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第1章 空蝉の空論 : 第4話 私を別つ運命


 不幸の数だけ幸せがあると、いつか誰かが言った言葉を私は子供ながらに信じていた。

 だからどれだけ不幸でも、不遇ふぐうでも、孤独であっても踏ん張って生き続けていた。

 きっとその先に抱えきれないほどの幸せが、私を待っていると信じて。


 そんな私の世界が壊れた。

 気づかないうちに私がふたつにわかれた。

 そのどちらも私であり、ふたつでひとりの私だった。

 崩れ行く日常の中で、私は必死に生きようと手を伸ばした。

 こんな私でも受け入れてほしかった。

 私がここで生きてきた意味を、教えてほしかった。

 今まで生きてき中で見いだせなかった、生きる意味を教えてほしかった。

 私はどうして生かされたの?

 悲しいという感情、切ないという感情、虚しいという感情。

 そのすべてが混ざりあって、実在しない心を黒く染める。

 

 


 夏休みまで残る登校日が1週間を切り、校内は歓喜の声に満ち溢れつつあった。

 法華津のいない日常が私の中でも普通になりつつあった今日、友人たちは夏休みの旅行の計画を立てながら和気藹々わきあいあいと話している。


 「柘榴は今年も夏休みの間は海外に旅行に行くのか?」

 「そう、家族全員でヨーロッパに2週間ほど行く予定よ。

  珀や斐妥宗君は夏休みどう過ごす予定?」

 「僕は習い事や塾で忙しい夏休みになりそうです。」

 「斐妥宗君はクラストップの成績だもんね、夏休みも気が抜けないね。」

 「俺は夏休み中はずっと部活だな。」

 「もうすぐで大会だもんね、がんばれ剣道部エースの珀。

  さだめは夏休みの間は何して過ごすの?」


 「…私は特に予定ないかな。」


 紅さんや式ノ籠君は、私が実家と仲が良くないことを知らない。

 普通なら部活や家族と過ごす夏休みに全く予定がない事にふたりとも戸惑っていたが、すぐに他の話題で掻き消されていった。


 「そうだ、私が旅行から帰ってきたらみんなでどこか遊びに行こうよ。」

 「お、柘榴にしてはいい提案するじゃん。」

 近くで話を聞いていた式ノ籠君が紅さんの提案に乗り楽しそうに笑う。

 「もう、その言い方は何?喧嘩売ってんの?」

 「おお、怖い。」

 茶化す式ノ籠君と顔を赤くしながら怒る紅さん。

 この2人の関係もこの夏でそろそろ進展してほしいところだ、と2人のやり取りを見ながらため息をつく。


 「そういえば次移動教室でしたね、そろそろ向かいませんか?」


 時計を見ながら斐妥宗君は提案をする。

 斐妥宗君は早めに行動をしないと落ち着かない性格で、おそらく厳格げんかくな両親の教育の賜物たまものであろうとうかがい知れた。

 斐妥宗君の言葉に紅さんや式ノ籠君は同意して教材の準備を始める。


 「お手洗いに行きたいから、みんなは先に行っておいて。」


 移動中も夏休みの間の話で持ち切りだと予想が付いた私はお手洗いに行きたかったわけではなかったが、話題についていけない気まずい気持ちがあったのであえて別行動をすることにした。

 トイレで数分何をするでもなく時間を潰すと、人の居なくなった教室に入り教科書やノート等を用意する。


 準備が整い教室から出ようとした時、換気の為か開いていた窓から強い風が教室に入り込む。

 強い風にびっくりして動きを止めた私の視界に、紅さんの机の引き出しから小さな手帳がその風のせいで落ちるのが見えた。

 その手帳は紅さんがいつも大事に持ち歩いているもので、教室に置いてあるのが珍しくてつい手にとってしまう。

 手帳を手に取ったものの勝手に中身を見るという非常識な事をする気もなく机に戻そうとした時、手帳から折りたたまれたA4サイズの紙が床に向かって落ちる。

 見る気はなかったが、その紙は風のせいで勝手に開き書いてある文字が目に写ってしまう。



 『 祀奇乃櫻 定 7月7日 スケジュール 』



 「…え?」

 私の名前が書かれていることに驚き、その紙を拾おうとした手を一瞬止める。


 「さだめ、準備できた?」


 誰もいない唐突に声を掛けられたことにびくりと身体が跳ね上がり、咄嗟とっさにその紙と手帳を私の持っていた教科書の裏に隠す。


 「式ノ籠君、先に行ったんじゃなかったの?」

 「いや、忘れ物をしたから取りに帰ってきたんだ。

  一緒に行こうよ。」

 自分の席の引き出しを探る式ノ籠君にバレない様に手帳を紅さんの机に戻し、何事もなかったかのように式ノ籠君に駆け寄る。


 「珍しいね、忘れ物なんて。

  式ノ籠君はいつもしっかりしているのに。」


 その言葉に式ノ籠君は自分の席の引き出しを探る手を止める。


 「…忘れ物をしたなんて、本当は嘘なんだ。

  君と、さだめとふたりきりで話したくて。」


 そう呟く式ノ籠君は、いつも他の人が取り巻きに居て話しかけられなかったと続ける。

 

