5話 役所のリック・ハーベン
その翌朝、メイベルはローブの上からエプロンという姿で、玄関前に立つ『人間』を見据えていた。先日はどうもと弱々しく口にしたこいつは、一体どこのどいつだろうか、という事が無表情な彼女の頭の中には浮かんでいる。
「えぇと、その、役所の【リック・ハーベン】と申します」
「なるほど。役所の」
「はぁ。そうなのです、はい。えぇと……すみません」
「何故謝られるのか分からないし、そもそも『役所の』ってなんだ」
すると、黒い髪を清潔な感じでセットしている若い彼が「えっ」と声を上げて、皺一つないスーツの足を一歩後ろへよろめかせた。
「さっき、なるほどって口にしていたのに……」
思わずと言った様子で、彼がそう呟く。
その時、メイベルの後ろに立っていたエインワースが、ようやく口を開いた。
「言い忘れていたけど、実は私たちの『結婚』は監視付きなんだ」
「はぁ?」
唐突にそんな事を教えられたメイベルは、胡散臭そうにリック・ハーベンと名乗った男へ目を戻した。まじまじと見てみると確かに役所で見た覚えがあるような、無いような……。
「というか、監視?」
なんだそりゃ、と幼い表情に不似合いな顰め面を作った。人間ではない事を示す金色の『精霊の目』で見据えられたリックが、「ひぇ」と細い声をもらして縮こまる。
※
この訪問があったのは、ちょうど朝食が終わってすぐの時間だった。
玄関を開ける直前、メイベルは正直言うと、食後の食器を洗い出したばかりのタイミングで訪問を受けて苛々した。昨日、兎耳の少年精霊グリーの一件もあったばかりだ。一体今度はどこのどの精霊だろうか、と口の中で愚痴って水道の水を止めた。
「メイベル、ローブにエプロンはどうかと思うんだ」
「お前が『奥さんらしいから』と、わざわざエプロンを買って私に着せたんだろうが」
そんなに嫌なら断ればよかったのに、やっぱり君って妙なところが素直だよねぇ、と後ろから聞こえるエインワースの呟きも腹立たしかった。
精霊事情も魔法使い事情も知らないので、仕方がないとはいえムカツクのはどうしようもない。流し台の水を止めたメイベルは、忌々しくて教える気も相槌を打つ気にもなれず、エプロンの裾で手の水分を拭いながら玄関に向かい出した。
食卓で珈琲を飲んでいたエインワースが、彼女の不機嫌さを見て取って立ち上がり、自分も訪問客を確認すべくその後に続いた。
「寒さ対策なら、厚地のジャケットという手もあるのでは」
「前にも言ったが、人間の感じている『寒い』とは違う事情だ。私が魔法で出したコレは、特別仕様の専用ローブで、日中の風だけじゃなく【夜の精霊】が少し苦手としている日差し対策でもある」
そこで、玄関の扉を開けた。
そうしたら【リック・ハーベン】が立っていた――というわけである。
※
小さなリビングに通されたリック・ハーベンは、座ったソファの脇に革の鞄を置いた。また「すみません」と謝って出されたティーカップを手に取り、少しだけ飲んでから、向かいのソファに並んで座った二人を順に見た。
視線が合ったところで、メイベルは早速「で?」と切り出した。
「なんで『監視』なんだ?」
まぁ私が悪精霊の代表数種のうちの一つに挙げられているのは知ってる、そのせいだろうとは推測もするが、と独り言のように言葉を続けて威圧を弱める。
精霊の中には【悪精霊】に分類されている種類もあり、それらに惹かれ、魅了されて自ら身を差し出す人間は少なくない。相手の精霊の種類や、時と場合によって、その人間が『どうなるのか』も違ってくる。
すると、リックは「まぁ、それもあるのですけれど」と、おどおどとした口調で認めつつこう続けた。
「……その、なんというか…………『本当にそうするつもりなのかなぁ』って……?」
「なるほど、話の分かる『監視人』らしい。私もエインワースの計画とやらについては阿呆だと思っている、ちっとも理解出来ん」
腕を組んでいたメイベルは、ならば受け入れようではないか、というように少し顎を上げて見せる。隣にいる当人が「え~、ひどいなぁ」と感想するのを無視して、彼との話を続けた。
「それで、お前はエインワースの目的を知っているのか?」
「はぁ。まぁ、あなた達を受け付けした窓口の彼女から引き継ぎを受けて、奥の部屋でざっくり話を聞かされましたから。その方法や詳細については分かりませんが、『だから結婚届けを受理して夫婦にして欲しい』、と彼は僕におっしゃったわけです」
