水辺の女神様
―― お山が降ってきた!
客車の中で大泣きしていたチェロの目に映ったのは、まさにそんな光景でした。
水の上に大きなクモが現れたときは、生まれてはじめて本気の悲鳴をあげましたし、竜車が水中に消えたときには気絶しそうになりました。
その時です。
ピリピリキシキシと客車の中がひそかな鳴動を始めると、どんどん振動が大きくなって客車がぐらぐら揺れ始めました。
ドオン! ドオン! と凄い音が迫ってきます。
ピアニカさんはピアノちゃんを抱きしめて隅にうずくまったまま激しく震えています。
チェロはイルカをギュッと抱きしめ、客車の小さな窓からきょろきょろと狭い視界を見回しました。
なにがどうなっているのかわからない不安と恐怖にチェロには泣くことしかできません。
凄まじい音と激震に悲鳴をあげてギュッと目を閉じましたが、叩きつけられるような爆音にビクッと目を見開くと、巨大な影が凄い勢いで淵に落っこちたところでした。
次の瞬間、淵から立ち上がった巨大な波がチェロの目線のはるか上まで伸びあがり、軽々と客車を飲み込むと、あっという間に淵へ引きずりこんだのです。
ブルさんは衝撃で空中へ吹っ飛ばされて、そのまま水面に打ち付けられました。
朦朧とした意識の中でなんとか背面に浮かぶと、ボーっと空を見上げます。
太陽が照っていました。
何度も高い波が体を持ち上げるのにも気にしないまま、右の手のひらを顔の前までもってくると、ただそれを見ます。
握りしめ、また開く。
それを何度か繰り返すと、ようやく荒い呼吸の中にいることに気がつきました。
―― 今日は厄日だぜ・・・。
しばらく右手を見つめていたブルさんでしたが、その手をギュッと握ると姿勢を変え、周りを見渡します。
一体、なにが起きたのかまるでわかりませんが、岸から随分離れてしまったことだけは確かです。
少し離れたところに首長竜がグッタリと浮いています。
その向こうにシャープとフラットが繋がったままの竜車も見つけました。
「しかし、ま・・」
ブルさんはノロノロと水をかき分けながら呟きます。
―― こんだけ酷い目にあってもまだ生きてるんだ。厄日にあっても及第点だな・・いや。
「合格点だ! ツイてるYo! Ho!Ho~!」
首長竜は水面に体を横たえ、頭部は水中に没したままピクリとも動きません。
体に巻きつけたロープは引きちぎれたのか失われていました。
ブルさんは一抱えはある首長竜の頭を何とか持ち上げると、腕で支えます。
「お嬢さん、しっかりなさい」
軽く頬を叩き、呼吸の有無を確認します。
「脈はどこで取ればいいんだYo?」
頭を支えた右手で、首の動脈にあたりをつけながら探っていくと、本当にかすかに脈を感じられる部位が見つかりました。
「グウゥッド!」
あえてテンション高く叫ぶと、首を肩に担ぎ竜車へ向います。
前進しはじめるまでかなり時間がかかりましたが、もどかしくもゆっくりと竜車へ辿り着き、さてどうやって運ぼうかとフッと息を吐いたブルさんは、水を切る音を捉えてサッと首を巡らしました。
瞬間、息を飲みます。
岸に駐めておいたはずの客車が、水面を走ってこちらへやってくるのです。
「?????!??」
確かに客車は水に浮く設計ですが、動力は何もありません。
第一、ブレーキもかけて地面にアンカーまで立ててきました。
そんな疑問なぞ、まるでお構いなしにブルさんに近づいてきた客車は、少し手前でゆっくり止まり、こんもりとした高い波を送ってよこしました。
『そこのお方、申し訳ありませんでした』
突然、ブルさんの頭の中に声が響きました。
ブルさんはあわててキョロキョロを周りを見回します。
『わたくしの粗相でこの乗り物を水へ落としてしまいました。中の皆様は無事ですが、ひどく動転していらっしゃいます』
「にゃあお~」
見上げるとベジタローが、客車の屋根の上から首だけ出してブルさんを見ていました。
ひどく困ったような長い声でもう一度鳴きます。
『とにかく岸までお連れいたます。どうかお乗りになっていただけませんでしょうか?』
―― 乗る?
首を捻ったブルさんでしたが、何かがブーツの底を触れて、咄嗟に竜車に飛び上がりました。
見ればすぐ下の水中に、巨大な影が広々と広がっていたのです。
客車もその影に乗っているのがわかりましたが、さすがのブルさんも大きな口をあんぐりと開けて、ピクリピクリと固まってしまいました。
――なんだこりゃ一体!!!
