ピアノちゃん!
戻ってきたベジタローは「にゃおにょあ」鳴きながら、チェロの背後に周り込んでチェロを背中に乗せようとしました。
「早く早くって言ってます」
ピアニカさんが通訳してくれましたが、さすがにチェロにもわかります。
チェロはベジタローに促されるまま背中に乗ろうとしましたが、ブルさんに止められました。
「とにかく皆さん、客車に戻ってください」
客車の扉を開きながらブルさんがいいます。
「レンジャーに連絡しましたから間もなく来てくれるでしょう。その子の救出は彼らに任せましょう。説明は後ほど、とにかくここを離れます」
ブルさんからはおどけた調子がなくなっていました。
その硬い雰囲気にチェロもピアニカさんも客車へ目を向けたその時に、
「ピィ!」
高い笛のような音が響き渡りました。
驚いて振り返ると、ピアノちゃんが虚ろに宙を見上げたまま口を歪めて、おかしな感じにで固まっていました。
「ピアノ!」
ピアニカさんがあわてて駆け寄り、ガクガクと震えながら崩れ落ちるピアノちゃんを抱きとめましたが、その腕の中でピアノちゃんはビクンビクンと痙攣を始めました。
口からブクブクと泡を吹き、みるみるうちに腕、顔、脚、服からのぞいている肌の上に無数の赤い斑点が浮かび上がってきます。
「車へ!」
ブルさんがピアノちゃんを抱いたピアニカさんごと客車へ放り込むと、自分も飛び込みました。
チェロも急いで後に続くと扉を閉めます。
「人工呼吸を!」
ブルさんが叫ぶようにいいながら、ピアノちゃんを寝かせた座席に手を置くと、座席に描かれていた模様が光りながら浮かび上がってきました。
ピアニカさんは、ぎこちなくもピアノちゃんに息を吹き込み始めます。
その間にブルさんは、反対側の座席の下から取っ手のついた箱を取り出し、さらに箱から不思議な形の金属を二つと薬ビンのようなものを出してピアノちゃんの頭を抱きこみました。
パチっとなにかが弾けるような音がすると同時に、ビクビク痙攣していたピアノちゃんの体が、空気が抜けるように座席に沈んでグッタリと動かなくなりました。
さらにブルさんは手の甲に護法の印が光る手袋をはめると、脈と呼吸を確認しながら体に沿ってゆっくりゆっくり動かしていきます。
三回ほど丹念に同じ作業を繰り返したブルさんは、座席の下から水筒を取り出し、濡らしたハンカチでピアノちゃんの口元をぬぐうと「プウ~」っと大きな溜息とともに座席にドスンと大きなお尻を落としました。
「なんとかギリギリ間に合ったようです・・」
息をするのを忘れていたチェロは、ホウ~と息を吐いてペタリとへたりこみました。
ピアニカさんはいまだにショックを抜け出せないのか、ポロポロと涙をこぼしながら、ガタガタ震えています。
「い・・・いったい・・何が起きたんですか・・ピアノは・・ピアノは・・」
ブルさんは頭をポリポリかくと、また座席の隅から今度は平ぺったいビンを取り出して、それをグッとあおりました。
ピアニカさんにもビンを差し出しますが、ピアニカさんは首を横に振ります。
「お尋ねしたいのはこちらですよマダム・・」
ビンのふたを閉めながらブルさんは硬い声でいいました。
「この子は『感応』ですね? なぜ何の対策もしていないんですか?」
竜車はまたベジタローについて走り出していました。
ここにくるまでは、いくら道のない場所を走るとはいえ、ブルさんが地形を読みながら迂回してでも快適なルートを走ってきましたが、今は無理やりといっていい位とにかく最短を走っています。
時折、お尻が浮き上がるほどの衝撃が客車の中を揺らしますが、のんびりしてはいられません。
シートベルトに身を委ねたチェロは、必死に腕の中のシマシマイルカを抱きしめました。
「この子は『感応』ですね?」
ブルさんにそう言われたピアニカさんは、びっくりしてピアノちゃんを見ました。
何か、「いきなり理解できた」といった顔です。
ブルさんは、無理に笑おうとしながら、もう一度溜息を漏らしました。
「失礼。気づいておられませんでしたか・・・」
そして、急ぎ出発することとなったのでした。
今、チェロ達は客車の伝声管を通じて、ピアノちゃんのもつ『感応』という能力についてブルさんの説明を聞いています。
それから、理由はまったくわからないがとにかく今、このカッパ淵にバグというモンスターが大量発生していることについて。