言いながら、彼が悩むような表情で首を捻る。
メイベルは、エインワースに出会った日を思い返しながら、ティーカップを手に取った。『理解出来ない頼まれ事』を大まかに説明されただけの身としては、何をどうやってそうするつもりなんだ、と思うところ関して共感出来るような気がした。
「その、私が個人的にも、見届けたいなと……そう思いまして」
しばらく沈黙が続いた後、リックがぽつりとそう言った。目を落としたまま、手の指先を意味もなく合わせて押している。
「ですから、役所に届けられた書類は『私の責任』で受理したのです」
「へぇ。つまり本来なら出来なかった事だ、と?」
メイベルは、ティーカップをテーブルに戻しながら尋ね返した。その隣では、エインワースが息を吹きかけながら、慎重にヒヂヒヂと紅茶を飲み進めている。
問われてすぐ、リックが顔を上げた。
「はい、その通りです。いくつかの地域では一時的に夫婦として法律で認めて、住民票を発行するものもありますが、ウチでは人間同士の結婚でなければ認められません。まぁ前例が全くなかったのも理由にあるかと」
役所の人間らしい様子でキッパリと述べた彼が、ふと「ああ、そうだ」と言って鞄を手に取った。一つの茶封筒を取り出してテーブルに置くと、メイベルの方に寄せる。
「今日はこれを届けに来たのです」
封筒の中を確認してみると、住民証明書であるようだと分かった。そこにはエンイワースのフルネームと、見慣れない苗字が付いた状態の自分の名前が記されている。
「今更の住民証明書か」
「はい。婚姻は先日成立して入籍済みですが、こちらはそれとは別の住民権になります。精霊なので移住という手続き方法は取れませんし、ですから今回、新しく住民権を発行する方法を取らせて頂きました」
リックは、役所説明だと饒舌になるようだった。すらすらと語っていく。
「住民権の発行の日付けは本日。ですから、本日付けであなたは『エインワース様の妻として』、晴れて一時住民権を得たわけです」
「ふうん、なるほどな」
とはいえ、住む事が役所から認められたというだけだ。
メイベルは興味がなくて、それを封筒に戻してテーブルに置いた。気付いたエインワースが、不思議そうに「もっとじっくり見てもいいのに」と言う。
「戸籍のところ、まるで本物の家族みたいだろう?」
「エインワースは、ずっとそればっかりだな。これは、ただの『役所は認めました』と意見が書かれている紙切れみたいなものだよ。もし誰かが魔法使いに精霊を退かす事を依頼したとしても、その行為を止める権限も保証も有してはいない」
そうだろう、と確認するようにメイベルはリックへ目を向けた。視線を寄越された彼が、だらだらと冷や汗を流しながらもごもご答える。
「まぁ、その……うん。実を言うと、そう、なりますね…………君、よく知っていますねぇ」
「私は、飽きるほど人間の暮らしを見てきたからな。じっとしていようが、お喋りな精霊から『好きでもないのに話を聞かされる』。だから勝手に詳しくもなるんだよ」
メイベルは片手を振ってそう言うと、別に構わないけれどと視線を解いて足を組んだ。
そのやりとりを聞いていたエインワースが、「一ついいかな?」とティーカップを置いてリックに尋ねる。
「【精霊に呪われしモノ】だからと追い払いに来る魔法使いは、果たしているのだろうか? 私が話を聞いた魔法使いも『ただひたすら近寄る事をしない』と口にしていたし、【人肉食の悪精霊】より随分害がないと思うのだけれど」
「……ぇと、それは…………近寄らないのなら『比較的に害はないだろう』と想定したうえでの見解のように僕は感じます。えっと、専門家ではないので印象的な事から述べますと、『だからこそ悪精霊と同じように分類されている』のかな、とか……?」
そもそも僕だって初めてですよ、精霊関係を担当するのは、と言って彼は弱腰のままメイベルを窺った。
「僕は霊体タイプも肉体持ちタイプの精霊も、これまで実際に見た事はなくてですね……何せ問題が起これば、魔法使いがきてちゃっちゃと解決してしまいますし」
つまり好奇心もあるのか。
