本当のこまったちゃん
ピアニカさんは、椅子に座って背中を丸めています。
目の前では、間接照明の柔らかいオレンジの光をつやつやしたほっぺに映しながら、ピアノが安らかな寝息を立てています。
その傍らでピアニカさんは、ただピアノを見ています。
ひそやかな長い溜息と共に。
17歳の誕生日を迎えたその日までピアニカさんは、
『グラヴィチェンバロ・コル・ピアニ・カ』という名前で世界を過ごしてきました。
北の大陸の覇者。グラヴィチェンバロ帝国の名前を冠した由緒ある名前です。
このニッカ大陸におけるグラヴィチェンバロ帝国の属領国である「コル公国」。
そのコル公国・第二公女という立場がかつてのピアニカさんでした。
17になったその日。
若き騎士、オルガン・フォルテと共に、燃える情熱に急かされて、花開く想いで国を逃げ出した時から、八年。
国中の憧憬を背に受け、星のように薫り立っていた乙女は、自信も誇りも失って、ピアニカ・フォルテという市井の母親のひとりになっていました。
国を出奔してから二年。
思いもしなかった『普通の暮らし』という厳しさの中、何とか未来に光を添えようと、若さに頼った勤労と勉学の末、ようやく通訳の仕事を得た矢先にピアノを身ごもりました。
冬のある日。狭いアパートの凍える石壁の内側で、申し訳程度の薪の温もりの中、ピアノは産声を上げました。
おとなしく控えめに泣く子でした。
まるで生まれた瞬間から両親に気を使うかのように、細々とその子は泣きました。
生活は苦しいものでしたが、派手に泣くことはほとんどないのに、ケタケタとよく笑うピアノは、家庭に明るい光を灯してくれました。
子どもの誕生に奮起したオルガンさんは本当によく働きました。
時間と労働力を切り売りする日雇い仕事以外には、なかなか見つかりませんでしたが、それでも頑張りました。
そして、頑張りすぎてしまいました。
元々騎士の家に生まれ、礼節と誇り。親切と尊厳をその身の隅々まで刷り込まれて育ったオルガンさんは、生まれてきた愛する我が子に、例え貧しくとも自ら人としての規範になるべく、過剰なほど厳しく自身を律して生きようとしました。
しかし、一歩家を出れば、安い賃金をその日の酒に替えて、いかに他人を嘲笑うかにひたすら腐心する者たちに囲まれ、汗を流す立場に身を晒す日々です。
高らかに高潔な魂を謳うオルガンさんは、格好の標的でした。
オルガンさんはだんだんと、自らの正義に犯されていきました。
「子育ては小さな内が肝心」だと、夜な夜な我が子に物語を語り、一言二言と言葉を覚えていく娘にあくる日の活力をもらうと、聞こえよがしに誹謗する声に、昨日語って聞かせた英雄譚と自分の立場との落差を深く切りつけられ。
「人には親切に振舞うのが大事」と語れば、次の日には見事に金を騙し取られる。
オルガンさんは、責任感で巻いたネジをひたすら磨耗させるだけの日々に陥っていったのです。自らの笑顔と体重を、自ら減らしていく日々に・・・。
それは。
理想としていたものが責任になり。責任としていたものが罪悪感に変わっていく、自分で作り出した毒を自分で飲み下すような、全てが裏目を極める地獄の日々でした。
ある日の夜。
思えば随分と達者に話すようになった愛娘に物語をせがまれたオルガンさんは、精一杯の愛を込めて我が子を抱きしめると、心の底から全力で、自らが得た世界の真理を絞り出しました。
「いいかいピアノ・・・・人を信じてはいけないよ」
最早、自分の信条に基づいたあらゆる足場を失くし、自分の言葉さえも疑って欲しいと願うしかなかったのです。
正しいことだと胸を張るほど、間違いだったとひっくり返される人生に、抗う力を失っていました。
次の朝、オルガンさんは目を開くことを諦めていました。
冷たい体にすがって泣き喚くピアノの口からは、どんな叫び声も聞こえてきませんでした。
ピアニカさんは長い溜息を漏らしました。
トラウマにも作用するというカッパの霊泉の治療をうけたからでしょうか。
それとも、途中でその治療が中断されたからでしょうか。
ピアニカさんには、今、過去の痛みが嵐のように去来していました。
ですが不思議なことに、それを冷静に見ている自分がいるのです。
身も縮むような後悔と、自分の不運に対する激烈な怒りの渦が巻き起こり、ピアニカさんを叩きのめしていますが、叩かれるままに目を見開いて、荒れ狂う自分の内側を俯瞰していました。
痛みがあります。
心の痛みも然ることながら、頭にも胸にも胃にもヂクヂクした実際の痛みがあります。
