1話 こうして彼女は、その老人と結婚した
公道を馬車が通り過ぎる。ガタガタと音を立てて走り去るのは、ここ数十年で出来た自動車という乗り物だ。日中でも品が漂う街灯、魔法石で燃え続けている外竈で商品を焼いているピザ屋――。
そんな都会の煉瓦造りの町には、ぽっかりと不自然な森が一部残されている。
生い茂った草と、不気味に垂れさがった木々。少し奥には一本の巨木と小さな水場、それから古い石の台座があった。けれど誰もが、見えないという素振りで足早に通り過ぎていく。
そこには、古びた布を頭から被った子供が、膝を抱えて座り込んでいた。
一見した齢は、十二、三歳ほど。しかし被られた布から覗くのは、人ではないと示す獣のような金色の目だった。誰もが悪霊を恐れでもするかのように、その幼い少女の存在を無視している。
彼女は、ただひたすらじっと動かず、木々の向こうにある人の流れを見ている。覗く手足は幼く、驚くほど白い。被っている布からは、耳を隠す程度の『クッキリとした緑色の髪』が覗いていた。
「君が、【精霊に呪われしモノ】かい?」
かさりと音を立てて、草を踏んで一人の老人が歩みを進めてきた。
彼は、老人にしては背丈があった。厚みのある身体に似合う薄地のコートの裾を揺らして、「よいしょ」と言いながら、頭にかかるしな垂れた木の枝や雑草を避ける。
「悪しき精霊だというから、どんな子なのだろうと思っていたけれど、とても普通の子供みたいだ」
目の前にきた老人が、小首を傾げた。
「どうして男の子の姿をしているんだい?」
「人間は、緑色の髪なんてしていない。それから、この姿に関しては『適当だ』」
膝を抱えていた彼女は、小さく唇を動かして淡々と答えた。すると彼が、「おやまぁ」と言って薄いブルーの目を見開く。
「口調も男の子だ。子供の姿相応なのかな、どっちともつかない声だね」
「これは元々だよ。悪いのかい」
「いいや、とても『いい声』だ」
老人はそう言って、のんびりと笑う。
彼女は喜怒哀楽のない金色の目で、彼をじっと見つめてから「変な老人だ」と口にした。
「魅了の魔法を持った精霊の類だっている。気を付けた方がいい」
「すると『君もそう』なのかい?」
「私は違う。それを持つのは【誘惑するモノ】たちだ」
「そうか、君は【誘惑】をしないのか。それなら、これまで話に聞いていた【精霊に呪われしモノ】のイメージとは、やっぱり随分とあやふやなもんなんだなぁ」
顎に手を触れて、彼がゆっくり首を傾げる。
それを見た彼女は、すぐに訂正するように「いいや、『ほぼ正しい』さ」と答えた。
「ただの子供に見えるのは、お前が魔力も持たないうえ、どこか鈍すぎる人間だからだろうね。風変わりな魔法使いであったとしても【精霊に呪われしモノ】に声を掛ける者は稀だ、滅多にいない」
で、一体何をしにきたんだい、と彼女は尋ねる。
すると、老人は用を思い出したような表情を浮かべて、にっこりと笑いかけた。
「私の妻にならないかい? つまり結婚だよ」
そう提案され、場が数秒ほど沈黙に包まれる。
彼女は無表情のまま、思案する視線をゆっくり左右に流していた。それから、前に立つ老人に目を戻して問う。
「それは、【人ではない私】への依頼か?」
「うん、そう。『頼み事』だよ」
その回答を聞き届けた彼女は、あっけらかんと答えた彼の、左手の薬指にある古びた指輪を見た。
「よほど大事にしてある結婚指輪みたいだな」
「おや。分かるのかい?」
「長い年月をかけて大切にされた物には、守りの魔力が宿る。――それなのにあんた、どうして『再婚』なんてしようとするの」
「自分の死を、最高のものにしたい」
私の大切な人達の悲しみが、『もっとも少ない最期』だ、と彼は言って微笑んだ。
「ご覧の通り、私も後どのくらい生きられるか分からないほど老いた。まだまだ元気ではいるけれど、私自身、終わりが近づいているのを感じている。私が死んだあとも、大切な人達が笑っていられるようにしたいんだ」
だから協力してくれないか、と言って、老人はその言葉の先を続けた。
「――」
少しだけ、長い話だった。
けれど彼女は、語られるその話にじっと耳を傾けていた。長らく聞いて、全てを聞き届けたうえで、涼しげな笑顔のまま口を閉じた彼に、こう言った。
「――あんた、きっと後悔するよ。来たる死のために再婚しようだなんてさ。結婚って、とても大切なものなんだろう?」
多分、と言って、彼女は無表情のまま首を傾げる。
「人と暮らした事のない私には、よく分からないけれど」
すると、彼はその様子を見下ろしてにっこりと笑った。
「うん。だから私は、『君を選んだ』んだよ」
そう言ったかと思うと、彼が手を差し出してきた。
「一緒に帰ろう。そして、これから私達は家族になるんだ」
どうだろう、少しは面白そうじゃないか? と言って彼が笑う。幼い姿をした彼女は、その表情をじっと見つめ、それから――
「――……確かに、『終わりまでじっとしているより』は面白そうだ」
そうぼんやりと口にして、その手を取った。