36話 町で唯一のホテル
町で唯一のホテルは、都市のものと違って建物の規模は小さめだった。
五階建てで、各階にある部屋はどれも同じ大きさだ。風呂やトイレなど、必要なものは全て揃っていて、部屋の残りのスペースは二つ置かれたベッドが占領している。
それでも、二人で泊まるなら十分な広さだ。クローゼットが広めで、遠方からの調査団や観光者向けに、荷物置き場が改装されて奥行やスペースが充実しているのはいい。
「まさか店で、サンドッイチを買い占めることになろうとは…………」
入室して後ろ手に扉を閉めたところで、スティーブンが疲れ切った顔で呟いた。腹が減っていないなんて嘘じゃないのか、と首を捻るそばをメイベルが通る。
買った食べ物を、ここへ来るまでに全て歩きながらペロリと完食していた彼女は、そんな彼の様子も気に留めずベッドに向かっていた。シングルベッドは、皺一つない清潔な白いシーツがされていて、ベッドマットも厚みがある。
バフンっと飛び込んで、真っ先に寝心地を確認した。それを見たスティーブンが、荷物を下ろして問い掛ける。
「おい、何してんだよ。先に確認するのは、水が出るかどうかだろ。さっきフロントで『手動で開けているからまずは確認お願いします』って言われたばっかりだろうが」
「私にとっては、ふかふかのベッドで寝られるか否か、が一番重要だ」
「また精霊らしかぬ事を言うよな」
ぶつくさ言いながらも、キッチン側の水の出を確認し、続いて浴室へと向かう。
メイベルはベッドに伏せた状態で、顔だけ向けて、彼の姿がそちらへと消えていくのを見送った。フードが外れて、短い柔らかな緑の髪がシーツに広がっている。
「…………やっぱり『暮らしのあるベッド』がいいなぁ」
華奢な指を少し滑らせて、温もりのないシーツを軽くくしゃりと握った。
シーツの冷たさの印象が、それだけで違う気がする。何がどう違うのか、と言われれば精霊の自分には説明が難しいのだけれど、暮らしの匂いがないホテルの室内には『ただただ何も感じない』のだ。旅疲れでそのまま眠ってしまおう、だとかいう気持ちも起こらない。
不意に、ふわりと髪を撫でられるのを感じた。小さな何かが背中に乗るのを感じた直後、蝶の翅が羽ばたくような音と風が首の後ろに触れた。
『ふふっ、【精霊に呪われしモノ】、来た』
そんな精霊の声がして、メイベルは顰め面を向けた。人様の背中に乗り、寄り添うように頭で頬杖まで付いたその半透明の小精霊を、チラリと睨む。
「お前なんて呼んでないぞ、【眠りの精霊】」
すると、人の姿が半分といったその小精霊が、背中の四枚翅をパタパタとさせてにっこり笑った。獣のように体毛に覆われた異形の緑の手は、楽しげにリズムを刻む。
言う事はきくが、降りる気はない。
悪戯好きの性分から、そう考えているのだと察してメイベルはイラッとした。振り落としてやろうと思って寝返りを打った途端、目の前にまた別の精霊を見てうんざりした。
先程の小精霊が隣で寝転ぶ中、古い民俗衣装の男の姿をした精霊がこちらを見下ろしていた。髪は漆黒色で、その目は暗黒を覗き込んだかのような黒色をした『馬』の目だ。
つい最近見たばかりの気配を察知して、メイベルはわざわざ魔法で人間の姿を取っているこの彼が、どの種族のどの精霊であるのか分かって、ギロリと睨み付けた。
「そこを退け、【首狩り馬】」
前回の素人魔法使いとの一件は忘れていない。
こうして『同じ【首狩り馬】』がくるのは珍しいとはいえ、それ以上に向こうの地から追ってきたというのが信じられないでもいる。
「なんだ、どっかの精霊にでも護衛と監視を頼まれたのか? というか、脅威にも晒されていないのになんで出てきた。とりあえず退――」
「『寝付かせ』を所望していると、この精霊からメッセージを受けた」