『どうかお乗りください』
再び頭に声が響きます。
直感的にこの水中の存在が発した言葉だと感じられたおかげで、どうにも知性を持った生物なのだろうと、そこまでは追いつきました。
しかし大き過ぎることで、なんの生物なのか丸っきりわかりません。
わかりませんが・・。
「では・・よろしくお願いします。レイディ。女性の背に脚を乗せることお許しください」
ブルさんは右手を胸に当て、ぺこりと頭を下げます。
その生き物がわずかに微笑んだような気がしました。
器用に首長竜とシャープとフラット。そして竜車まで乗せたその生き物は、ゆっくりと進み始めます。
ブルさんは、滑りやすい足元に注意しながら伝声管のところまでいくと中に呼びかけました。
「ブルさん! ブルさん! ブルさ~ん!!」
いきなりチェロの大声が聞こえました。
「もう大丈夫です。みんな無事ですか?」
客車の目をやれば、チェロは顔をくしゃくしゃにして窓に貼り付いています。
伝声管からは「ヒッキ! ヒッキ!」としゃくりあげる声が聞こえてきました。
窓のチェロに笑いながら手を振って待つことしばし、やっと「だいじょうぶ・・・」と細い声が聞こえると、ようやくブルさんも安堵の溜息をつきました。
「シマシマちゃんのお姉さんも無事ですからね。もうレンジャーも来るころだから本当に安心ですよ。良く頑張ったねチェロさん」
窓から見えるチェロは、まだ口をへの字にしていますが、ブルさんは上陸するから一旦切ることを伝え、管の蓋を閉じました。
どうも、淵の真ん中にある島に向かっているようです。
一息ついたブルさんは、足の下の生き物について考えはじめました。
―― 魚だのクジラだのの背に乗る話は子供のころに読んだ気がするが、これは一体なんなのだろう? 淡水のイルカがいるくらいだからやはりクジラかな? いや・・エイとかヒラメ・・ナマズかもしれない・・というか・・・しゃべってるYoネ! 一体どんなだYo?
頭に響いてきた声は、年配者であるようにも年若い乙女であるようにも聞こえました。
女性であるのは間違いないようですが・・・。
『・・本当に申し訳ございませんでした。わたくしは、そこの首長竜と乗り物の中にいるイルカの母でございます』
「え!? お母様?」
『あなたがブル様でいらっしゃいますね? わたくしはプレアデスと申します。普段はミズーミに住んでおり、周りの皆様からは‘ビッグマム‘と呼びいただいております』
「ビッグマム!?」
ブルさんは思い切り仰け反りました。
ビッグマムといえばミズーミ湖のみならず、王国及び大陸全土に広がる水神信仰のその本格です。
本当だとすれば今、足元にいるのは神様ではありませんか!
この世の要『四神獣』の一角。水の主神であり、水精の長たる海洋神『出界入鹿』の従属神としては筆頭の一柱に数えられ、特に水難事故への安全祈願が有名で、西式・東式の両教義を問わず、その神格を奉る数多の神社、教会が建立されている存在なのです。
『恥ずかしながら二日前の大雨の際に、二人を見失い、探し回っていたのですが、先ほどブル様がお遣わしになられた鳥殿よりお話を聞き賜りまして、急ぎ参った次第ではありましたが、心はやるあまり正を見失い、先のような愚行に及びはてました。我が子をお救いいただいた皆様になんとお詫び申し上げてよいやら・・』
「・・・・・」
『お怒りのほど、甚だごもっともでございます。いかような進もこの身に賜りますゆえ、ブル様。せめてこの淵の異様、解き決するまでの暫時。敢えてのご容赦いただくわけにはいきますまいか?』
―― ええ~!
ブルさんは呆然としてしまいました。
―― なにいってるのかわからないし、怒る怒らないなんていう次元なのカシラこれ? わけがわからないことが連続しすぎてこっちのアタマがいかれたと考えるほうが早いYo! あ! でも、もしかしてあれか? アレのことかナ?
「あの・・恐れながらビッグマム?」
やっとのことで声を出したブルさんでしたが、その時にはもう島の入り江に着いていました。
ビッグマムは体表をコンベアのように蠢動させて大事そうに皆を下ろし、ブルさんもそれをフォローします。
地面の感触が随分久しぶりのように感じて、ホッと足を踏み鳴らしたブルさんは、改めてビッグマムに向きました。
「ありがとうございましたビッグマム。あのそれで・・先ほど空から落ちていらっしゃったのはもしかして・・・」
ブルさんの目の前でビッグマムがザバリと浮かび上がり、その頭をもたげました。
天に向かって、のびる、のびる、のびる、のびる・・・・。
『はい。わたくしでございます』
背に乗っているものだとばかり思っていたのあの足場は、今や首が痛くなるほど見上げた先にある頭の上だったのでした。
カミナリ竜とも呼ばれるその存在。
ビッグマム ――ブロントサウルスは、はるか高き場所にあるその頭を水面ギリギリまで深々と垂れて謝罪しました。
その勢いでブルさんの顔にブワンと風が当たります。
『先ほどのもの共がこちらに向かってきております。退かして参りますのでしばし失礼を・・子ども達のこと、今しばらくお願いいたします』
呆然と立ちすくむブルさんをそのままに、ビッグマムは淵の奥へ進んでいきます。
ブルさんはビッグマムの起こした波の寄せる際に立ち、ポカンと沖を眺めていましたが、すぐにまた、ビッグマムの声が響きました。
『イカヅチを使います。水から離れてください』
「・・・・・・・・え?」
その瞬間、ブルさんの体に凄まじい衝撃が走りました。
走り抜けるというより、走り回って、周って、廻ってようやく抜けていくという感じでしたが、おかげブルさんは正気を取り戻しました。
口の端からタバコの煙のように黒い煙をプフーっと吐き出し、頭を掻きます。
その手が妙な感触を拾いました。
もじゃ・・。
もじゃもじゃ・・。
―― やっぱり今日は厄日だぜ・・・。
ブルさんは空を見上げてもう一度息を吐きました。
「アフロにするとワイフに怒られるんだけどナ・・・」