メイベルは、監視付きでわざわざ結婚を受理した男から、同じく精霊に興味を抱いている風でもあるエインワースを横目に見た。『役所のリック』が見届けたいと口にしたのは、この先彼が迎えなければならない人間としての終わりだろうか。それとも、私の方か――。
「僕は、なんていうか、その……君が『人間ではない』というのはなんとなく肌で感じています。僕ら人間とは少し気配とか、存在感が違っているなと」
リックがごにょごにょと話す声が聞こえて、そちらに目を戻した。彼は、そわそわと動かす自分の指先を見ながら喋っている。
「けれど、えぇと、客人として僕を普通に出迎えたり、両手でティーカップを持って飲んでいたり、町で買い物をしたりしている姿を見ると、人間にも見えてきて、自信もなくなってくるというか……」
「なんだ、つまりストーカーか。なら今すぐ帰れ」
全てを察した、ならば容赦はしない。
メイベルは、買い物風景を見られていたという下りで、絶対零度の眼差しをした。首の前で親指を立てると、そのまま手を横に滑らせる。
エインワースが、のんびりと笑って「わー、それどこで覚えたの」と棒読みで言った。彼女から凍える視線を向けられたリックは、「ひぇっ!?」と飛び上がった。
「あああの誤解です、たまたま僕が仕事で出たら、あなたが歩いていたんですッ」
「ほぉ。たまたま出た先で、買い物をしている私を偶然にも見掛けた、と」
「あわわわわますます目が冷たくなってる……っ。本当に誤解なんです、僕は【精霊に呪われしモノ】を危険視も敵視もしていません、唯一エインワース様達の事情を知る協力者です! つまり味方でもあるんです!」
リックはピンと背筋を伸ばして、必死な様子でそう主張した。
「魔法で姿を変えていると役所の先輩には教えられたりしましたが、それでも君はパッと消えるわけでもないし、そのうえ外見は子供だし、正直髪の色を言われても精霊だとかピンとこない部分もあるんです。……ローブにエプロンっていう不器用過ぎる格好しているし」
後半、またしてもごにょごにょと口にする。
そう続く言葉を聞いたメイベルは、無言で元凶のエインワースを威圧していた。彼は涼しげな表情を窓の方へ向けて、視線が合うのを自然な様子でかわす。
「君が【精霊に呪われしモノ】であるとは承知しています! けど、その、あのっ、きちんと見届けますから」
見届ける、と耳にしたメイベルの手がピクリと反応した。
「何があろうと、僕は二人の全てを見届ける覚悟です。『最後まで味方であり続けます』、だからッ何かあれば協力させてください! えぇと、それから……ッ、僕に精霊がいるというのを教えてくれませんか!」
どこか余裕もなくなった様子でリックが叫び、テーブルに両手をついてガバリと頭を下げた。
メイベルは、「は……?」という表情を浮かべた。結局のところ、やっぱりこの男は精霊という存在に好奇心を抱いているのだろうか?
「そもそもお前、言葉が変になってるぞ」
「あははは、パニック状態だねぇ。いや~若々しい」
「その台詞、爺臭さが漂うな」
その時、玄関の扉を叩く音が聞こえてきた。続いて「『メイベル』と『エインワース』いる~?」と、呑気な調子で呼び掛けが上がる。
その声を聞いたメイベルは、「昨日に続いて、あいつは暇なのか」と切れそうになった。しかし、ふと、妙案だなと思い立って「ちょっとここまで来い『グリー』!」と大きな声で言い返すと、くるりとリックへ目を戻した。
「おい、役所の――ああ、面倒だから『リック』と呼ぶが、精霊ならソコにもいるぞ」
「へ? 精霊?」
「ほら、後ろを見てみろ。これが【子宝を祝う精霊】だ」
そう言われたリックが、足音に気付いて言われるがまま振り返る。その直後、見事に石と化した。
グリーがリビングに入ってきた。初めて自宅の中に上がったとは思えないほど、やけに慣れたように自然と室内に足を踏み入れると、金緑の精霊の目をきゅるんっとさせて訪問者を見つめる。
「あれ? 人間のお客様が来てたの?」
彼がそう問い掛けて、コテリと兎耳ごと頭を傾げる。すると、その直後にリックが「感激した」と口にしてゆっくりと立ち上がった。
「そんな……信じられない、まさか本物の精霊が今、僕の目の前に……!?」
そう言いながら一歩踏み出したところで、彼がずしゃあっと膝をついた。
普段にはない反応だったのか、グリーが「えぇぇ……」とドン引きした。それから「ちょっと用事を思い出した」と言って、そそくさと出ていった。