「んなの所望してねぇよ」
メイベルは、彼がいうところの寝付かせる方法を察して、苛々した乱暴な口調で言った。
「お前ら【首狩り馬】の頭の中には、『ソレ』しかないのか」
確かにそういう役割を担っている種族でもあるが、機械じみた繰り返しのような問い掛けもなく、こうして出られたのは初めてである。本来【首狩り馬】は、散歩のようにして出歩く事もない種族だ。彼らは精霊女王の足元を住み処としていて、人に近い自我はない。
だというのに、こちらが『否』を示しても彼は動かないでいる。いつものように淡々と動き出しもしないのを見て、メイベルはますます腹が立ってきた。
「おいコラ、何を止まっているんだ。早く退け。お前だけ『変な【首狩り馬】』って呼ぶぞ」
「我は【首狩り馬】だ、【変な首狩り馬】という名ではない」
オウム返しのように口にして、その馬精霊がゆっくりと首を捻る。
言葉によるコミュニケーション能力は、生物と違って低い。抑揚のない淡々とした響きの声、感情を宿していない瞳、精霊女王によって『作られ』産み落とされた闇の精霊――。
こういうタイプの精霊は、違う名前を呼び掛ければ存在名を訂して去るものだ。人間でいうところの怒った感じになるのかと思っていたのに、まるで考えるような様子の沈黙を見て、メイベルは眉を寄せた。
種族的に、そんなことがあるはずはないだろう。そう考え直してこう言った。
「お前らは、相手と同じ種族の姿をとるのは聞いているが、こうもしつこいタイプは初めてだぞ。ぶっ飛ばされたくなかったら、とっとと失せろ」
「我だけ、というのはどういうことだろうか」
「はぁ? まぁ『個』としての名前を持たない【首狩り馬】のお前にも分かるように言えば、個体として、というやつだ」
というか、【首狩り馬】とこんなに喋ったのも初めてだ。
いちおう会話は出来る種族であったらしい。人のような自我というものを持たないタイプを色々と見掛けてきたせいか、『かなり風変わり』といった印象を覚えた。
その時、ガタッという音がして「はぁあああああ!?」という煩い叫びが上がった。今度はなんだと思って目を向けてみると、呼び鈴の置かれた戸棚に足をぶつけたスティーブンがいた。
「その『半透明のチッコイの』はなんだ、つか、なんでその手の精霊が俺にも見えてんだ。というか、その破廉恥な民族男はどっから湧いて出た!?」
彼が、困惑のままに疑問の全部を口にした。長ったらしいツッコミを力いっぱいする様子から、かなり頭の中がパニックになっているようだった。
今、人型をした【首狩り馬】の姿は、上半身の肌がかなり見える民族衣装だ。この大陸では馴染みもない古い時代の恰好であるし、破廉恥という言葉に関しては、そうだともちょっと違うとも言い難い。
「落ち着け、翅がある方は【眠りの精霊】で、こっちのデカい方もまた精霊だ」
早く退かないせいで面倒な事になった、と真顔で思いながらメイベルは言った。
人型をした【首狩り馬】に見つめられているスティーブンが、ようやくその『精霊の目』に気付いて「あ」と口にした。それでも疑問は絶えないようで、じりじりと警戒を見せる。
「おい、なんかじっと見つめられているんだが、この人型精霊には罪悪感だとか変なところを見られただとかいう感情はないのか? 俺は、てっきり襲われているのかと――」
「これはな、馬の姿をしている精霊だ」
「馬……? つか、説明がざっくりすぎねぇか?」
「人間の世界でいうところの、種馬としての役も担っている」
しばし間を置いて、スティーブンが察した顔で「は!?」と叫んだ。
「待て待て待てっ、精霊なのにそういうのはありなのか!?」
「何を驚いているんだ? 精霊も一部の種族は、生き物と同じく子を残すぞ」
