94話 精霊女王の首狩り馬 下
スティーブンから遠く向こう、木々の間に見える奥を、漆黒の長い髪とワンピースドレスの裾を揺らして、一人の女が歩いていく。
遠すぎてよく見えない。黒い髪から覗いた横顔は、とてもとても美しい女である気もする。でも、ここは精霊界のはずで……。
そう思って、目を凝らそうとした時、
「目は伏せて、このまま頭も絶対に起こさないで」
不意に、目頭にひんやりと冷たい手があてられ、起こしかけた頭を戻された。
スティーブンは、その声に覚えがあってハッとした。
「その声、兎耳精霊ヤローかっ?」
「そうだよ、君が知っている可愛い兎耳の『グリー君』さ」
くすくすと、おちゃめに笑う声がする。
「なんの真似だ?」
「僕は、君のためにこうしてやっているんだよ。今、動いたら気付かれる。人間の君が、頭を上げるのも不敬――じっとしている事を守ってくれるのなら、この手を離してやってもいいけれど――絶対に、見るな」
後半の声は、真剣な雰囲気が漂っていた。
忠告というより、声の感じは強めで脅しに近い。訝ったスティーブンは、ふとメイベルが自分に『精霊界は色々とあるから勝手に行くな』と言っていた事を思い出した。
「分かった。それなら、そっちは見ない」
「おや、聞き分けがいいね。感心、感心」
まるで小さな子をあやすみたいに言って、手を離したグリーがにっこりと笑った。
再び見えるようになったスティーブンの視界に、しゃがんで自分を覗き込んでいる兎耳がはえた少年、【子宝を祝う精霊】グリーの姿があった。
「それから、僕がいいというまで、これからしばらくは声も出しちゃだめだよ」
金緑の『精霊の目』を細めて、グリーが唇の前に人さ指をあてがう。
スティーブンは、ただ一つ頷いてみせた。何も分からない自分が、自尊心やプライドで動いたりしたら、どうしてかメイベルが困るだろうなと思った。
不意どこからか、シャンシャン、と不思議な音色が聞こえ出した。
――精霊女王のお通りだ。
――我らが夜の精霊女王が、通るぞ。
――上機嫌だね。珍しい散策じゃないか。
――くすくす、アレが来たからさ。
――『メイベル』が、ここまで戻ってくるのも数十年ぶりだ。
――久々の帰還だからね、精霊女王も見たかったのだろう。
聞こえてくるのは、不思議と頭の中にまで響くような声。男とも女とも理解できる前に、聴覚からこぼれ落ちて行ってしまうような奇妙な感覚もあった。
スティーブン、それをぼうっとして聞き入っていた。
しばらくもしないうちに、音と気配は遠くに去っていった。
「もういいよ、声を出しても。頭を上げても構わない」
グリーが言った。
そもそも、まだ頭を起こせそうにない。スティーブンはそう思いながら、向こうを見ているグリーの横顔を目に留めた。
「なぁ、あいつらは何を言っていたんだ? まるで、あいつが――メイベルが精霊界に来たから、女王もこっちまで出歩いて来た、みたいに言っているように聞こえたぞ」
ふと覚えた疑問を口したら、グリーがスティーブンをにこっと見つめ返した。しかし、回答は返ってない。
答える気はないらしい。これだから、精霊は嫌である。
「よく分からんが、どっか行け」
しっしっと手でやったスティーブンは、直後、ぎしぎしと身体が痛んで「ぐっ」と呻き声を上げた。グリーが「おやまぁ」と、わざとわしく目を丸くする。
「人間の身体で、魔力の加護もないのに無茶をするからだよ。僕らと違って、君達って打たれ強くなんだからさ」
うまく思考が働かない。どういう意味だよと言い返そうとしたスティーブンは、不意にくらりと視界が回って声が詰まった。
なんだ? 身体が、おかしい。
先程は落下の衝撃の余韻かあった。しかし、その時になかった気怠さや鈍痛が全身にある気がした。視界が安定せず、脳がぐらぐらとゆすられている感覚。
「精霊女王の魔力にあてられたんだよ。もう少し休んでいた方がいい、眠いだろ?」
「なん、で」
「どうして分かるのかって? 魔力がない人間は、とくに生命エネルギーまで揺すぶられてきついよ。眠れば、人間としての回復機能が、どうにかカバーしてくれる」
スティーブンは、今にも閉じてしまいそうな瞼を、どうにか開けてグリーを見つめ返していた。すると彼が、もう一度唇の前に人差し指を立てる。
「君がしようとしている調べ物のこと、僕は黙っていてあげる。だから、僕がここへ来た事は、秘密だよ」
誰に?
