わせて小さくなっていた。
男性の締まり切っていない口からだらしなく垂れる舌と唾液、黄ばんだ歯が女性を酷く怯えさせているようであった。
女性は助けてと叫ぶ、人気のないこの神社で叫んでも意味がないと知っていても。
助けを求めてもだれも来てくれないことに絶望したのか、女性は固く目を閉じた。
「そう、そのままずっと目を閉じておくといい。」
女性を取り囲む男性の筆頭に飛び蹴りを食らわせる。
男性は不意打ちの攻撃に対応できずに軽々と吹っ飛ばされ、唾液を撒き散らしながら地面に叩きつけられる。
いつの間にか目を開けていた女性はそんな光景に戸惑い、口ごもって言葉にならない声を発していた。
そんな女性を見て、失せろ、と冷たく言い放つ。
一度びくりと身体を震わせると、ゆっくり立ち上がり女性は暗い神社の神殿の裏から、賑やかで明るい街の方へと逃げていった。
「ヒーロー気取りかお嬢ちゃん。」
男たちの標的はすっかりと私、祀奇乃櫻 定へと変わっていた。
そんな男たちを愉快そうに笑うと殴り掛かる。
アタシはダークヒーロー。
黒くくすんだ神殿に鮮やかな血の赤い色が飛び散る。
心の奥底から湧き出る強い破壊衝動、殴り殴られ獣の様な呼吸を肩で行う。
殴られたせいか、いつの間にかカラーコンタクトは失くし、ウィッグも取れてしまっていた。
足元にひれ伏し怯える男達をこの赤い目が捕らえ続ける。
男達の怯えた目は私の破壊衝動を強くさせ、もうひと暴れしようと振り上げた拳を誰かが掴んだ。
「…斐妥宗君?」
切なそうに私の拳を掴む斐妥宗君、そんな彼を見て我にかえる。
「ごめんなさい、ごめんなさい。」
壊れた人形の様に同じ言葉を繰り返す。
そんな壊れた私に彼はひたすら大丈夫だと囁いてくれた。
「疲れただろう、もう帰ろう。」
斐妥宗君は血や涙で汚れた私の服を隠すようにパーカーを羽織らせ、被っていた帽子を私に貸してくれた。
斐妥宗君は優しく私の手を取ると、マンションまで付き添ってくれた。
「斐妥宗君、パーカーや帽子を貸してくれてありがとう。」
「いいんだよ、気にしないで。」
「ねえ、斐妥宗君、聞いていい?」
私はふと、足を止めて斐妥宗君に問う。
「私のこの髪と瞳を見て、怖いとか気持ち悪いとか思わないの?」
「思わないよ、どんな姿でも君は君だ。」
即答だった、戸惑うことなく私の瞳をまっすぐ見つめて、斐妥宗君はやさしい声でそう答えた。
「僕からも一ついいかな、さだめさんはどうして式ノ籠君の事が好きなの?」
「———…え、なんで知っているの?」
私のこの想いは誰にも明かしたことはなかった、友人と同じ人を好きだなんて口が裂けても言えるはずがなかったから。
「見てたらわかるよ、きっと皆、さだめさんの事をよく見ていないから気づかないんだ。
…で、どうして好きなの?」
「…、彼はとても優しい人なの。
いじめられている人を放っておけなくて庇って殴られたり、
困っている人に気が付いては助けたり。
この間、法華津君と揉めた時だって、庇ってくれたのは式ノ籠君だけだった。
見返りを求めない彼の優しさに、私はきっと惹かれているんだと思う。
…でも、こんな化け物みたいな私の姿を見たら、
いくら優しい彼でも軽蔑の眼差しを向けるんでしょうね。」
「…僕がそうであるように、きっと彼も君の容姿だけで軽蔑する様な事しないよ。」
優しい彼の微笑みに心がじんわりと温まっていくのがわかる。
私の住むマンションの前に到着すると、斐妥宗君にお礼を言って別れた。
鍵を開けて、見慣れた自分の部屋に一瞬安堵したが、何か違和感を覚えて急いで部屋の中に入った。
綺麗にしていた部屋は破り捨てられた紙の残骸が散らばり、本棚や引き出しに入っていた書類や本が荒らされてぐちゃぐちゃになっている。
「なに、これ…。」
慌てて部屋の中を確認したが誰もおらず、侵入したものはすでに部屋から去っている事は確実であった。
いきなりの事に怖くなった私は再度部屋のドアとチェーンがかかっていることを確かめると、部屋から何がなくなっているのか確認を始めた。
確認してみるとノートや本などの紙類ばかりを荒らされていて、何故か通帳や印鑑等の金品は残されたままであった。
破られていて何の書類がなくなったかわからないが、確実になくなったのは私が紅さんの手帳から拝借した私のスケジュール表だった。
金品が残っていることから空き巣の可能性は低いと言えるだろう、そうなれば、嫌がらせかストーカーという事になる。
しかしこれまで生活してきて、ストーカーがいることを自覚したことがない。
理由のわからぬ恐怖からしばらく私はその場から動くことができずに立ち尽くしていた。
その夜、一睡もすることなく朝を迎えることとなった。
平和だった日常たちが崩れていき、その破片たちは無情にも青天井から降り注いで小さなこの身体を引き裂く。
これは犯した罪への罰なのか、それともこうなる事が運命で決まっていてそのために今まで好きに生きさせていたのか。
散り散りになった日常の破片によって無様に地面に押し付けられて、それでも生きようと必死に藻掻く。
地面を引掻く爪は割れても尚、その手を止めない。
それはまるで夏の終わりの蝉の様に生に執着していて、滑稽であった。
蝉の声よりも遥かに耳を劈く阿鼻叫喚が、救いを与えようと差し出される蜘蛛の糸が、全ての出来事がここを地獄なのよと私を揶揄している様だった。
飛び散った赤が、白い花を赤く染め上げる。
貴女は憎悪と後悔の感情を込めてあたしだったものを睨み、貴方は憎悪と復讐の感情を込めて彼女だったものを睨んだ。




