第1章 空蝉の空論 : 第9話 既視感の答え合わせ
「学校に行こう、さだめ。」
玄関から私を呼ぶ声が聞こえる。
あっという間に過ぎたあの夏休みは、これまでにないほど様々な感情を私に与えてくれた。たくさん悩み辛い思いをしたが、とても幸せだったと今は思える。
そして、これからはもっともっと幸せに満ち溢れた日々が待っている。
もう孤独や苦悩に怯えることなどない。
こんなに学校に行きたいと思った日はこれまでなかった。
今日は始業式、新しい生活がこれから始まる。
急いで鞄を掴んで玄関に向かうと、靴を履いて部屋を見渡すために振り返る。
孤独に耐え泣き続けたこの部屋、何度も生きたいと願い腕を切ったこの部屋。
自分の容姿を呪い恨んだこの部屋が、何だか明るくなった気がした。
「…いってきます。」
小さく微笑み玄関を開けて、光の漏れ出すそこから外へと飛び出した。
今日の放課後は何をしようか、今度の休みはどこに行こうか。
いつも一人で歩いていた通学路を友達や恋人と他愛もない話をしながら歩くのも案外悪いものではなかった。
皆の笑顔も口調も、何だか今日は酷く明るく思えた。
でも何だろう、この違和感。
嗚呼、これはあれだ、デジャヴってやつだ。
前にこの風景を見たことがある。
きゅるきゅるとビデオテープを巻き戻す音が脳内に響く。
「…あれ、柘榴さん?」
先程まで元気に話していた柘榴さんの姿が見えないことに気が付き振り返る。
柘榴さんは私たちの数歩後ろで立ち尽くし何かを呟いている様だった、そんな彼女が心配になり駆け寄って声をかける。
皆はそんな彼女や私に気が付いていない様で、青信号になった横断歩道を渡っていく。
「どうしたの?体調悪い?」
凄い汗をかいている柘榴さんを見て熱があるのではないかと額に触れようと手を伸ばした瞬間、凄い力で突き飛ばされて私は車道に倒れこむ。
きゅるきゅる。
他人と違うアンダンテ、合わせないようにしたアンダンテ。
他人を傷つけてしまうからそうするのかい、アンダンテ。
君を傷つけてしまうからだよ、アンダンテ。
歩幅を合わせることで君を傷つけてしまうと思っていた。
誰かを傷つけて悲しませてしまうくらいならひとりでいいと思った。
だからひとりで歩く。
『お願いだから、今こっちに来ないでさだめ。』
さだめは振り返った、数歩後ろの柘榴さんは泣いていたんだ。
青信号が点滅し、やがて赤信号に変わる。
信号を渡り切った皆も、この時ようやく異変に気が付く。
でももう遅い。
『右に曲がります、ご注意ください。』
『右に曲がります、ご注意ください。』
『右に曲がります、ご注意ください。』
『右に曲がります、ご注意ください。』
トラックの警告音があたりに繰り返し鳴り響き、交差点から侵入してきたトラックがスピードを落とすことなく私の倒れこんでいる横断歩道に突っ込んでくる。
「…そんな。」
そんな光景に吐息にも近いような絶望の声が小さく私の口から洩れた。
先に信号を渡っていた皆は、口々に悲鳴に近い叫び声を上げてこちらに手を伸ばす。
白い花が風に揺れている。
助けを求める為に一番近くにいた柘榴さんの顔を見る。
「…どうして。」
彼女は笑いながら泣いていた、私を突き飛ばした手を戻すことなく大きな涙の粒を零して泣いていた。
悲鳴のような甲高いブレーキ音が私の耳を劈いた。
どうやら大型のトラックの運転手が私の存在に気が付いてブレーキを掛けたようだった。
きゅるきゅる。
『あなたはいつだって残酷な時の流れを告げるね』。
押し出された電子の声で返事をするように、『もう幸せな時間は終わったよ』と
すぐそばで私たちを見つめていたトラックが泣き叫ぶ。
『柘榴さん、私はもうどうやってもあの幸せな時間には戻れないの?』
『幸せな時間なんて、最初から存在しなかった。
さだめが現実から目を背け続けて見ていた
さだめにとって都合のいいさだめだけの為の夢だ。』
柘榴さんは自分本意な温もりをこの身体に残したまま私を突き放し、
私ににじり寄るトラックから助けてはくれない。
時間はゆっくりと、でも確かに進み続けている。
残り僅かな私の賞味期限を弄ぶかのように、じりじりと、少しずつ押し寄せてくる。
私はいつか誰かの食い物となり、いつかはそいつの血肉となる。
飽き飽きしていた日常が崩れた時、あの日常の尊さがわかった。
どうかあの日常を返してほしい。
そう願えば願うほど、あの日常は砂でできたお城の様に脆く儚く崩れていく。
トラックは目の前を横切りっていき私が轢かれることはなかった、しかし突然ブレーキを掛けたことによってトラックはバランスを崩し大きな音を立てて横転した。