 「夏休み、予定がないんだったら、ふたりでどこかに遊びに行かないか?」


 その問いに戸惑い、言葉が出てこない。

 式ノ籠君は紅さんの長年の片想いの相手だから理由はどうであれ、ふたりきりで会う事は憚られる。


 「嫌だったら、断ってくれていいよ。」


 返事が返ってこない事に不安になったのか、切ない顔で式ノ籠君はそう言う。

 「嫌ではないけど、やっぱり…。」

 「ありがとう、また行く場所が決まったら連絡するよ。

 そういえば連絡先を交換していなかったから、教えてもらってもいいかな?」

 

 ふたりきりでは会えない、そう言おうとする私の言葉を遮って、式ノ籠君は嬉しそうな笑顔で連絡先の交換を求めてくる。

 もしかしたら何か相談をしたくて二人きりで会いたいと言っている可能性もある、何も私に関心があるなんて決まったわけでもないし、心配するほどでもないかもしれないと自分に強く言い聞かせて式ノ籠君と連絡先を交換する。

 連絡先を得たことで気分がよくなった式ノ籠君とふたりで移動教室に向かう。

 私は教科書の裏に『祀奇乃櫻 定 7月7日 スケジュール』と書かれた紙を隠し持ちながら。






 「はあ。」


 学校が終わり、自室のソファーの上で溜め息をつきながら、『祀奇乃櫻 定 7月7日 スケジュール』と書かれた紙を見つめる。

 この日付は、斐妥宗君が転校してきた日付だった。

 そこに描かれている内容は、私が起床してから就寝するまでのスケジュールが書かれていて、しかもそこに書かれている内容は大まかではあるが全てあっているのだ。

 この紙は一体何のために作成されたのか、そしてどうしてこの紙を紅さんが持っているのか。

 考えても疑問しか浮かばず、謎は深まるばかりである。


 気持ちを落ち着ける様に半分開いたカーテンから見える星のない夜空を眺めていると「お父様がお呼びよ」と携帯電話が鳴る。


 生活費を出してくれている父の呼び出しを無視するわけにもいかず、いつもの変装をして帽子を被ると呼び出されたレストランへと向かう。

 高級レストランの扉をくぐると入店に気付いたウエイトレスに父 祀奇乃櫻 正正の名前を出して席に案内をしてもらう。


 「何の様でしょうか、正正お父様。」

 「ああ、久しぶりだな、定。

  半年ぶりくらいかな。」

 ウエイトレスに連れられた席にはすでに父が座っており、私が到着するのと同時に食事が次々と運ばれてくる。

 「学校はどうだ、順調か?

  友達は増えたか?授業にはついていけているか?」

 父の何てことない話を聞き流しながら運ばれてくる好きでもない料理を少しずつ口に含む。


 「お父様、単刀直入に聞きます。

  今日私を呼んだ用件は何でしょうか。」


 実家から追い出した関わりたくもない愛人の子供に、父が私を用事もなく呼び出すことはない事だろう。恐らく何かしらの報告か、もしくは説教かそのどちらかで呼び出されたのだろう。

 連日の夜遊びのせいで呼び出されたのか、先日学校を早退したことを説教するために呼び出されたのか、どんな理由にしても良い話は聞けないだろうと唾を呑む。


 「今日呼び出したのは、父さんの再婚についての話だ。」

 「再婚、ですか?」

 あまりの拍子抜けした話に、思わず狼狽する。

 「そうだ、再婚を考えている相手がいてその方の紹介をしようと思って今日呼んだんだ。」

 困ったように情けなく私の顔色を窺い笑顔を作る父の顔を見て、違和感を覚える。

 父はこんな風に笑っていただろうか。

 私の機嫌なんて気にすることもせず、まるでいないもののように扱っていた。


 「実家から追い出した娘に再婚の相談?

  ふざけた話ですね。」

 父に対する失望から冷たい口調でその言葉を言い放つ。

 「定、お前にはやはり母親が必要だと思ったんだ。

  だから再婚を考えることにした。」

 「それは本当に私の為の再婚ですか?

