降り続く雨
街を歩く人の傘が一斉に開く様子を舗道に面したカフェから眺めていた。ああ、また雨か。最近は、まるで水の国にすんでいるようだ。水を感じない場所はない。部屋では床も布団も湿っている。地下鉄の通路も雨漏りの水がたまり、このカフェがある商店街はアーケードの破れ目から雨が滝のように落ちてくる。
『傘をわすれた』
今朝は、よりによって傘を持たずに家を出た。遅刻しそうだったから、戻ることもできず電車に乗った。勤め先の駅で降りて、階段を上りきると、外は雨だった。俺は、仕方なく、雨の中に走り出た。勤め先への道は大きな公園の脇を通っている。「なんでこんな大きな公園を作るんだよ。途中にコンビニもないなんて。」とぼやくと、公園の境に植えられている大きなクスの木は、次々に葉から大粒の水滴爆弾を落としてくる。雨に打たれて、おが屑みたいな花が無数に歩道に落ちて、車道の方に流れていく。
道には同じ方向へ歩く勤め人が傘をさして列を成して歩いている。その間を俺は、傘をよけながら、頭にかばんを載せて小走りに走る。誰もが傘に顔を隠して、「天気予報も見ないのか。」と俺を見送る。こんなときに、きれいな女性が「まあ、お気の毒に、お入りください。」と言って微笑む、そんなことがある訳はないだろう。見ず知らずの間抜けな男を傘に入れたら、あとでどんなトラブルになるかもわからない。そういう時代なんだ。きっと、俺だって逆の立場なら傘に隠れる。
ちぇ、信号が赤になった。傘が横断歩道の前にたまっている。前は幹線道路だから、なかなか信号が青に変わらない。水に自意識も溶けて、呆然としていた。目の前の停止している大量の傘からは、雨が次々に流れ落ちている。
何か気配を感じて振りむくと、後ろから、誰かが自分に傘を差し向けてくれている。きれいな女性だった。俺はどぎまぎし、首を前に出して、「どうも」というのがやっとだった。もっと俺がかっこいい時に会いたかった。女性は微笑んではいけないというように、口をつぐんだまま、小さく会釈した。やっとのこと勇気をだしたのだと、言いたげであった。
はやく信号がかわってこの状況から逃れたいとも、もっとこのままいたいという葛藤を感じるまもなく、信号が変わった。おれは、「どうもありがとう。」と言い、急いで走り出した。ぬけぬけと、彼女の傘の下で、「雨が多いですね。」なんて話しかけ、相手は「どちらまでですか」「そこのA社です。」「あら、私は隣のB社です。そこまで、ご一緒に。」なんて、ドラマみたいなことがある訳ないだろう。こんなせりふは言える訳がない。
会社の玄関に着くと、おれは当然びしょびしょになっていた。傘の雫取りをいまいましく眺めながら、セキュリティゲートへ向かう。歩くたびに靴がプチョプチョという音をたて、搾り出された水の流れが俺のあとに続く。
『ある電話』
その日の午後、やっと服が半乾きになってきたころに、外線から俺宛に電話があった。俺の顧客なら携帯にくるはずだし、誰だろう。そのときまた、もしや彼女ではと夢想した。ありえない。名前も会社名も言っていないし、「どうも」といって名刺交換したわけでもない。電話は男の声だった。がっかりした。「国家公共安全対策部のXと申しますが、ある案件でお目にかかりたいのですが、お時間をいただけますか。」と低いくぐもった声で言った。
退社してから、指定されたこのカフェで待つ。この国では、「国家公共安全対策部(公安対)」といわれたら、断るわけには行かないのだ。それにしても何の用だろう。俺はこの国の独裁政治にたてをついたこともなければ、批判したこともない。なんら、思想を持たない男だから、政府の脅威になることなど絶対にない。もちろん、なにか彼らの気に障ったことをすれば、カフェで待てということはないだろう。そういう場合は、すぐにも、屈強な男達が来て両脇を抱えて理由も告げずに連行するからだ。そんな時、わきの下の部分はまだ生渇きだから、触れたとたん顔をしかめることだろうなとぼんやり考えながら外を見ていた。
