62話 武闘派教授の帰還
地方都市サーシスで列車を降りてから、荷物を部屋に送り届けるよう業者を手配した。
スティーブンは一人、明かりの灯った都会の街中を歩いていた。呼び出した人物と合流するため、夜の町を歩き出したものの頭の中の時間経過は曖昧だ。
列車の旅は長かったが、自分が細切れにしか睡眠を取れなかったのを思い出す。メイベルは大都会ルーベリアに入るまで、ほとんど眠っている状態で、途中、抱き上げて列車を乗り換えている間も全く起きないという状況だった。
眠気が改善される直前まで、以前触れた時と違って体温はかなり低かった。眠っている時の呼吸音は、耳を寄せないと聞き取れないくらいに小さくて、ピクリとも動かなかった。
「――【精霊に呪われしモノ】って、一体なんだ?」
進む先を見据えながら、足をひたすら動かし続けて口の中で呟く。
あまりにも彼女が、警戒を煽らない姿や人間じみた物言いをしているせいで、うっかり忘れて触れてしまった事があった。なんだ平気じゃないかと、今のところ触れただけで呪われるだとか、生気や寿命を『奪われる』だとかいう実感は一つもさせられていない。
自分の目で見て、体験し、分かった事をもっとも信じるスティーブンにとって、触れても何かが起こるわけではないというのは『自ら確認した正しい情報』の一つだ。
【精霊に呪われしモノ】を含む、有名な悪精霊への対処法。
近付かない、触れない、もし見えたとしても気付かない振りをして関わらない――。
バルツェの町を出た際の列車で、メイベルが眠る直前に見せた儚げな微笑みが忘れられないでいた。あの時、彼女は、どこにでもいる少女のようだった。金色の『精霊の目』もその時は、ただただ美しい神秘的な色合いをした、優しい女の子の瞳に思えた。
あの地下屋敷で、精霊としての力を全力で出した時、一瞬だけ変身魔法が解けたように『大人の女性のメイベル』の姿が見えた。でも数秒のことで、スティーブンには幻覚だったのかも分からないでいる。
――俺、あんたのこと、本気で助けたかったんだ。
歩きながら、こっそり見てしまった風景が脳裏に蘇った。屈強な軍人魔法使いがボロボロと泣く姿に、語られている話は全て『本当』なのだと悟らずにはいられなくて。
討伐はされない。何故ならメイベルは、放っておいても消滅する。
ふらふらとメイベルが部屋を出て行った時、あんな体調でどこに行くんだと付いて行った。途中でアレックスがこちらの存在に気付いて、教えるようにそう口にしてきたのだ。
おかげで、メイベルに精霊魔力を使わせるなよ、と彼が必死になって叫んでいた理由が分かった気がした。そして【精霊に呪われしモノ】と呼ばれている精霊である彼女は、祖父とは結婚したのではなく彼になんらかのお願いをされて協力するため、自然な形で『妻』と装ってそばにいるらしい。
恐らく尊敬する祖父のエインワースの事だから、全て知ったうえで連れ帰ったのだと思う。問題は、この件に関して分からない事がありすぎる自分と、正体不明の嫌なもやもや感だ。
そもそも数多くいる悪精霊の中で、人間がもっとも忌み嫌っている悪精霊の一つが【精霊に呪われしモノ】として教えられているのは、どうしてか? 精霊はほとんど永遠を生きるというのに、なぜ彼女の命は尽きようとしているのか?
