序章 : 子守唄
君は身籠っている。
恋人である僕と血の繋がっていない命を、君はその身に宿している。
くるり、くるくる。
今日も君はいつもと変わらない無邪気な笑顔をこちらに向けつつ雪のデコレーションを施された地面の上を舞っている。
天使の様なくすみのない白肌と透明感のある白くて長い髪の彼女は、その小さな口から吐息を漏らす。彼女の口から無責任に吐き出された白息はまるで草木の花が開いていく様に空に大きく広がっていき、段々と色が薄くなりやがては消えてしまう。
産まれてはすぐに消えてしまう白息をただ漠然と眺めている僕を軸にして、彼女はメリーゴーランドの御馬さんの様にくるくるとまわっている。
くるり、くるくる。
長い白髪をなびかせながら彼女は楽しそうに僕のまわりを何度も周り満足すると、僕に向き合うように正面で立ち止まり、僕の両眼をまっすぐに見つめてくる。
天使の様に美しく純白に染まった容姿にして、そんな見た目とは不似合いな禍々しい真紅の瞳の彼女は咎める様にただひたすら見つめてくる。
心すらも凍てついてしまいそうな冬の冷気に触れているはずの額から大量の脂汗が噴き出す。
彼女の瞳を見つめていると、時折どうしようもない罪悪感に襲われてしまう。
恋人である彼女に隠し事は愚か、嘘すらついたことがないのに、何故かその瞳を見つめてしまうと自分の良心が咎めてくる。
「私が普通の容姿だったら、あなたの隣に堂々といられたのかな。」
いつにもなくネガティブな彼女は、己の容姿に対する怨恨の言葉を寂しそうに連ねた。
彼女がどれだけ自分自身を貶し嫌悪感を抱いたとしてもその瞳は決して濁ることはなく、寧ろより輝いているように見えた。
ごくりと唾を呑む。
罪悪感にどれだけ苛まれようとも彼女の瞳を見つめ続ける、その理由はとても簡単なもので彼女の宝石に劣らない綺麗な瞳が、その目玉が好きなのだ。フェチと呼ぶにはいきすぎた偏愛であるということは重々自覚している。
じわりじわりと罪悪感に侵食されながらも、愛してやまない瞳に見つめられている事により掻き立てられた欲情、その2つの感情が入り交じり、ぐちゃぐちゃと粘り気のある音が脳内で響く。
ぐちゃぐちゃと混ざった思考と、ドロドロと溶け出し心に染み込む欲望が蛇の様に身体に巻き付き自由を奪う。既に脳は混雑した感情にパンクしており、彼女の首に無意識のうちに向かう自分の手を制御できずにその光景をただ記憶することしかできずにいた。
首を締め上げる微かな鈍い音、荒い息遣いが酷く心地よく思えた。
雪の白さにも劣らない彼女の白い肌に僕の指が食い込み、紅潮していく首と潤む目は何度見ても飽きることはなかった。
昔からひきこもり癖のある僕は常人に比べて肌は白い方ではあったが、アルビニズムの彼女の肌の白さには敵わない。こうして肌を密着させて見比べてみるとまるで僕の肌が日に焼けているかの様に黒く見えてしまう、何故だかそんな錯覚がとても愛しく感じてしまう。
「イヴ、君を愛せるのは僕だけだ。
だからどうか、どうか僕の前から消えないでおくれ。」
偏愛者にして異常者の僕にはイヴ以外に理解をしてくれる人などいない、だから僕は君のくれる愛に是が非でも縋らなければならない。
汗が頬を伝い地面に滴り落ちる。
『君のことを愛せるのは僕だけだ』なんて言ってみせてそう思い込ませて依存させているが、実際のところはこんな僕を愛せるのはイヴだけなのだと痛いほど知っている。その事を悟られまいと、首を締め上げて脳が正常な判断を下せないようにしてから洗脳に似た言葉を囁く。故意に彼女を依存させ、離れられないようにしている最低な彼氏だと思う。
「私はアルビノよ、アルビニズムと呼ばないで。」
問い掛けには答えず、彼女は苦しそうにもがきながら呼び名に対しての反論をする。言葉のキャッチボールをバレーボールで返してくるところは出逢ったころと変わらない、そんな君を見て何処にも行かないかもしれないと少し安堵する。
「イヴ、アルビノは色素の遺伝子が欠損した動物の名称だよ。色素の遺伝子が欠損した人間はアルビニズムって呼ばれているのだよ。」
もう何度も投げかけた言葉だが、自身の事を人間だと思っていない彼女には届かない。
嗚呼、もういっそイヴが動物ならばどれ程良かった事だろうか、そうであったなら彼女が少女から女性になってしまうのではないか?という気持ちに襲われなくても済むであろうに。しかしながらそんな自分の考えに醜さと無様さを感じて、気まずさを誤魔化すために首を絞める手により力を込めた。