そう答えたら、彼がまたしても固まった。今更のように、何か考える事でもあったみたいな様子で目を落とす。
メイベルとしては、魔法使いでもなければ、その辺の一般人よりも精霊事情に疎い彼の混乱に付き合う義理はなかった。疑問符が見とれる彼に向かって、「おい」と言葉を投げる。
「固まってないで、この馬をどかしてくれ――孫」
「いやだから『スティーブン』だって教えただろうがっ!」
「いつもならとっとと言う事をきく精霊なんだけどな、動いてくれないわけだ」
メイベルは、スティーブンの言い分を聞き流してそう言った。魔法でぶっ飛ばしてやろうかとも直前までは考えていたのだが、ここでやると室内の物も色々と吹き飛ぶと気付いた。
「さっきはちゃっかり呼べてたじゃねぇかよ!」
怒った声で言いながら、スティーブンが隣のベッドの枕を掴んで向かい、勢いよく横に振り払った。
それが当たる直前、小精霊と浅黒い肌の人型精霊が消え、驚いた彼の手から枕が離れた。空振りした枕が、そのまま飛んでいって壁にぼふっと衝突した。
起き上がったメイベルへ、スティーブンがまるでオバケでも見たような顔を向ける。
「ちょッ、あいつら消えたぞ!?」
「肉体持ちではない精神体の精霊だ、魔法で物質化していただけさ」
精霊同士であれば視認出来るというのに、あの【眠りの精霊】もわざわざ魔法で見えるようにしていた。それは、連れている人間の確認と牽制のためだ。
どいつもこいつも、とメイベルは思う。
その時、キッチンから物音が上がった。まだ警戒が抜けていないスティーブンは、そちらへと目を走らせると、小さな物音が続くのを聞いて目を戻した。
「いいか、俺はちょっと向こうを見てくる。お前はそこから動くなよ、余計な精霊を呼びこむなよ!?」
「私が呼び込んでいるわけじゃないんだが――」
そう答える声も聞かず、彼が走り出してしまった。メイベルは少しボサボサになった頭をかいて、推測される反応を待つべくやれやれとベッドに腰かけ直した。
ふと、この姿だと床に足が届かないことに気付いて、チラリと目を落とす。何度か華奢な足を揺らしたところで、そういえばとエインワースに出会う前と比べ「――少し前より、また小さくなったんだっけ」とポツリと呟いた。
「なんじゃこりゃああああああ!」
案の定、キッチンからそんな煩い声が聞こえてきた。
相変わらず声だけ無駄にデカい。そう思いながら顰め面を上げてみると、カウンターから顔を覗かせた彼と目が合った。
「ちょ、おい、キッチンの上をキノコが歩いているんだが……っ! しかも三匹!」
「兄弟なんだろうな。揃って仲良しなこった」
容易に想像できて、乾いた笑みを浮かべて適当に返事をした。
「んな推測と感想は求めてねぇよッ」
途端に向こうから、怒り心頭の反論が返ってきた。まぁそうなるだろうなと思って、カウンターに遮られているところを指すスティーブンを目に留める。
「その『キノコ』、頭の部分が青い色じゃなければ無害だ。たまに勝手に水道を捻って、水浴びするくらいだな」
「よし即追い出す、んなこと勝手にされたら迷惑極まりないッ」
言いながら、彼の頭が一旦カウンターから見えなくなる。そこから「ひぇっ、触り心地がマジで『キノコ』だ」と聞こえたかと思ったら、再びガバッとスティーブンが現われた。
こちらを見た彼の両手には、三匹の『キノコ』が一緒くたに握られていた。ぶるぶると震えたその小精霊を持つ彼も、怒り顔ながら混乱して参った目をしている。
「しかも、いちいち涙目だけ向けて訴えてくるという罪悪感!」
「わざわざ感想をどうも」
子供が報告してくるみたいな感じだな、とメイベルは心の中で呟く。これまで精霊を全く知らないでいた、初めの頃のエインワースみたいだった。
「仕方ないさ、そいつらは人間とは喋れない」