一人歩いて向かったのは、自分の事務所と部屋がある建物ではなく、一軒のBARだった。会員制のそこでカードを見せてすぐ、案内された奥のカウンター席に見知った顔の男が待っていた。
「おかえり、スティーヴ。君の顔を見るのは、随分久しぶりな気がするな~」
そう新愛を込めて『スティーヴ』という愛称で呼び、楽しげに声を掛けてきた男は、大学時代の先輩であり、今は一番の友人である教授仲間のトムだった。眉目秀麗な紳士で、貴族としての教養と品も備わった美男子である。
誰にでも好かれる知的で優しげな目を向けて、彼が「まぁまぁ、ひとまずお疲れ様」と座るのを促した。ようやくマスターに声を掛けて、本日一杯目のウイスキーグラスを二つ注文する。
「知らせをもらった時は驚いたよ。いきなり『最終よりは二本前の列車で到着するはずだから、ここで待ってろ』なんて呼び出しも、君にしては珍しいよね」
もらったグラスを、お互いの前に置きながらトムが言う。
そういえば、かなり喉もカラカラになっていると気付いて、スティーブンはグラスを一気に口許で仰いだ。いつもの銘柄のウイスキーを一気に飲み干したのを見て、トムが「わーお」と茶化す声を上げた。
「随分お疲れだったみたいだねぇ。それで、調査の旅は無時に済んだかい?」
「無法魔法使いやら、魔法協会の取締局やらが絡んで大事件だった」
いや、現場は魔法戦争状態だった、というべきか。
スティーブンは、空になったウイスキーグラスを、ドンッとテーブルに置いてからそう真顔で呟いた。低い声がテーブルに落ちて、マスターがちらりと目を向けてくる。
「わーお、さすがスティーヴ。魔法ド真ん中な仕事になったんだねぇ」
「どういう意味だよ」
思わずジロリと睨み付ける。
トムはウイスキーを少し口にすると、形のいい唇を舐めて面白がって尋ねた。
「もう一杯やるかい?」
「いや、今日はいい。寝付け代わりに一杯飲みたかっただけだ。実は、頼みたい事がある。連絡を取りたいある魔法使いがいる」
その言葉を受けたトムが、形のいい目をパチリとした。
「へぇ、そりゃ珍しい。君が魔法使いの誰かにコンタクトを、ねぇ……で? それは一体誰なんだい?」
「別地区に所属している、結構上の地位にいるらしい討伐課の魔法使いだ。名前は『アレックス』。以前から『メイベル』と知り合いで、そこそこ長い付き合いがあるらしい。そいつから色々と話を聞きたい」
スティーブンは、真面目な顔で「やれそうか?」と訊いた。
そう確認されたトムが「なるほどね」と言って、ウイスキーグラスを置いた。これから真剣な事を話すると前置きするように、彼と同じく学者としての真面目な顔で見つめ返す。
「実を言うとね、君のお爺さんの結婚相手である精霊に関しては、僕としても知りたいと思っていたところなんだ。学者としては、噂と違う部分をきちんと確認してみないと気が済まない――彼女は、語られているような『本当に悪い精霊』なのか? とかね」
そこでトムは、美しい顔に、少しだけ意地悪な笑みを浮かべて見せる。
「君も、恐らく今回の調査でそれを感じる事でもあったんじゃない?」
「まぁ、納得出来ないような部分が、いくつか」
答えながら、スティーブンは思い返すような表情をした。しばし考えていたかと思うと、思案顔をテーブルに向けたまま、トムに向かってピッと人差し指を立てて見せる。
「やっぱり、もう一杯ウイスキーをもらう」
「オッケー。次はもう少し渋めのやつでいこうか」
少しは話を聞けるらしいと察して、彼はマスターに進んで上等物のウイスキーを注文した。すぐに用意されて出されたグラスを、スティーブンは受け取りつつ言った。
「――なんというか、あいつ、ずっと昔に死んだ子爵の事を『可哀そう』だと表現したんだ。死者が眠っている土地だから騒がしくしたくないだとか、それから……」
「それから?」
「…………実の弟を殺した男のことを、ひどく怒っていた。自分の欲のために、より多くの人間が死ぬことになる方法を取ろうとした事についても、かなり腹を立てていて」
思い出して、ぽつりと呟いた。
精霊って、そんなに人の感情に近いモノを持っているものなのだろうか、とスティーブンは感じた疑問を口にする。
確かに彼女は、あの時、変えられない過去に深い情を抱いているような表情を浮かべていた。ただの想像の範囲内であるのに、憂いているみたいに。
「スティーヴ、僕はそれを見てはいないから分からないのだけれど。その時、彼女はなんと言っていたんだい?」