そう思っていると、まるで心を読んだみたいなタイミングで、グリーがスティーブンに答えてきた。
「『メイベル』にさ。僕がここにいたと分かったら、危なくないように見守って手助けしただけだと教えても、彼女、また怒ると思うんだよねぇ」
その言葉もろくに聞き取れないまま、スティーブンは抗いがたい眠りへと落ちた。
※※※
点々とはえている大きな木々を走り抜ける。足元を埋める柔らかな短い雑草を蹴り上げて、ただただ前へと進む。
次の木々の間を通り抜けたところで、メイベルの視界がやや開けた。
月光がが降り注ぐ、明るく、美しい夜の世界。夜風の波に銀色の波紋を描いた原の上に、横たわっているスティーブンの姿がパッと目に飛び込んできた。
「あっ、いた」
方向転換し、そちらへと向かった。
駆け寄って確認してみると、浅い擦り傷はあったものの大きな怪我はなかった。何者かが動かした形跡はない。
ただ、彼の身体からは、強い精霊魔力の残滓が抜けていくのを感じた。
「精霊女王の行進があったのか」
その気配は、他の多くの精霊達の気配と共にまだ一帯に濃厚に残されていた。恐らくは、落下してすぐに精霊女王の『お通り』があったのか――。
だとすれば、意識がないのは幸いだったのかもしれない。
「動かなかったから、彼女も気付かなかったのか」
メイベルは、ふぅっと吐息をもらして肩の強張りを解いた。
精霊女王の魔力にあてられたのもあるのなら、すぐに動かすのは危険だ。頭にも衝撃を受けている可能性を考えると、揺さぶって起こす事も憚れた。
ぺたりと座り込み、メイベルは自分の膝の上へそっとスティーブンの頭を乗せた。彼の中にまで入り込んだ、濃厚な精霊魔力を外へと放出させる。
昏々と眠った彼は、普段の眉間の皺も強い眼差しも消えて、生意気さが抜けた一人の青年に見えて不思議に思えた。
「傷も、一部ほとんど閉まりかけてる……精霊女王の魔力が、いいように作用してくれたらしいな」
頬の擦り傷を指先で撫でる。それでもスティーブンが目覚める気配はなく、メイベルはその温かさを感じながら、ただただ目覚めを待った。
眩しい月光に照らし出された森の原が、夜風にさらさらと音を立てていた。
優しく吹き抜けていった風は、スティーブンの髪を揺らし、彼を膝枕しているメイベルの白い頬に緑の髪がさらりとかかった。
それから、どれくらいそうしていただろうか。不意に彼が「うっ」と小さな声を上げて、重そうなその瞼を開いた。
メイベルと金色の『精霊の目』と、スティーブンのブルーの目が合う。
「さっき、かなりの精霊が、そこを通ったような」
目覚めばかりの頭を働かせるように、彼が呟いた。
「見たのか?」
メイベルが尋ねると、しばしの間があって「いや」とスティーブンが返答した。時間軸でも整理しようとしているのか、思案する顔で、けだるげに前髪をしゃりとする。
ふと、彼が膝枕にようやく気付いたようだった。
スティーブンの目が、自分の頭を直前まで撫でていたイベルの手へ。それから、そのまま移動して、じっとメイベルへ固定される。
「なぁ。なんでこんなに静かなんだ……?」
また、いつもの『質問』だろうか。
それくらいには元気もあるらしい。この状況なのに、緊張感も警戒もない奴だと、メイベルは呆れつつも安堵感が胸に広がるのを覚えた。
「今、この一帯から精霊がいなくなっているからさ」
メイベルは答えながら、知らず知らず、添えたままだった手を少し動かして、まだ身体が痛むだろうスティーブンを思ってその髪をふわふわと触った。
「精霊女王は、夜の精霊達の絶対的な存在。ここにいた精霊達は、みんな付いていった。しばらくはまた静かなものだろうな」
話す彼女を、ただただスティーブンは見つめている。
――と、メイベルの手が、不意に止まった。
「どうして、私を助けたの」
ぽつりと、柔らかな声が言葉となってこぼれ落ちた。
スティーブンは、答えない。
「私は精霊だよ。人のように脆くもない、回復だって早い。――たとえ損傷を受けてしまっても、眠っていれば魔力の働きで勝手に助かる」
その自身の精霊魔力が尽きるまで、精霊は死なない。あるいは、消滅させるといった方法で、殺されてしまわない限りは。
「――ああ、そうか」
ようやく彼が口を開いた。
「どうであれ、俺は、お前が傷付くのが嫌だったんだ」
手をそっと伸ばしたスティーブンが、メイベルの頬に触れる。その大きな手は慎重に動かされて、頬、こめかみ、そして彼女の頭の横を緑の髪をくしゃりと包み込んだ。
メイベルは、不思議そうに小首をゆっくりと傾げた。
「何?」
柔らかな口調で尋ねられ、スティーブンがちょっとだけ苦笑交じりの吐息をもらす。彼はもうしばらく、子供のように甘えさせてもらう事にしたのだった。