ドアが開いて、一人の濡れた背のひくい小太りの男が入ってきた。雨にぬれてずり落ちためがねを持ち上げながら、まっすぐに俺の席に来る。俺はまったく見知らぬ男なのに、席に着くなり、首から提げた身分証明書を得意気に見せた。Xと名前がついた身分証明書には、公共安全対策部の輝く象徴である金色に光る盾と槍のマーク、心臓心拍と脳波パターンで個人を証明する生体証明が緑色に光っていた。
「突然お呼び出しいたしまして、失礼します。実は、アンドロイドAZ309号について、少しお尋ねしたいことがありまして。」とハンカチで顔や服を拭きながら、慇懃な態度で俺に話しかけた。彼の鼻の頭は雨でぬれて光って、人の好さそうな顔に見える。
「アンドロイドに知人はいませんが。」と俺がいうと、「いや、今朝、お話になったでしょう。傘を差し出したのはアンドロイド試作機AZ309号です。人間と同じ動作をする仕組みなので、傘をさしていましたが、あれは完全防水なので、本当は傘は必要ないのです。濡れているあなたの姿に反応し、傘を差し出したものと考えられます。」
俺は、がっかりした。完全に彼女に対する淡い夢想は破られた。そうだな、あの行為は、今時の人間にできることではないと納得せざるをえなかった。やっとのことで、俺は、「それがどうしたというのです。」と答えた。
「AZ309号機は、ある秘密の任務のために試作されたアンドロイドです。その任務については申し上げられません。なんたって国家公共安全対策部の任務ですから。ある会社の派遣従業員として勤務しております。」
「私は何もしていませんよ。公安対にとがめられるようなことは。」
「それは、よく存じています。私どもは市民の皆さんが良識のある行動をとられていることは、存じております。皆様の安全を守るために、常に見守っておりますから。」
常に見られているんだと思いながら聞いた。「それでは、なぜ私を呼び出したのですか。」
「それは、AZ309号がなぜ、あなたに反応したかということなんです。あれは、任務以外のことには反応しないように設計されているはずなのです。」なんか胡散臭いことでもしているのではと俺を見た。公安対の任務というのは、どこかの秘密を探るようなことだろう。
『提案』
「もちろん、あなたが、何か私どもの活動に差し障りがあることを行っているとは申しません。それは確認ずみです。それより、ご協力願いたいのです。AZ309号の反応行動が、設計上の問題かどうか判断する必要があるのです。そこで、もう一度、再現可能か確かめていただきたい。さらに、ほかにどのような場合に反応してしまうか確認したいのです。なんたって社会は複雑ですし、女性アンドロイドというものも複雑ですから、設計段階では考えられないような状況も出るわけです。」
俺にもう一度、雨に濡れて会社に行けということか。
「もちろん、報酬はお払いします。」
この国では、国家に貢献できる高い能力を持つアスリート、科学者、事業家たちは高い報奨金をもらえる。取り柄のない俺にはそんな機会はないので、せめても目に触れないように臆病に生きているのだ。それが、雨に濡れるだけ儲かるなんて、いい話じゃないか。それも公安対が提案しているのだから、絶対、詐欺じゃないわけだ。
「今まで、任務以外には反応しなかったAZ309に対し、さまざまな働きかけていただきたいのです。そのために、行動の自由をあなたに認めましょう。また、当面の活動資金も必要でしょう。」と金を俺の手に握らせた。この国では、行動の自由も制限されていたのか、と初めて俺は知った。
「それでは、詐欺とかこそ泥も自由ですか。」
「どうぞご自由です。ただし、公共安全対策部に反することをすれば、私たちが動きますから、それはご承知おきください。この国を維持しているのは私たちですから。」とにやにやした顔で相手は言った。人のよさそうな表情は消えていた。
Xは俺に新しい国民IDカードを渡した。そこには、俺の行動の自由を保証する特殊コードが追加されていた。
『行動テスト1』
次の週も、やっぱり雨だった。俺は彼女のテストに出向かなければならない。そこで、傘を持たずに、いつもの時間に会社に向かった。駅の出口を出ると土砂降りだった。頭に鞄を載せて、小走りに走る。そして、また信号で待たされる。見ると、今日は、俺の周りに、何人も傘を持たずに濡れている人がいる。俺と同じ間抜けな奴がいるんだと、嬉しくなったが、そうではなかった。みな、公安対の係官なのだ。AZ309が誰に反応するのか見るためだった。ご苦労なことだ。