トムが、酒を少し口にして尋ねる。
カラン、とグラスの中から上がった氷の音を聞いて、スティーブンはつられたようにウイスキーを少し口にした。舌触りを味わい、その時の言葉を思い返しながら口にする。
――彼、とても優しい人だったんだろうね。誰かを傷付けたこともない人。
――だから非道の悪役で片付けられてしまうのは、あまりにも悲しすぎるだろう。
「へぇ…………、それはなんだか、とても――」
言い掛けて、トムがウイスキーグラス持ったままの手に、思案顔で口をあてる。スティーブンは、そんな彼の横顔にチラリと目を向けて促した。
「なんだ、言ってみろよ」
「うーん。素直に感じたことを述べるのなら、普段の荒っぽい口調からは考えられないくらい『普通の女の子っぽい言い方』かなぁって。良く言えば、純心、かな」
「それとは無縁そうなくらい荒いけどな」
「つまりそれ、君とどっこいどっこいって事じゃない?」
「俺のどこか荒っぽいって言うんだ?」
心底疑問だというように返されて、トムが見つめ合ったまま沈黙した。しばし間を置くと、彼はグラスの残りを一気に飲み干して、凛々しい表情で手を上げた。
「マスター、僕にも彼と同じのをもう一杯」
「既にご用意しておりました」
付き合いの長いマスターが、そう言って空になったグラスと新しいのを取り替えた。
荒っぽい、ねぇ、とスティーブンはまた少しウイスキーを口に含みながら考えていた。ぼんやりと思い返したところで、メイベルに髪を触れられた指先の感触を思い出す。
「――ああ、そうでもないか」
口の中に、ぽつりと言葉が落ちる。なんとも優しい『女の指』だった。エインワースと普段料理を作り、家の写真に埃が被らないほど丁寧に掃除し、庭先の植物や花を世話出来るその手が、荒っぽいだけであるだなんて、そんな事はなかったのだと今更になって気付いた。
その場面を想像して、不意に、胸がほんのりポカボカと温かくなった。
なんだろうな、酒が少し回ったせいか、とスティーブンは首を捻った。クッキーで何度も触れてしまった口許や、列車内で触れた目尻の感触が指先に蘇ってきて、どうしてか自分が毎日過ごしている事務所や家に、彼女がいる風景を思い浮かべしまっていた。
「そういや、列車で全然眠れなかったんだよな」
そのせいかもしれないと思って声に出してみたら、なんとなく推測に納得も出来た。自分の優秀な頭脳は、やっぱりものすごく眠いに違いない。
呟く声に気付いたトムが、「あらま」と言ってこちらを見る。
「三日三晩も悪党共と闘える君も、睡眠不足は強敵なんだねぇ。それじゃ、短いけどそろそろ解散しようか。明日も平日だしね」
「週の真っただ中に呼び出しちまって、ほんと悪かったな、トム」
「いいんだよ。僕は、いつだって協力するさ」
言いながら、トムが早速といわんばかりに立ち上がった。マスターに礼を言うとチップ分も含めて二人分の金を払い、椅子に引っ掛けてあった薄地のコートを羽織って襟元も整える。
スティーブンも、グラスの中身を空にして、礼を言って立ち上がった。
「上級位の軍人魔法使いだと数は多くないし、連絡を取れる人物には心当たりがある。少し時間はかかると思うけど、その『アレックス』という人物と接触出来そうか確認してみるよ」
「助かる、すまないなトム」
「君が『危険』だのなんだの言ってる彼女、僕は結構、賢くて聡明なところとか気に入っているんだよね。君の助手にぴったりだっと思うし、いい組み合わせだと思うんだけどね」
そう口にしながら歩き出した彼が、「あ」と思い出したように振り返る。
「彼女の『初の助手としての働き』はどうだった? 予想を裏切るいい助手っぷりで、本格的に雇いたくなったんじゃない?」
促されて、スティーブンは『助手』なメイベルを思い返した。
パッと頭に浮かんでいったのは、かなりメシを食っていたこと、ホテルの部屋での心休まらない精霊騒動、いきなり強い行動力を発揮して急発進したりして、――彼女は前触れもなく自分を『精霊を召喚しての移動魔法』に巻き込んだのだ。
彼は一気に酔いもさめたように深刻そうな目を向け、真顔で手を振った。
「おかげで、俺は人生でこれでもかってくらいに苛々した。あいつは絶対に許さん」
「あれ? 一体何があったのか超気になるんだけど」
え、何しでかしたのあの精霊ちゃん、とトムが不思議そうに呟いた。けれど酒の力もない状態では、お喋りでもないスティーブンから話を聞き出すのは難しいと察した彼は、早々に質問を諦めたのだった。




