第1章 空蝉の空論 : 第3話 警鐘と崩壊する日常
『アナーキー、あなたはいつだって残酷な時の流れを告げるね。』
押し出された電子の声で返事をするように、『もう幸せな時間は終わったよ』とすぐそばで私たちを見つめていたアナーキーが泣き叫ぶ。
『ミラージュ、私はもうどうやってもあの幸せな時間には戻れないの?』
『幸せな時間なんて、最初から存在しなかった。
君が現実から目を背け続けて見ていた、君にとって都合のいい君だけの為の夢だ。』
ミラージュは自分本意な温もりをこの身体に残したまま私を突き放し、私ににじり寄るアナーキーから助けてはくれない。
時間はゆっくりと、でも確かに進み続けている。
残り僅かな私の賞味期限を弄ぶかのように、じりじりと、少しずつ押し寄せてくる。
私はいつか誰かの食い物となり、いつかはそいつの血肉となる。
目覚まし時計の不快な叫び声が、大嫌いな朝がやってきた事を告げる。
唯一現実から目を背けていても許せれる幸せな夢の時間は毎日、目覚まし時計の叫び声によって壊される。
いつもと変わらない何の変哲もない朝、いつもと同じように冷たい水で顔を洗うと曇りひとつない洗面台の鏡で自分の顔を見つめる。
目の下のクマが一層酷くなっている。
また、考えすぎて眠れない夜をひとりで過ごした。
重い体を引きずり身支度を済ませると、イヤホンを耳に入れ音楽を流すと学校に向かった。
「おはよう、紅さん。」
教室に到着するとすでに紅さんが登校しており、楽しそうにクラスメイト達と談笑していた。
教室は昨日とは違い、いつもと同じ平穏を保っていた。
同じ挨拶の繰り返し、同じように笑うこの風景が平和というなら随分とふざけた話だ。
こんな上面だけの日常を平和と呼ぶなんて。
「おい、斐妥宗。」
唐突に発されたその一言、その言葉で教室全体がまるで石化する魔法をかけられたように誰一人として動かなくなり、静まり返る。
声のする方向に視線を向けるとクラスメイトの法華津君が斐妥宗君の胸倉を掴み罵声を浴びせている。
「お前一体何をしたかわかっているのか。」
法華津君は何やら理由があって斐妥宗君に怒っていることが、叫んでいるその言葉からくみ取れる。
紅さんは明らかに表情を曇らせ、クラスメイト達も心配している様だが誰も止めようとしない。
誰も助けようとしない、無責任な視線だけが法華津君と斐妥宗君に向けられる。
その光景は私が実家で受けていた仕打ちに似ている。
実家での出来事が脳裏にフラッシュバックして心臓が暴れ、呼吸が荒くなる。
波のように押し寄せてくるこの感情は斐妥宗君への同情なのか、それとも斐妥宗君を昔の自分と重ねて見えてしまっているのかわからないけれど、このまま放っておいてはいけない気がした。
気が付けば私の足は勝手に動いており、後先考えず皆の視線の中心に立っていた。
斐妥宗君と法華津君の間に立ち、精一杯の力でやめなさいと声を出す。
恐怖で全身が震え、頭が真っ白になって何も考えられない。
法華津君はそんな私を見て威嚇するように大きな声を出し、私の胸倉を掴むと思い切り壁に叩きつける。
あまりの痛みに短く悲鳴を上げた私を、法華津君は愉快そうに笑みを浮かべて見つめる。
「こんなか弱い女が俺たちの。」
許さない、許さないと繰り返しながら彼の大きな手が私の首を締め上げる。
苦しみ、藻掻く私を見ても誰も止めない、誰も助けてくれない。
首を締められ続けてぼやける視界のせいか、皆がこちらを見て笑っているように見える。
「法華津君、彼女は何も悪くない。」
斐妥宗君、彼だけが法華津君の腕を掴み私の首を絞める手を離そうとしているが、法華津君は是が非でも放そうとせず斐妥宗君を蹴り倒す。
斐妥宗君は蹴られた際に口を切ったようで口の端から血を流し床に倒れこんだ。
「もうやめて、彼を傷つけないで。」
斐妥宗君を傷つけられると、私を傷つけられているように感じて悲鳴に近い声を上げる。
誰でもいいから助けてほしいと柄にもなく神に祈り、救済を渇望する。
