おばけの国、1
くわああ! アー! アー!
屋根の上で、おっきなカラスが鳴きました。
――そっか、あの子が次の巫女なんだね。
アー! アー! クアー!
――じゃあ、頼むね。
ぴゅー。
ポテン。
アー! アー! アー!
カラスは夕焼けの空に飛び去っていきました。
街のバザールは、閉店前のたいそうな賑わいです。
立ち並ぶ露店の半分くらいはもう畳まれてしまっていますが、残った露店は半額札をバンバン貼り出して、盛況に声を上げています。
ピアノは、ピアニカさんに連れられて、晩ごはんの買い物に来ていました。
「玉ねぎを二つとニンジンを二本いただけますかしら? あらー。おいしそうなお芋ねえ。うちの子ったら本当にお芋が大好きなんですよ」
つるりと禿げ上がった頭を、てかてか光らせる気難しそうな野菜売りのおじさんの前で、ピアニカさんはコロコロと上品に笑いました。
「・・夫に先立たれてからというもの、子どもがおいしそうにごはんを食べる顔を見るだけが楽しみで・・今日はどんなお献立にしようかしら・・そうねグラタンとかどうかしらね?」
なんだか明け透けに芝居がかった物言いのピアニカさんを前に、おじさんは玉ねぎとニンジンを袋に詰めながら、ひとつふたつとお芋を追加しました。
「あらあら、そんなことなさらないで! 確かにグラタンにお芋が入っていたらこの子もそれはそれは喜ぶでしょうけれど、母ひとり子ひとりの家庭にそうそう贅沢は許されませんもの・・」
おじさんは、さらにヒョイヒョイとお芋を袋に詰めていきます。
「まあ! おやめくださいませ! そのようなご親切をいただいてしまっては、わたくしにはお返しする術もございません! どうかおやめください!」
大袈裟な、くさい演技を続けますが、おじさんはだんだん頭の先まで赤く色を変えながら、さらにお芋を袋に入れて、ついには残っていた葉野菜やハーブまでどんどん袋に詰め始めました。
「おじしゃん、ありあとー」
にこにこ笑いながらピアノが銅貨を手渡します。
もちろん玉ねぎとニンジンの代金だけですが、野菜売りのおじさんは、ふにゃふにゃになりそうなところを、無理やり頑固に固めたわけのわからない顔で、もう破裂しそうになっています。
その顔に、ピアニカさんが豪奢な笑顔で会釈を送り、ピアノが小さな手を嬉しそうに振ると、おじさんは頭から勢いよく湯気を出してそのまま固まってしまいました。
「明日はうちに寄ってくれよな~」
「いやいや、うちに寄っとくれ。明日は取っておきを残しとくからね~」
手を繋いで帰っていくピアニカさんとピアノに、方々から声がかかります。
ピアニカさんは、声のかかった方へいちいち笑顔で頭を下げながら、バザールの人波から外れていきました。
カッパ淵での一件以来、ピアニカさんは変わりました。
あれから二月。
日々にひたすら怯えて、身を削り取って生きるしかなかった場所から、たったの一歩踏み出しただけで、世界は劇的に変わってしまったのです。
一歩の勇気だけでした。
「こんにちは」「ありがとうございます」
これまではただの符号に過ぎなかった言葉に、ちゃんと自分を乗せただけで、世界は易々と腕を広げて迎え入れてくれました。
自分の態度を変えるなどと、怖くてどうしようもなかったはずなのに、やってみればただこれだけかと、自ら呆気に取られるほど簡単でした。
王族の出であることを別に標榜するでもなく、自分の話しやすい言葉で話し、自分の作りやすい顔をする。
鏡に映った自分の顔が、意外に美人だったことに気づきました
自分の愛する娘が、思いのほか以上に美少女だったことにも気づきました。
自分の思い込んでいた狭い世界に、少し切れ込みを入れてみただけのことでしたが、その切れ込みは、頑固に打ち立てていた壁を、音高く簡単に崩してしまいました。