「逃げて!」
聞いたことのない音に脳は混乱して未だに私はその場から動けずにいた私はきらきらと光を放つ空に違和感を覚えて見上げる。
トラックが横転したことによって荷台に積んであったガラスの板は割れ、無責任に宙に放たれたガラスの破片は雨の様に私の身体に降り注いだ。きらきらと輝くそれは、あの日珀君と見た満天の星空の様に綺麗で幻想的だった。
そのきらきらは流れ星の様に私のところまでやってくると、私の身体をいとも簡単に貫いていく。
全身がドクドクと脈打っている。
全身を襲う激痛に言葉にならない声で叫び、流れる落ちる鮮血があたりを赤く染めていた。
夏だというのにとても寒くて凍えそうになり、全身が小刻みに震えだす。
私は経験したことのない激痛に涙を流しながら、助けを求めてゆっくりと手を伸ばす。
「さだめ。」
血に塗れて所々ガラスの刺さったこの手は斐妥宗君によって優しく握られた。
彼の手はとても暖かく、私の冷え切った身体の芯まで温めてくれている様だった。
斐妥宗君は泣いていた、どうしてと叫びながら泣いていた。
きゅるきゅる。
不幸の数だけ幸せがあると、
いつか誰かが言った言葉を私は子供ながらに信じていた。
だからどれだけ不幸でも、不遇でも、
孤独であっても踏ん張って生き続けていた。
きっとその先に抱えきれないほどの幸せが、
私を待っていると信じて。
そんな私の世界が壊れた。
気づかないうちにガラスに裂かれて私がふたつにわかれた。
そのどちらも私の身体だった、ふたつでひとりの私の身体だった。
崩れ行く日常の中で、私は必死に生きようと手を伸ばした。
こんな醜い姿の私でも受け入れてほしかった。
私がここで生きてきた意味を、教えてほしかった。
今まで生きてきた中で見いだせなかった、生きる意味を教えてほしかった。
私はどうして生かされたの?
悲しいという感情、切ないという感情、虚しいという感情。
そのすべてが混ざりあって、実在しない心を黒く染める。
私の傷だらけで汚い手を優しく包み込むその手は、
もうじき人でなくなる冷たいこの手を温かくしてくれた。
だからどうかそんな悲しそうな顔をしないで。
私を抱きしめる斐妥宗君の手を振りほどき、珀君の方に行こうと足を進める。
しかし私は歩くことができずに地面に倒れこみ、それでも立ち上がろうと藻掻き地面を引掻く。
爪は割れ、藻掻く私の指の肉はアスファルトによって削れる。
私にはもう立ち上がるための足が無くなっていた、大きなガラスの破片によって私の右足は切断されてしまっていた。
そんな私を化け物でも見るかのような青白い顔をして見つめる珀君、もうやめてくれとそんな私を見た斐妥宗君は力なく叫ぶ。
風に揺れていた白い花は私の血で赤く染まっていた。
きゅるきゅる。
平和だった日常たちが崩れていき、その破片たちは無情にも青天井から降り注いで小さなこの身体を引き裂く。
これは犯した罪への罰なのか、それともこうなる事が運命で決まっていてそのために今まで好きに生きさせていたのか。
散り散りになった日常の破片によって無様に地面に押し付けられて、それでも生きようと必死に藻掻く。
地面を引掻く爪は割れても尚、その手を止めない。
それはまるで夏の終わりの蝉の様に生に執着していて、滑稽であった。
蝉の声よりも遥かに耳を劈く阿鼻叫喚が、救いを与えようと差し出される蜘蛛の糸が、全ての出来事がここを地獄なのよと私を揶揄している様だった。
飛び散った赤が、白い花を赤く染め上げる。
柘榴は憎悪と後悔の感情を込めてさだめだったものを睨み、
斐妥宗君は憎悪と復讐の感情を込めて柘榴だったものを睨んだ。
「全部、全部、さだめが悪い。
私の恋人を奪ったからこんなことになったんだ。」
恨めしそうな目をして私に罵声を浴びせてくる柘榴さんを珀君や鬼灯さんが止める。
「さだめ先輩は自分の役を全うしただけなんだ。
彼女を責める権利は誰にもない。」
葉風君は私に罵声を浴びせ続ける柘榴さんの胸倉を掴み、怒鳴り声を上げる。
最初にあった時よりも凛々しくなった葉風君の顔を見て、私は口を開く。
「もう、いいんだよ。」
私が声を出したことに驚き、皆の視線が私に集まる。
「あなたたちは何も間違っていないよ。」
そんな私の弱々しい言葉に、葉風君は涙を零して首を振っていた。
「違う、さだめ先輩は僕の人生を変えてくれたヒーローみたいな存在なんだ。」
そんな言葉に、私は大袈裟だなと笑った。
きゅるきゅる。
この世に生を受けた時から、私は悪役だった。
愛人の子供だから、見た目が変わっているから、気性が荒いから。