首を絞め続けられている為うまく呼吸ができずに苦しむ私の爪が、首を絞め続ける法華津君の手の甲に食い込む。
「そのくらいにしておけよ、自分が何をしているのかわかっているのか。」
薄れゆく意識の中で落ち着いた低い声が聞こえる。
その声の主に法華津君は驚いて私の首を絞めていた手を放す。
いきなり手を離されたことによって、意識が朦朧としている私はそのまま床に倒れこみそうになる、そんな私の身体を銀髪の少年が抱きかかえた。
私を抱きかかえた少年、式ノ籠君は私の顔を覗き込み呟く。
「可哀そうに。」
覗き込み彼の優しい顔と声は私を安堵させ、意識を闇へと誘う。
一時限目開始を知らせるチャイムと共に私の意識は途切れた。
目が覚めると、保健室のベッドに寝かされていた。
何が起こったのか一瞬理解できずに時計を見ると、時計の針は昼休みの時間を刺していた。私が気を失ってからそれなりに時間が経っている様だった。
首を絞められただけだったので首以外に特段痛むところはなく、身体は元気そのものだった。
しかしあんな騒動の後で教室に戻るのはなんだか気が引けるので、どうしようかと考えている時だった、廊下で男女の言い争う声が耳に届く。
「あんな光景を目にしたら普通は止めに入るはずだ、どうして柘榴は止めに入らなかったんだ?」
「だってあんなこと起こると思わなくて、どうしたらいいかわからなくなって。
それに珀だって、法華津の言っていたことに同感できるでしょ?」
声と会話に出てくる名前で、保健室の外で言い合いをしているのは紅さんと式ノ籠君だという事がわかる。
「ここでそんな話をするな、あいつに聞かれていたらどうする。」
珍しく怒っている式ノ籠君の様子と会話の内容が気になり、気が付けば保健室の扉を開けてふたりに声をかけていた。
「何の話をしているのですか?」
紅さんと式ノ籠君は目を見開き突然会話に入ってきた私を見て驚いている様だった。
「いや、何でもない話だから気にしないでくれ。」
明らかに動揺してもごもごと話す式ノ籠君と、私を見て一瞬不機嫌そうな顔をする紅さんを見て、違和感を覚える。
「身体は大丈夫なの?」
「特に痛むところもないし大丈夫だけど、気分が優れないから早退しようと思っているの。」
「そっか、今日の授業のノートが必要になったら行ってね。
何時でも頼って、私たち親友なんだから。」
乱用されるその親友という言葉、いつもは苛立ちを覚えるはずなのに何故だか今日はひどく不気味に感じられた。
目が笑っていない紅さんと青い顔をする式ノ籠君、今までと違う世界に来てしまったような気持ちに襲われて心の底から不安になる。
『 帰して。 』
その言葉が、ふと頭によぎる。
いつもの平和でくだらなくつまらない日常に、今は何故だか酷く焦がれる。
何とも言えない謎の焦燥感と、私だけが疎外されている様な気持ちに襲われてたまらず私はトイレに駆け込むと何も入っていない胃からこのどうにもできない気持ちを吐き出そうと嗚咽する。しかし吐き出せたのは胃液だけで、その胃液によって喉が焼ける痛みがこの力ないふたつの目から涙を滲ませる。
私はふらつく足取りで保健室に戻ると保健室の先生に早退をしたいと懇願し、いつもよりも早くにひとりぼっちの家に帰り、何をする事もなく夜になるのをただひたすら待った。
とてつもなく長い時間が過ぎたと思う。
窓の外は闇に染まり、賑やかだった蝉の声や生活音はぴたりと止んだ。
夜が来た、孤独や暗鬱な気持ちを膨らませて世界を暗く闇に染める夜が来た。
ウィッグを外し、必要なくなったカラーコンタクトと手首に巻いていた包帯をゴミ箱に投げ捨てる。
黒い帽子をつけて黒い長袖長ズボンの服に着替えると、溶け込むように夜の街へと漕ぎだした。
いつもしている変装を解く事で、逆に変装になる事もある。
私はこうしていつも夜の街に繰り出しては、虚しい夜を越えている。
繁華街に向かおうと駅の近くを通った時、ふと見慣れた顔を見かける。
紅さんと式ノ籠君、尾流君の3人が改札をくぐっていくのが見える。
時刻は21時頃、こんな時間からどこに行くのだろうか?