たかが人間ひとりが勝手に限定するほどには、世間は狭くなかった。
一歩出てみればそれだけのことでした。
チェロとピアノが、カッパ淵やミズーミ湖。ひいてはアナ街を救ったことは誰にも話していません。街の噂にすらなっていません。
なのに、自分が自分であるように振舞っただけで、日々は豊かに色合いを変えてくれました。
――どこぞの零落であるらしい美女が健気に生きている
そんな噂だけが、急に流れ始めました。
同時に誹謗や中傷も、色んなやっかみ織り交ぜて巻き起こりましたが、なんだか「冬は寒い」というような、当たり前の感覚で受け取れたのはとても不思議でした。
それはそうです。
冬は寒い。元王族が庶民に身をやつせば辛い。
そんな当たり前を感じながら、手渡された親切には親切で返し、差し伸べられた親愛には親愛で返す。その順序を先攻してみたのです。
その結果、なんだか街の人気者になってしまいました。
このバザールひとつとってもそうです。
おまけをいただいたら、ちゃんと返す。
先の野菜売りのおじさんには、明日、ピアニカ謹製のグラタンが届くでしょう。
かつて趣味で覚えた料理をここに出回る食材でアレンジし、より簡易なレシピでまとめ直すのがとても楽しくて、バザールのみんなにも少しずつ披露してみました。
買い物のときのやりとりを、わざとらしく演出するのもリクエストからなのです。
かつて見てきたお芝居を真似してみただけなのですが、これが妙に受けて、おかげで以前よりも活気が増していると商店組合から頼まれたのでした。
「気のいい美人母子」。これが最近のふたりに対する評判です。
ピアニカさんにとっては、ただ自分自身を楽しんでみようと思っただけなのですが、それがおかしな形でどんどん次への灯火になっていくのが楽しくて仕方ありません。
ピアノとふたり。このただリアルな世界で、風雨も、日の温もりも、穏やかに受け取れる毎日に、はっきりと生きている喜びを感じていました。
「今日はグあタン?」
嬉しそうにぎゅっと手を握ってくるピアノが愛しくて溜まりません。
「そうだよ。お芋たくさん入れようね」
「おいも~!」
ピアノは握った手をブンブン振りました。
結局。
ピアノを教会に預けるのはやめる事にしました。
一旦、という条件はつきますが。
いずれ、ピアノが巫女になっていくにしろ、なれないにしろ。
世界を単に『処理』していくような存在にはなってほしくない思えたからです。
せめて、母親の自分ができる限りのことを、できるだけしたいと思えたからです。
何にも特別ではない朝。
何にも特別ではない昼下がり。
何にも特別ではない夜の憩い。
それを、笑って過ごす経験だけ自分の責任で与えさせてください。
ピアニカさんは大司教の前で土下座しました。
いつまで母でいられるかわからない。
今。この今。渡せられるだけの全部を我が子に渡したいと、ピアニカさんは懸命に笑って過ごし、全力で愛に生きていました。
ひゅ~。
ポテン。
ピアノの帽子の上に、なにかが落っこちてきました。
ピアノは驚いて、ひょっ!と伸び上がりましたが、ふかふかしたベレー帽を被っていたので全然痛くはありませんでした。
痛くはありませんでしたが、たっぷり驚いたピアノがその場に固まっていると、やっぱり驚いたピアニカさんが、慌ててピアノを抱き寄せました。
「どうしたの!?」
「・・なんか・・・おってきたお・・」
ピアニカさんは、ピアノの帽子に乗っかっているものに素早く手を伸ばしました。
遠くでカラスの声が聞こえました。
「・・なに?・・」
ピアノの疑問の声は、そのままピアニカさんの疑問に通じました。
それは、ピアニカさんの手のひらと同じくらいの、平ぺったいツヤツヤしたものでした。
「かぼちゃの・・種?・・かなあ?」
「かおちゃ・・・?」