AZ309は少し離れていても近寄って俺に反応して、傘を差しかけてくれた。俺は、少し余裕で、「ありがとう。この前も入れてくれましたね。」と話しかけた。彼女は、相変わらず無言で無表情だった。そんなことを1週間繰り返して、いつも結果は同じであった。公安対はこの結果をどう見るだろうか。
『行動テスト2』
次は、陳腐な作戦だ。帰り道ですれ違った振りをして、声をかけることだ。なんと言葉をかけたらいいのだろう、思いつかない。「この前はありがとう、お嬢さん、お茶でもいかがですか。」これは古臭過ぎる。「こんど、対戦ゲームをしませんか。」ガキじゃあるまいし、悩みながら指定された場所に着くと、また、公安対係官が一般人の振りをして、彼女の帰り道に立っている。彼女が水色の傘をさして向かって来る。道は少し登り坂になっているので、彼女の姿は傘に隠れ、歩くたびに傘が揺れる。
俺も傘をさしている。濡れていない条件での反応を見るという指示なのだ。前に構えていた公安対係官が語りかけたが彼女は無反応だ。俺の所に近づく。おれは、結局、ただ、「どうも」としか言えなかった。不思議に彼女は傘を上げて、こちらを見た。それから、並んで駅まで行った。もちろん言葉を発することはなかったが、俺を振り切るように足を速めることはなかった。駅で、「じゃあ」と俺は言って別れた。彼女とは逆方向だからだ。彼女はこちらを向いたが、やはり、無言だった。本当にアンドロイドなのだろうか。
その後、再現性があるかテストするため、何回か彼女と駅まで帰った。他にもいくつかのテストが行われた。テストをするたびに、俺は不安になっていく。彼女が反応するのは、俺の行動ではなく、俺に対してのように思えてきたのだ。当然、公安対もそう見るだろう。AZ309の秘密任務に関係する情報をもっているのではないかと疑い始めるだろう。それより、決して微笑むことはないが、少しぎこちない動きで俺の方を向き、真直ぐに俺の目を見る彼女に対する俺自身の感情に戸惑っている。
『テスト終了』
テスト期間が終わったあと、俺が危険であると思われることはなかった。そんな大それたことはできないと見透かされていた。ただ、AZ309が何に反応したのか、健康診断のように細かく調べられ、データを取られた。身長、体重、腹回り、心拍数、血圧、顔、声、話し方、くせ。そのデータに基づき、公安対は2つの対策を採った。それが、俺にとっては苦い思いを伴うことになった。
数週間が過ぎ、秋が深まり、公園の木々も勢いを失い、色あせてくる。今日も雨が降り、落ち始めた枯葉が泥によごれている。あれから、しばらく彼女の姿を見ていない。彼女はどうしたのだう。彼女は俺に反応したが、それは彼女の中で処理した俺のデータに反応したのだとは理解している。顔や体型を眼のカメラを通して画像処理し、接近した時に心臓心拍パターンや脳波、声の振動数を計測する。それの何かに反応したにすぎない。しかし、こっちの気持ちはどうしてくれるんだと、俺は怒りたい気持ちなのだ。アンドロイドに対して、感情を持ってしまう人間の方が始末が悪い。
帰り道に彼女にあえるかもしれないと、坂道の上で待った。すると、彼女が坂を登ってくるのが見えた。
彼女は傘をさしていなかった。真直ぐ前を見て、ずぶぬれのまま歩いて来る。完全防水だといっていたが、髪も服も水を弾いて、雨粒が彼女の体の上で跳ねている。俺はたまらず、傘を彼女に差しかけた。しかし、こちらを向くこともなく、真直ぐ前を見据えて俺を置き去りにして歩続けた。これが対策の1つだった。彼女は改修されたのだ。
もうひとつの結果は、何人かの男が逮捕された。彼女が派遣された会社の社員だ。俺と似たようなデータを持つというだけで逮捕されたのだ。もちろん実際に彼女が反応したのは、俺だけだったから、無罪放免となった。そう、俺だけだ。
まだ、手元には、特殊コードの付いた国民IDカードがあるが、国家公共安全対策部のお墨付きの自由で、いったい何をしたらいいのか。「...の雨傘」という古い恋愛映画でも見に行くか。