  実家から追い出した娘に、今更母親という存在が必要あるとお思いで?」

 その言葉に目を尖らせ、無言になる父。

 「私の母を見殺しにしたくせに、よくそんな戯言を言えますね。」

 手に持っていたナイフとフォークを机に置くと、席を立つ。

 私を止める父の声を無視して、店を後にする。




 息苦しい空気の充満した店から出ると、新鮮な外の空気で肺を満たす。

 気分を落ち着かせようと見上げた夜空は今日も、星ひとつない寂しい表情を浮かべていた。

 実の娘がいくら夜遊びしようが学校を早退しても遅刻しても気にしない癖に、社会性を気にして代わりの母親を用意する優しい父親のふりをするあいつは、どうであろうと好きになれる気がしない。

 母親を見殺しにした事実から目を背けて、犯した罪を隠すように虚栄や偽善を塗り重ねる醜い姿はまるで様々な動物の身体を取り付けられたキメラの様に哀れで醜い。



 「こんな気持ちじゃあ、帰っても寝られないだろうな。」

 ひとりそう呟くと、繁華街に足を向けて歩き出す。


 繁華街は明日が休日という事もあり、いつもよりも人で溢れていた。

 

「お嬢さん、こんな時間にひとりで出歩いたら危ないよ。」


 こんな日は平日の夜よりも変な男の人が集まりやすい。


 「お兄さんたちが一緒について行ってあげる。」


 今日も裏路地の暗い闇が私を誘う。

 その闇の手を取るように、裏路地へと入り込み微笑む。


 裏路地に入ると勝手についてきた男たちが私を取り囲み、何か話しかけてきている。

 「放っておいて、私は今とても機嫌が悪いの。」

 そんな私の言葉を笑う男の手が私の肩に触れ、そのまま裏路地の薄汚い壁に押し付けられる。

 本当にやめてほしい、本当に機嫌が悪いのだ。



 唐突なクラスメイトからの暴力とそのクラスメイトの死。

 無かったことになったクラスメイトの死と消えた存在。

 友人たちの謎の行動と紅さんの所持していた私の過去のスケジュール表。

 空白のままの夏休みの予定と式ノ籠君との約束。

 そして父の身勝手な再婚の話。



 様々な出来事がいつからか立て続けに起こっている。

 頭で処理する時間も十分に与えてくれないまま、せわしなく起こり続ける事案により心にストレスがかかって息苦しくなる。

 