用事があるなら家の人に車を出してもらえば済む話なのに、と疑問に感じたが私の知った話ではないのでこの事は忘れることにして繁華街へと向かう。
夜の繁華街には奇抜な髪色をしている人や変わった色のカラーコンタクトをつけている人が沢山出歩いている。この時間は自分の容姿を気にせず堂々と歩ける貴重なひと時であった。
勿論時間も時間なので変な人に絡まれることも多いが、ある程度は自分の身が守れる護身術は心得ているし、いつもは裏道や暗い道も通らないようにしている。
しかし今の私は今朝の事もあって非常に機嫌が悪いので、わざと裏道を通っている。
何故そんなことをするのか、それは、他人に暴力を振るう正当な理由を得る為。
若い女がひとりで繁華街の裏道を通ると高確率で変な男が付いてくる、嫌なことがあり我慢できない日はそんな男をサンドバッグにするのが私の習慣となっている。
人気のない汚く暗い裏路地に男の低く情けない悲鳴が響く。
大人のくせに自分の欲求も上手く消化できずに子供の尻を追いかけてこの有様、誰がどう見ても無様だ。それでも警察に突き出されないだけ感謝して欲しいものだと思った。
男の無様な姿に嘲笑すると、更なる獲物を探す為に裏路地の奥へと足を進める。
裏路地の奥では踏切の赤いランプが辺りを照らし、大きな踏切の警告音が響いていた。
「おい、こんなところで何してる。」
電車が通過するのを待ちながら、なんとなく踏切の横に立ててある『飛び込み事故多発』と書かれた古い看板を見つめていると背後から男に声を掛けられる。
聞き覚えのあるその声に抑え込んでいた怒りの感情が溢れて爆発しそうになるのがわかった。
「無視するなよ。」
その男は無視されたことに苛立ったようで威嚇するように声を低くして、私が被っていた帽子を叩き落とす。
「法華津…。」
「…お前、さだめか?」
本人は声を掛けたのが知り合いだと思っていなかった上に、いつもと違う髪色をしている私の姿に戸惑っている様だった。
そんな法華津の見せる隙を見逃さず、法華津の首元を狙う。
首元を取られた法華津は、驚きのあまり低く情けない悲鳴を上げる。
「今朝のか弱い女っていう発言、取り消せよ法華津。」
苦しみもがく法華津の爪が、私の手の甲に傷をつけて一筋の血が流れる。
「返事しろよ、卑怯者の法華津。」
「す、すまなかった祀奇乃櫻。
反省する、反省するから、…苦しい。」
情けなく涙を浮かべて心にもない言葉を並べる法華津、こんな奴に一度でも負けたのかと思うと情けなく思え首を絞める手の力を緩めた時だった。
法華津は自由だったその足で私の腹を蹴り上げてきた。
ミシミシと何かが軋む音、あまりの痛みに後退りふらつく私の白い髪を、法華津は鷲掴みにして私の顔を覗き込む。
「あいつの言っていた通り、本当に白髪で赤い目なんだな。
化け物みたいじゃねえか。」
私の容姿を嘲笑し満足すると、法華津は拳を振り上げる。
対抗するように身を構えた時だった、いきなり目の前に飛び出してきた人物によって法華津は殴り飛ばされ、鼻や口から血を吹き出しながらその場に尻もちをつく。
私を守る様に法華津に立ちはだかる少年の髪が風に揺れる。
「お前、なんでまた邪魔をする。」
いきなり殴り飛ばされたことによりしばらく放心していた法華津は、立ちはだかるその少年を見てはっとすると急いで立ち上がりその少年に掴みかかる。
「邪魔をしているのはお前だよ、法華津。
いくら目的が違うとはいえ、彼女の身体を傷つけていい理由にはならない。」
少年は落ち着いた声でそう言うと、法華津の身体を押す。
押されると予想していなかった法華津の身体は簡単に後ろに倒れこみ、そして、踏切を越えて線路上に倒れこむ。
線路に倒れこんだ法華津の姿を確認したその瞬間、目の前の線路を電車が横切る。
花弁の様に、赤い血があたりに飛び散る。
血の生臭い臭いと、何かをすり潰す鈍い音、電車の走る低い音があたりに充満する。
「見ない方がいい。」
法華津を突き飛ばした少年が目隠しをするように私を抱きしめる。
目の前で人が死んだ、その事実に気が付き真っ白になる頭。
「斐妥宗君、どうしてこんなことを。」
痙攣する喉から言葉を絞り出し、震える声で理由を尋ねる。
「君を守る為だよ、さだめさん。
僕は君を守りたい、そうしてこの嘘だらけの世界から君を救い出したいだけだ。」
彼の言葉を私は何一つとして理解できなかった、ただ、彼が私の為に法華津を殺めたことだけは事実として永遠に私の心に残り続けるだろう。
「斐妥宗君が、警察に捕まっちゃう。」
震える私の身体を宥める様に、斐妥宗君は優しく私の背中を撫でる。
「大丈夫、僕は捕まらないよ。
君を守り切るまでは、大丈夫、僕がそばにいる。」
その言葉が、酷く優しくて暖かくて切なかった。
そっと盗み見た斐妥宗君の顔は、優しく微笑み、そして泣いていた。
「さだめさん、君は僕にとって希望の灯りだ。