そして急がなければピアノちゃんに重大な障害を起こす危険があることについて・・・。
簡単にいうと『感応』という能力は誰かが感じたことや思ったことを、自分のことのように感じてしまう能力なのだそうです。
ピアノちゃんの体に現れた傷は、間違いなくバグの噛み痕で、つまりピアノちゃんはバグに襲われている誰かの感覚を自分の感覚として受け取ってしまったというのです。
運良く意識麻酔が間に合いましたし、客車のシールドは思念も通さないので今は一応安全ですが、感覚が繋がってしまった以上、ピアノちゃん自身がそれを遮断するしかないのです。
しかしピアノちゃんにはその術がありません。
もし、ここからどれだけ離れたとしても、もうピアノちゃんの中には『念』が残ってしまっているので、距離も関係ないのです。
そしてこの状態で、もし送信側・・・襲われている者に何かあれば、その感覚は必ずピアノちゃんの中で再生されてしまうのです。
さっきもショック死寸前だったのに、さらに死の感覚も受け取ってしまったら・・・。
「だからなにがなんでも助けましょう!」
話しながらもキリキリと集中して手綱を操るブルさんは、さらに最悪な可能性を伝えることだけは止めました。
今、助けに向かっている相手が、ピアノちゃんと繋がっている相手かどうかわからないということです。
もしそうなら・・・。
そこへ伝声管からピアニカさんの泣きそうな声が伝わってきました。
「あの・・他に方法はないんでしょうか?・・」
まさにブルさんが考えていたことでした。
「そうですね・・このまま完全シールドを維持した状態で、他の感応者からピアノさんにアクセスするという手もあるんでしょうが・・。それがどのくらいの精度で可能なのかわかりません」
「・・・・・」
淵に突き出ていた岬を越え、また目の先に水面が見えてきました。
おそらくもうすぐでしょう。
「マダム。持ち上がってくる問題というのは、多くの場合、他の問題も連鎖的に引き起こすものです。ですがはじめの目的をきちんと押さえれば意外と丸く収まるものですよ」
岸につきました。
早速、ベジタローが「にゃおなお」と鳴きはじめます。
「さあ、子供ちゃんは全部救いましょう!」
ブルさんはそういって、ひらりと席から飛び降りました。
「おお! 濡れた服をまた着るときのファンキーさ加減はたまらないYo!」
ブルさんは淵を注視しながら、さっき着替えたびしゃびしゃの服にまた着替えなおしています。
バグがいるとわかっている以上、密封できる服を着なくてはいけませんし、今日はこの一着しかありません。
ベジタローはしきりに淵とブルさんの間を往復しながらにゃうにゅあ鳴いています。
見ている限り、水面には緩く波が立っているだけで肝心の『子ども』の姿が見当たりません。
―― どこにいるんだYo・・・?・・?・・!
何とか焦りを抑えながらベジタローが見ている方へ目をこらしていたブルさんの視界に、バシャーンと水柱があがりました。
「ブルさん! イルカちゃんのお姉さんだって! そこにいるって!」
伝声管からチェロのあわてた声。
ブルさんはあわてて竜車へとって返すと、御者席の下に潜り込んで、なにやらガチャガチャはじめました。
竜車は客車との連結をはずれ、御者席がゆっくり下へ降りはじめました。
ダンパーの縮む、ぬーんという間抜けな音が響きます。
「じゃあちょっといってくるYo! いい子で待っててYo!」
伝声管の蓋を閉じロックを確認すると、今度は客車の下から牽引用の平たいロープを引きずり出しました。さらに客車の車輪をロックすると、地面にアンカーを打ちます。
その間に御者席は下に降りきり、カチンとロックがかかる音が無機質に鳴ります。
客車の窓に顔を貼り付けたチェロにニッコリ笑いかけたブルさんは、二頭引き戦車のようになった竜車に飛び乗ると派手に手綱を鳴らしました。
「さあ! 突撃だYo!」
竜車は勢い良く淵に飛び込んでいきました。
―― 助けを求める「子ども」で、シマシマイルカの「お姉ちゃん」ねえ・・。
大王トカゲのシャープとフラットは、水中でも悠々と進んでいきます。
ブルさんの目の先、弱々しげに時折しぶきをあげながら水面に長々と浮かんできたのは。
首長竜の『子ども』でした。