様々な理由をつけては私を嫌い、私をネタにして仲を深める人たちばかりだった。
同僚と仲良くなるために傷つけ虐げ、家族との団結を深めるために忌み嫌われ仲間外れにされる。
そして、父に近付くためだけに私を産んだ無責任な母親。
みんな私を悪役にしたがった。
だから私は悪役になることにした。
泣いても笑っても、私は正義のヒーローになれない。
いつか、正義のヒーローに退治される。
ありがとう。
これで正解、間違っていないよ、ハッピーエンド。
悪役は正義のヒーローに退治されました、そういうことでいいじゃないか。
世界はそうして平和になるのだから。
乾いたこの唇からは弱々しい呼吸音しか出せなくなっていた。
瞼が異常なほど重たく感じて段々と視界が暗くなり始めていた、抗えない程の強い睡魔が私を襲ってくる。
「さだめ、だめだ。目を閉じてはいけない。」
私が眠りにつかない様に必死に話しかけ続けてくれる斐妥宗君の顔は、涙でぐちゃぐちゃになっていた。
そんな彼の涙を震える手で拭うと、そんな彼の顔を目に焼き付ける。
思い返せば君はいつだって私の代わりに泣いてくれた、どこにいても駆けつけてくれて私を助けてくれた。
どうして私は貴方ではなく珀君を好きになったのだろう。
よくわからない、わからないけど。
「貴方がいてくれて本当に良かった。」
心の底からそう言える、斐妥宗君、私は貴方の存在に感謝している。
「生きていてくれてありがとう。」
きゅるきゅる。
そんな顔をしないで。
私は他人の感情を汲み取るのが苦手なんだ。
どうか涙を流さないで、悲しんでいるのか喜んでいるのかわからないから。
だからどうか笑って。
あなたが笑う為ならば、道化師にだってなってみせるから。
私が欲張ってしまっただけなの、もっと幸せになりたいって。
でもね、珀君に告白された時に私が柘榴さんの事をもう少し考えておけば、
あなたがこうして悲しむこともなかったはずなの。
ごめんなさい、だからどうか悲しまないで。
幸せになって。
頑張って目を開け続けているけど、視界がぼやけてきてもう何も見えない。
恋人ができて、親友ができて、たくさん友達もできた。
こんな見た目に生まれたせいで誰からも愛されず、実も父母にすらも存在を認めてもらえなかった。そのせいで散々苦しみ悩み人を疑う人生を生きてきたけれど、最後に少しでも幸せな思い出ができてよかった。
…これじゃあ来年の花火は珀君と一緒に見れないかな。
せっかく幸せになれたのに、こんなところで終わってしまうのか。
まだ死にたくないな、やりたいことたくさんあったのに。
放課後に友達と出かける幸せも、恋人とクリスマスや正月に一緒に過ごす幸せも、部活にも入ってみたかったし、誕生日パーティーだってしてみたかった。
だめだ、私まだ生きたいみたい。
目から涙があふれて、鼻の奥がツンとする。
死にたくないよ。
その言葉は発することができず、代わりにひゅうひゅうと空気が喉から漏れ、血を吐き出す。
私はそのまま頑張って開けていた瞼をゆっくりと閉じた。
きゅるきゅる。
この身を焦がすほど欲していた、幸せな日々。
信頼できる優しい友人たちに囲まれ、恋人に愛されるありふれた幸せ。
どれ程背伸びしても努力をしても、化け物の様な容姿をした最低な母親から生まれた子供には到底手に入らない普通の幸せ。
存在自体がイレギュラー、存在しているだけで罪だと後ろ指をさされる存在。
貴方はそんな私に幸せになっていいと、生きていていいと教えてくれた。
その時私は初めて生きたかったと声にした。
誰も私を責めることなく、その言葉を受け入れて肯定してくれた。
もうすぐで人ではなくなる私のこの冷たい手に人の温もりというものを教えてくれた。
私は死にたくないと強く願った。
…あれ、おかしいな。
思い返せば私は一体いつ、実家の地下にある牢屋から出られたんだっけ?
あれ、なんていう町に住んでいたんだっけ?
思い出せないな、あれ。
私があの檻から出られたのは一度だけ、あの幼少期に逃げ出して夕焼けを仰いだあの時だけ。
それ以外は出られなかった。
じゃあ、この身体は一体?
私はどうやってここにいるの?
きゅるきゅるとテープを巻き戻す音。
そうだ、私はあの血で染まった朱い檻の中で死んだ。
空腹で衰弱してじわじわと弱り死んだんだ。
じゃあ今まで過ごしてきたこの夏休みは、本当の私が死ぬ間際に見た長い夢なのか。
…最後に幸せな夢が見られてよかった。
この物語は私、祀奇乃櫻 定が死んでしまったから始まった物語。
この物語は、私が最期の最後に見た幸せな夢。
全てが私の都合の良い様に創られた幸せな夢。
私は静かに意識を手放した。