どうか、そのことを忘れないで。」
その言葉を最後に、私の意識は途切れた。
鳴り響く目覚まし時計のアラームの音。
翌日、目が覚めると自室のベッドで眠っていた。
慌ててTVのニュースやネットで昨晩の事件について調べるが、事件の報道は何一つ取り上げられていなかった。
ニュースになっていないことがなんだか不気味に感じ、学校があることも気にせずに自転車に乗って急いで昨日の裏路地の踏切に向かう。
「…なにも、ない?」
昨日法華津の突き飛ばされた線路にはまるで事件など起こっていなかったかのように綺麗な状態で血痕ひとつ残っておらず、いつものように人通りがなかった。
「一体、どうなっているの?」
状況がつかめずその場に立ち尽くしたまま、青ざめる。
「そうだ、学校。
学校に行けば何かわかるかもしれない。」
学校に行けば法華津についての情報が嫌でもわかる。
脳裏に法華津の席に花瓶が置かれているイメージが浮かび、急いで学校へ向かう。
本当は昨日の傷をえぐるようなことをしたくない、だが、こればかりは確認しないといけないという使命感に駆られる。
斐妥宗君が犯罪者だと呼ばれるのであれば、彼をそうさせてしまった私も同罪者なのだから。
切れる息と垂れる汗も気にせず、授業の始まった静かな学校の階段を一階から最上階まで駆け上がり勢いよく教室のドアを開ける。
教室には誰もいない。
「どうして誰もいないの?」
焦る気持ちを落ち着かせ、時間割の書かれている教室の後ろの黒板を見る。
今は2時間目、体育でみんな移動していて教室にいないだけだった。
「さだめ?」
教室の入り口で立ち尽くしている私の背後から声を掛けられる。
「体育で必要な備品を取りに行っていたら、階段を駆け上がっていくさだめが見えたから追いかけてきたけど、どうしたの?なにかあった?」
いつもは鬱陶しく感じる紅さんのお節介も、この日ばかりは非常にありがたく感じた。
「ねえ、紅さん。
法華津君について聞きたい事があるんだけど。」
紅さんの肩を掴み、動揺している事を隠すこと忘れて彼女を問いただす。
「待って、落ち着いて。」
「私は落ち着いているわ。
ねえ、法華津君は…。」
「さだめ、さっきから言っている法華津君って一体誰の事?」
紅さんの返答に思考が停止し、全身が硬直する。
「紅さん、何を言っているの?
法華津君は私たちのクラスメイトじゃない。
昨日、法華津君は斐妥宗君に殴りかかって、それで。」
「私たちのクラスに法華津なんて名前の生徒、いないよ。」
「…え?」
困惑する紅さんに連れられて、教室のわきに貼られているこのクラスの生徒の名簿を見せられる。
そこにはあるはずの法華津の名前がなかった。
初めから存在していない様に、彼の席も私物もない。
「さだめ、貴女は昨日斐妥宗君を庇って階段から落ちた時に頭をぶつけてしまったの。
怖かったよね、痛かったよね、きっとまだ混乱しているのよ。
何もしてあげられなくてごめんね」
紅さんが何を言っているのか、わからない。
私は昨日階段から落ちていない。
私は法華津に絡まれる斐妥宗君を庇って、それで気を失って。
「きっと悪い夢をみたのよ。」
「そんなわけない、私は確かに法華津が…。」
「法華津君が、何?」
はっと我に返り、紅さんの顔を見る。
私を混乱させないようにやさしく微笑む紅さんの目は笑っておらず、どこか虚ろで陰鬱としていた。
「なん、でもない。」
言葉を呑みこみ、笑顔を作る。
昨日の出来事は夢だった、そう思う事にした。
平気で人を傷つける法華津君の存在も、よくわからない話をする紅さんと式ノ籠君も、人を平然と殺した斐妥宗君も。
全部、私が見た悪い夢だったのだ。
その後、それとなく式ノ籠君やクラスメイトに法華津君について聞いてみたが、誰も彼の存在を知らなかった。
変わっていたことといえば、いつの間にか紅さんや式ノ籠君が斐妥宗君と仲良くなっていたことくらいであった。
『アナーキー、あなたはいつだって残酷な時の流れを告げるね。』
押し出された電子の声で返事をするように、『もう幸せな時間は終わったよ』とすぐそばで私たちを見つめていたアナーキーが泣き叫ぶ。
『ミラージュ、私はもうどうやってもあの幸せな時間には戻れないの?』
『幸せな時間なんて、最初から存在しなかった。
君が現実から目を背け続けて見ていた、君にとって都合のいい君だけの為の夢だ。』
ミラージュは自分本意な温もりをこの身体に残したまま私を突き放し、私ににじり寄るアナーキーから助けてはくれない。
時間はゆっくりと、でも確かに進み続けている。
残り僅かな私の賞味期限を弄ぶかのように、じりじりと、少しずつ押し寄せてくる。
私はいつか誰かの食い物となり、いつかはそいつの血肉となる。
飽き飽きしていた日常が崩れた時、その日常の尊さがわかった。
どうかあの日常を返してほしい。
そう願えば願うほど、その日常は砂でできたお城の様に脆く儚く崩れていく。