「だからって涙目で訴える作戦に出るか!?」
「可愛いだけのこいつらに、他に何が出来ると?」
「自覚有りでやってんのかよッ、性質悪ぃな!」
スティーブンは走り出すと、とっとと手から離したい一心で、窓をスパーンッと開けて外に放り投げた。
三匹のキノコが、ふわふわと落下していくのも見届けず素早く閉め直す。
「つか、なんでこうも精霊ばっか出てくんだよ!?」
「私がいるからだろ」
振り返って苛立ちを口にしたところで、スティーブンはピタリと止まった。数秒ほど間を置いて、ゆっくりと頭を動かしてベッドに座っているメイベルを見る。
「説明を求める」
困惑顔でそう言われた。
混乱がピークに達しているとはいえ、素直に助言を求めてくるのがちょっと気持ち悪いな。そうメイベルは思って、分かりやすいよう手振りを交えて手短に答えた。
「精霊事情を知らないお前に説明してやると、お前は精霊の私をこの部屋に入れた。ここには今、私という精霊がいる。そうすると他の精霊達は『精霊オッケーな場所なんだ』となる。すると、少ないこの地の精霊達が、好奇心から覗いてきたり立ち寄ったりする」
そこまで口にしてようやく、スティーブンは理解に至ったらしい。なんて迷惑な解釈なんだ、と言わんばかりの表情でよろけて一歩後退した。
「俺はッ、そもそも精霊はお前しか入れてねぇよ!」
「うん、お前はエインワースと違って拒絶してる。だから、その部屋に『私だけがいる時』に精霊は出入りしているわけだ」
メイベルは、いちいち煩い反応をする彼を落ち着かせるよう、そう言い聞かせた。
するとスティーブンが、「は」と口にしてまたしても硬直した。小精霊達が出現した際の状況を思い返したのか、その共通点に気付いて叫ぶ。
「はああああああ!? じゃあなんだ、この部屋でお前から目を離すと、勝手に精霊がポコポコ増えていくってわけか!?」
「久々に遠くまできたからな。――そのうえ、魔法使いでもないお前のそばだし」
後半、メイベルはぽそりと口にした。
彼らは警戒して『見張って』もいるのだ。【精霊に呪われしモノ】を嫌っているのは、この世界の神様と、人間だけだから。
そう思い返していると、扉のベルが鳴った。
チェックインした際、ついでに注文していた料理が届いたようだ。ドアの向こうから、それを呼び掛ける声が聞こえてきたて、スティーブンがハッと目を向ける。
「おいおい、大丈夫なんだろうな? こっちでの調査は数日はかかるぞ」
そのまま目を戻してきた彼に問われ、メイベルは「問題ない」と答えた。
「一日もすれば今よりは落ち着く。精霊は『噂』やら『お喋り』が好きだからな」
再びベルが鳴らされて、丁寧な呼び掛けで在室を問う声が聞こえてきた。急かされたスティーブンが「今行く!」と答え返し、そちらへと足を向けて短い廊下を進む。
「お前一人にしたら、精霊がどんどこ入ってくるっていう状況も信じられないんだが――」
そう彼のぶつぶつ言う声を聞いていたメイベルは、扉から見えるのを配慮してフードを被り直したところで、上から何かに乗られて「あ」と前のめりになった。
その声を聞いてすぐ、スティーブンがガバッと振り返った。彼女の頭に目を留めるなり、猛ダッシュで戻ると、モフモフとしたよく分からない白いものを両手で掴み、証拠を隠滅する勢いで窓の外へ放り投げた。
ピシャリと窓を閉め直し、スティーブンは肩で息をして立ち尽くす。精霊事情とやらが、どれほど厄介なのか改めて痛感しきった様子だった。
「この部屋を借りたのは俺だし、俺は他の余計な精霊の出入りは許してねぇよ……っ!」
そう頭を抱えるそばから、扉前でずっと待たされているホテル員の「お食事をお持ちしましたー」という呑気な声が、またしても上がった。