悲しそうに見つめてくるその顔も、彼女の肌と僕の肌の絶妙な色のバランスも、乱れる呼吸の音と僕の心臓の高鳴る鼓動の音も、指が食い込んで変色していく首も全てが全て、今僕が彼女にしている事であると実感する度に興奮と快楽が波のように押し寄せてくる。倍々ゲームの様に快感が膨れ上がっていくのがわかる。
顔を歪めながら声にならない声を上げて首を絞める僕の手を引き離そうとする彼女を見て、はっと我に返る。慌てて彼女の首から手を離すと、彼女は咳き込みつつ僕を見つめて首を傾げた。
「悪かった、僕が悪かったからそんなに見つめないでおくれ。」
消えそうな声で呟き、彼女から視線を逸らす。
見慣れた田舎景色もすっかり雪景色と化していた。
目を逸らした先で瞳に映ったのは、校内で一番大きな木に雪が積もって桜が咲いたような光景だった。
「今年も冬に咲く桜が見られたね、君と一緒に。」
先程まで僕に首を絞められていたというのに、彼女は優しく微笑みかけてきて手を差し伸べてくる。冬に咲く桜を背景にイヴが僕に手を差し伸べてくる、そんな光景がとても美しく見え、それと同時に僕を切なくさせた。
雪景色を背にするアルビニズムの彼女は、その白さが保護色の様な役割を果たしてしまい、星のない夜空を切り取って作られたような紺色のブレザーを着ていなければきっと僕は君を見失っていたことだろう。
冷たい風が頬を撫でる。
また雪が降り始めた、世界が君を守る様に彼女と同じ色に染まろうとしている。
非常に不可解な現象である。
世界は優しさ故に彼女を隠そうとしているわけではなく、彼女を独占したいが故に彼女と同じ “白” 色に染まろうとしているのだから。
“木を隠すなら森に”という人間の言葉に則って彼女を隠そうとしている世界は、膨大な知識だけを与えられた子供の様な思考をしている。1番悔しいのは世界の思惑通り、彼女は袖口から僅かに出ている8本の指先や毛先から、徐々に景色に溶け出しているかの様に見えてしまう事だった。
世界は確実に、少しずつ彼女を奪っている。
「いつか消えてしまいそうだ。」
自然とそんな言葉が零れてしまっていた。
悪戯好きの彼女にはいつも驚かされる側ではあったが、どうやら今日は僕が驚かす側の様で彼女は目を真ん丸にしていた。
「大丈夫、どこにも行かないよ。」
少し間を開けて、彼女はそう答えて柔らかく微笑む。
その言葉を聞いて、僕は随分と野暮ったい人間だなと思った。
他の人のところに行ってしまうのではないかと勝手に心配し、身勝手な心配の言葉を零して彼女に気を使わせてしまったのだから。
今からでも冗談だと叫んでしまおうか?きっとそう叫ぶ事で今より楽な関係を築けるのだろう、だが僕はそれをしない、きっと彼女がそれを望まないからしないのである。彼女は他人に干渉しすぎずいつでも冷静な僕を好いてくれているはずなのだ、だから今必死に弁解するとそんなイメージが崩れてしまい最悪の場合、彼女が離れていってしまうかもしれない。
喉元まで出かけた言葉を冬の冷たく乾燥した空気と共に呑みこみ、不服そうに口をへの字にしてスクールバスの乗り場へ足を向ける。
彼女はとても鈍感なので、世界が君を奪ってしまうのではないかという焦りにも、女性になってしまうのではないかという心配をしている事にも気づくことはない。しかしなぜだか僕が傷心をしたり怒ったりするとすぐに気が付く、とても不思議な感性の持ち主であった。
サクサクと雪を踏む音。
ホームルームが終わった直後なので正門の辺りは下校する生徒で溢れていてとても賑やかではあったが、僕の耳にとどくのは相変わらず僕達が雪を踏む音と呼吸音、そして靴と制服が擦れる音だけであった。自転車通学のクラスメイトがこちらに向かって口をパクパクと動かしながら横を通り抜けていくのを横目に、イヴと別れる時間が迫っている事に気が付き焦燥感を覚える。それと同時にこの世界には僕と彼女の産み出す音だけで十分だとも感じた。僕より先を歩む彼女の耳には今、どんな音が聞こえているのだろうか、僕とは違う音が聞こえたら嫌だなとも感じた。
「ねぇ 拾、聞いてもいい?」
びくりと身体が跳ね上がる。
幸い彼女は僕の前を歩いていた為、そんな僕のみっともない姿を見られずに済んだ。
やましい事など何もしてはいないが、何の構えもしていないこの耳にいきなり彼女の声が届くと、どうしても心臓が飛び出しそうになってしまう。
「どうした、なにかあったかな?」
焦りと恥ずかしさを隠しながら、慎重に返事をする。
僕達は基本的に2人きりであっても口数が少なく、質問される事は何かがあった事を強く予感させる。
「キメラって幸せなのかな?」
そんな僕の予感とは裏腹に、彼女の質問は突拍子もないものだった。
「キメラって、あの怪物のキメラのことかな?」
