私が振られたのではない。彼が振り落とされたのだ。
私の仕事は、嘘を見抜くことだ。
粉飾、隠蔽、架空売上。
きれいに整ったように見せかけた数字から矛盾を叩き出す――それが公認会計士。
つまり私は、常にリングに立っている。
だが、プライベートではガードが甘かった。
一番近くの相手のフェイントを、まんまと食らったのだ。
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「瞳って、義夫と別れたの?」
ゴールドコーストからの帰路。機内モードを切った瞬間に飛び込んだLINEは、まるでアッパーカットの一撃。
一瞬で心拍数が上がる。
『コリドー通りで義夫を見かけた。その日、出張じゃなかった?』
ジャブのような問いかけ。だがストレートに効いた。
あの日、私は確かに海外にいた。
義夫は「週末は掃除でもしてる」と言った。
帰宅した部屋は異様なまでに整っていた。
床は光り、タオルは正確に畳まれ、ゴミは完璧に処理されている。
――まるで試合後のリング清掃のように。
送られてきた写真。赤いパラソル、白いシャツ、笑顔の義夫。
誰が見ても彼だった。
過不足のない証拠。完璧な粉飾決算。
ファーストラウンドは私のダウンだった。
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それからの私は、冷凍うどんで生きていた。
ただのインターバル。あたため、食べ、寝る。
整っているようで、何も攻め手はない。
試合を放棄した選手のようだった。
そんなある日、駅前の雑居ビルの掲示板。
「女性限定 ボクシング体験レッスン」
隣に「婚活BBQ」。
――今の私は、誰かに焼かれるより、何かを殴りたい。
ジムの扉を開ける。革と汗の匂い、ミットの音が弾む空気。
ここには虚飾がなかった。
本物のリングがあった。
「サンドバッグ、打ってみて」
ドン。
拳から響いた音は、観客席を揺らすように重かった。
「……その音、初日じゃ出ないな」
拳を重ねるたび、赤いパラソルも、整いすぎた部屋も遠ざかっていく。
頬を伝う涙。
「泣いたあとに打てるやつは、続くよ」
コーチのその言葉はセコンドの指示のように、胸に残った。
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帰り道、有楽町のネオンはいつも通り派手だった。
だが私の足取りは、すでにリングインする選手のそれだった。
義夫のこと?
あれはフェイントだらけの相手だった。
自分の粉飾に足を取られ、勝手にリングから落ちていった。
私は違う。
私はまだ立っている。
次のラウンドに向けて。
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ゴングが鳴る。歓声が爆発する。
ロープにもたれた相手は、もう立ち上がれない。
レフェリーがカウントを止め、私の腕を掲げる。
観客のライトが一斉に光り、腰にベルトが巻かれた。
汗に濡れた革が、眩しいほどに輝く。
――私が振られたのではない。彼が振り落とされたのだ。