 「お嬢ちゃん、俺達の話ちゃんと聞いてる?」


 「触らないで、私に触らないで。」

 男たちに触れられている部分から穢れていくような感覚に襲われて吐き気を催す。

 胃の中のものを吐き出す私を見て変なものを見るような視線を向ける男たち。



 私に触らないで、私をそんな目で見ないで。

 そんな目で見られたら私、私は思い出してしまう。

 あの日のことを、思い出してしまう。

 母が死んだ、自ら命を絶ったあの日の事を。


 思い出したくない。

 あの日の事を、あの頃の事を思い出したら私が、私の心が壊れてしまう。

 今の私が私で居られなくなってしまう。



 「なんだこいつ、いきなり吐きだしたぞ。

  気色悪い。」


 男たちのうちのひとりがひきつった顔で気味悪そうに呟く。



 『気色悪い。』



 頭の中でエコーするその言葉は母が最後に言った言葉。

 劣悪な環境に限界を感じて救いを求め、縋る私を払い除けて冷たい目で私を見下すように見つめる母。

 そんな母親でも、こんな外見のせいで閉じ込められた狭い世界で育った私にとっては唯一の心の救いだった。

 その頃の私にとって世界で一番大好きな存在であり、世界で一番恨んだ存在。

 思い出す度に心が締め付けられるような苦しみが、辛い思い出を切り取ろうと心が暴れる。そんな状態に脳が追い付けずに呼吸を心臓の動きを荒くする。

 このままだと、心が裂けてしまう。

 酸欠になった事により足に力が入らなくなり、その場に力なく倒れる。

 どうしてこんな思いをしなければいけないのか、いつまで私はこんな惨めな思いをしなければいけないのか。回らなくなった脳味噌はずっとそんな事を問いただしてくる。

 もうこんな思いをするのはごめんだ、そんな思いで地面の引掻きながら立ち上がる。


 いつの間にか頬から伝い流れ落ちる赤い涙が、視界を赤く染める。




 「気味悪い、もう行こうぜ。」


 不審な行動を繰り返す私に呆れた男たちが背を向けて裏路地の外に向かって歩き出す。

 私はその背中に向かって走り出し、彼らに襲い掛かる。


 溢れだした感情が、抑え込んできた衝動が、もう後先を考える理性さえ抑え込み私を置いてけぼりにして暴れ出す。


 聞こえる男たちの悲鳴と命乞いの声も、殴り蹴り痛み腫れる拳と膝も、破壊に快感を覚えて醜く歪む目と口元も、全てが全てどうでもいい。


 私を苦しめ傷つけるものは全て屈服させる。

 足元で痙攣しながら白目を剝いて気を失う男たちを見下ろし、優越感に浸る。



 「どうしてもっと早くこうしなかったのか、一体何を気に病んでいたのかな。」


 一瞬しか得られない優越に虚しさを感じ、空を見上げた私の視界の端で何かが動くのが見えてそちらに顔を向ける。


 「斐妥宗君、何だかよく会うね。」

 路地裏の奥からこちらにゆっくりと歩いてくる人物の顔に見覚えがあり、その名前を呼ぶと彼は静かに笑う。


 「君と目的が一緒だから、きっとよく会うんだよ。」

 「目的が一緒?」

 「そんなことより、もう夜も更けてきた。

  補導されるのも面倒だからもう帰ろう。」


 そうやさしくさとしながらそっと差し伸べられる大きな手、彼の行動や言動の節々に違和感を覚えることは多いが少なくとも彼が私に悪意を持っている様には感じられない。

その事に安心感を抱き、傷だらけの手で彼の手を取る。

 斐妥宗君は柔らかく微笑むと私の手をその大きな掌で優しく包み込み、私を暗く汚い路地裏から華やかで明るい繁華街に向かって連れ出す。


 足が痛む私に歩幅を合わせて歩く斐妥宗君は優しく手を引く、そんな彼の顔はまっすぐ前を見つめており表情は伺えない。

 そんな彼の背中を黙って見つめていると、斐妥宗君は唐突に立ち止まる。

 「どうしたの、斐妥宗君?」

 「警察がいる、事件でも起こったのかな?」

 そう言う斐妥宗君の見つめている方向に視線を向けると、そこは交差点。

 集まる野次馬とそれを食い止める警察がひしめき合っていた。

 「事故だ、人が轢かれたみたいだ。」と、そんな声がどこからか聞こえる。

 「ここは人が多いですね、遠回りしていきましょう。」

 そう冷静に判断し歩む方向を変える斐妥宗君に言われるがまま、手を引かれてついていく。


 繁華街から家まではかなりの距離があるはずなのに、あっという間に私の住むマンションの前に到着する。

 「怪我しているから本当は手当てをしたいけど、

  夜に女の子がひとりで住む部屋に上がるわけにはいかないからね。

  そこまでしてあげられなくてごめんね。」


 私の手を握っていた斐妥宗君の手が離れる。


 「ありがとう、斐妥宗君。」

 私のその言葉を聞き、斐妥宗君は私に背を向けて歩き出す。

 そんな彼の姿を見て、このまま見送ってしまっていいのかという気持ちが芽生える。


 「斐妥宗君。」

 そんな気持ちが芽生えた瞬間に、迷うよりも先に彼の名前を呼んでいた。

 私の声に、彼は足を止めてこちらに振り返る。

 なんとなく名前を呼んだだけで何を言うか決めていなかった私は、咄嗟に頭に浮かんだ言葉を呟く。


 「私を助けてくれて、ありがとう。」

 その言葉に斐妥宗君は悲しそうな表情を浮かべる。

 「君はもう少し、自分を大切にするべきだ。」

 斐妥宗君はそんな言葉を残して夜の街へと消えていく。

 手に残る彼の温もりのおかげで、その日は寂しい夜を安らかに眠れた。




 次の日、朝一番から鳴り響く携帯電話の着信音。

 その電話先から、父の訃報を知らされる事を幸せな夢の中にいる私はまだ知らない。






 不幸の数だけ幸せがあると、いつか誰かが言った言葉を私は子供ながらに信じていた。

 だからどれだけ不幸でも、不遇でも、孤独であっても踏ん張って生き続けていた。

 きっとその先に抱えきれないほどの幸せが、私を待っていると信じて。


 そんな私の世界が壊れた。

 気づかないうちに私がふたつにわかれた。

 そのどちらも私であり、ふたつでひとりの私だった。

 崩れ行く日常の中で、私は必死に生きようと手を伸ばした。

 こんな私でも受け入れてほしかった。

 私がここで生きてきた意味を、教えてほしかった。

 今まで生きてき中で見いだせなかった、生きる意味を教えてほしかった。

 私はどうして生かされたの?

 悲しいという感情、切ないという感情、虚しいという感情。

 そのすべてが混ざりあって、実在しない心を黒く染める。



 私の傷だらけで汚い手を優しく包み込むその手は、もうじき人でなくなる冷たいこの手を温かくしてくれた。

 だからどうかそんな悲しそうな顔をしないで。



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