「そう、そうだけどね、やっぱいい、うん、やっぱいいや。ごめん、ごめんね。」
ぱっと振り返った彼女の顔はいつもと変わらない笑顔だった。
その笑顔がとても苦しそうに見えた僕は、その時ようやく彼女が普段から苦しそうに笑っていた事に気が付いた。
しかし、この日も僕はいつもの様に彼女と一緒に帰らず、ひとりでスクールバスに乗って下校をした。
僕の家から通っている高校までは片道で徒歩1時間半かかる為、いくら彼女と帰る方向が同じであっても一緒に帰ることは一度もなかった。だがそれは仕方のない事であった、僕は身体が弱く、歩いて登下校しようものならすぐに体調を崩してしまうくらい貧弱だったし、自転車は盗難に遭い手元にない状態だったのだから。それに比べてイヴはこの季節を迎えてから片道徒歩30分かけて自宅から高校まで歩いて登下校している。
僕を乗せたスクールバスは歩いて下校しているイヴを追い越す。
車窓からほんの一瞬覗き見たイヴの顔は、くしゃくしゃになって涙と鼻水で汚れた泣き顔だった。彼女は大粒の涙を零しながら自らの御腹を撫で下ろしていた。
愚鈍な僕はその時ようやく気付いた、彼女が泣きながらも撫で下ろしているその御腹が異常に出ている事に。この冬を迎えてから彼女のまっすぐに伸びすぎた背筋を猫背にする様になり、体育にも一切参加しなくなった。本来その時点で気が付くべきだった、“彼女が妊娠しており、それを隠そうとしている”という事に。
彼女は妊娠をしている、恋人である僕の子供ではない誰かの子供を。
その夜、彼女は高いビルから飛び降り、その命を絶とうとした。
「この世界には、イヴと僕が生みだした音しか必要ない。」
規律的に繰り返される形だけの呼吸と律動的な心電図の音、点滴の滴る音。
君の身体に繋がれた無数の管からよくわからない冷たい液体が君の身体に侵入していき、君の体温を徐々に奪っていく。
そっと触れた頬は非常に冷たく、心電図がなければ死体ではないかと疑ってしまっていたかもしれない。
最期のその瞬間まで花の様に綺麗で儚げな人だった。
雪で白く染まった地面に深紅の花を咲かせ、その命を散らせた。
そして今、彼女は本当の意味で植物になってしまった。
世界はやはり君を奪った。
白く殺風景で薬品の臭いの蔓延した窓付きの箱の様な部屋に幽閉し、その上、誰とも話せない様にまでしてしまって、なのに憎むべき世界は、彼女を奪った自分勝手な世界は何故か僕に微笑みかけてきた。
「こんばんは。」
僕とイヴの産み出した音以外受け付けようとしない耳に無理矢理入り込んでくる不快な少女の甲高い声に、身体が拒絶反応を起こし鳥肌が全身に立つ。驚いて俯いていた顔を上げると、イヴと呼ばれていたものが寝かされているベッドの向こう側に紫髪の少女が佇んでいた。
「たすけてあげようか?」
世界から魅入られているかの様な異彩を放つ少女のひとつに結われた紫の髪が、いつの間にか開け放たれていた窓から舞い込む雪と冷たい風に揺れる。
少女の獣の様な黄金の瞳が咎めるように、何もできず椅子に座っているだけの僕を見下ろしている。
「彼女の為にどんなものでも犠牲にする覚悟はある?」
紫の髪の少女は、弧を描くように口元を歪ませ微笑む。
ぼくたち人間はこの世界で呼吸し、生きることを許されているその対価として、考え選び苦しむことを義務付けられているのかもしれない。
握り締める拳、爪が掌に食い込み血が滲む。
少女の問いに答える代わりに静かに頷くと、イヴと呼ばれていた肉塊の青白い首に手をかける。
「おやすみイヴ、また巡り合おう。」
心電図は不快な断末魔をあげる。
「大丈夫、大丈夫だよ。心配しないで君の願いは必ず僕が叶えるから安心して、またもう一度巡り合おう。」
ベッドからだらしなく垂れたイヴの掌から、今年の誕生日にプレゼントしたネックレスのペンダントトップが冷たい病室の床に向かって放たれた。
空気を切り裂くような冷たい音は、鐘の代わりに僕の平凡な日常の終わりを告げた。
はじめまして、叶継 尋と申します。
本日初投稿させていただきました。
本作品は当方が14歳から18歳までの間に執筆していた長編小説に、大人になった自分が手を加えてある程度読めるようにした作品になっています。
これまで当方の作品を他者に見てもらう機会がなく放置していましたが、どうにもこの作品に愛着を持ってしまい小説サイトに投稿することにしました。
小説の公募に出そうかと考えていた時期もありましたが、第一章だけでも4万文字を越えてしまったので公募は諦めました。
時間がある方、少しでも興味を持ってくれた方は続きを読んでいただけると過去の自分が報われるような気になるので何卒よろしくお願い申し上げます。
叶継 尋