その痛みに顔を歪めながらも、ピアニカさんは自分自身を見つめていました。
先の宴の最中、ピアニカさんは、用が終わったのなら街へ帰してほしいと、ネネコおばあちゃんに願い出ました。
ネネコおばあちゃんは鷹揚に笑い、少し話をしようと持ちかけました。
「あんたの子はホントにすばらしいねえ」と目を細め、しみじみといいます。
ピアニカさんは曖昧に笑ってお礼をいいました。
さっきまでは、ピアノが誉められるのはとても誇らしい気分でした。なにしろ苦労して育てた我が子です。
謙遜しながらも照れ笑いで答えるピアニカさんでしたが、今は予想もしなかった複雑な想いに囚われているのを感じていました。
カッパたちを救った。
危うくミズーミ湖も汚染されそうだった。
ピアノちゃんの勇気はすばらしい。
さっきから何度も何度も聞いた言葉でした。
ですが、あまりにも次から次へと渡される感謝と感歎の言葉の量に、ピアニカさんはなんだか不安になってきていました。
彼らの言葉はどれも、血の通った本心の言葉だったからです。
自分の娘が成したことは本当に凄いことのようです。ですがそれがピアニカさんにはうまく理解できていませんでした。周りで大騒ぎしている祝宴の意味もよくわかってません。
自分たちの故郷が救われたのだから嬉しいのはわかります。
理屈としてわかります。
ですが、彼らから渡されるものは手のひらに置いておけない『何か』で、折角自分に手渡されても、渡される先からこぼれていく。そんな風に感じたのです。
いくら握り締めても受け取れないもの。
受け取れないものを真摯に渡してくる人々。
自分の感覚と、周りの本気とのギャップを、だんだん不安に感じてきたのです。
ネネコおばあちゃんは、そんなピアニカさんの心情を見透かしているように笑いながら、自分の隣に誘いました。
「あの美しい子の母親であるあんたに、ひとつだけお願いしたいことがあるのさ」
曖昧な笑顔を、少し困った方へ傾けながらピアニカさんは、ネネコおばあちゃんの隣に腰を降ろします。
宴は未だ衰えを見せず、歌い踊るカッパたちの姿に、ピアニカさんは無関心な視線を向けました。
「ピアニカさん。あんたはさっき、自分は何もしていないっていってたがね。そんなことはないんだ。あんたも立派にあたしらを助けてくれたのさ。」
ピアニカさんは、言葉の意味が分からず、軽く眉根を寄せてネネコおばあちゃんを見ました。ネネコおばあちゃんは、その視線を柔らかく受け止めます。
「正直なところをいうよ。あんたを見たとき、なぜ精霊はあんたをお遣わしになったのか、あたしにはわからなかったんだよ。なにしろあたしにはあんたがスライムみたいに見えちまったんだよ、それがあたしには不安だった」
わけがわからないという顔になったピアニカさんにかまわず、ネネコおばあちゃんは続けました。
「なんでそう見えたのかなんてあたしにもわからなかったがね。今はわかる気がする。あんたは自分自身をこねくり回しているうちに、自分の正体がわからなくなってしまったんじゃないかい?」
ネネコおばあちゃんは笑っています。
全てをちゃんと受け止めようとして笑っています。
ピアニカさんは作り笑いのまま憤慨していました。
侮辱の言葉として受け取っていました。
何をいっているのだこの人は!
自分の事はちゃんと自分でわかっている。
わたしの何を見てそんな口を利くのだろう。
わたしがどんな思いで生きているのか、その頭の皿を叩き割らないとわからないだろうか?
ですが、周りにはカッパたちが居ます。下手なことを言って街に戻れなくなっては堪りません。ピアニカさんは、あえて普段の自分を装いました。
「そうですね・・。確かにわたしはみなさんの危機に際しても何もできませんでした。正体のない者といわれても仕方ありませんね」
ネネコおばあちゃんは、目を閉じてコクリとうなずきました。
―― やはりこの子は何もわかっていない。
何もわかっていないことこそが、ピアニカさんを今日に導いたのだと、ネネコおばあちゃんは改めて理解しました。
「・・あたしが言いたかったのはね。そういうことじゃないんだよ」
理解はできたけれど、それは寂しい結末になりかねない。
しかし、それもそういう運命かもしれない。
ネネコおばあちゃんは、心から胸を広げるつもりでニッコリと微笑みました。
「あんたの持ってる『わからなさ』こそがあたしたちを救ってくれたんだ。あんたが日々にもがいていたからこそあの子はここに来てくれた。だから、わからないことは決して悪い事じゃない。ただ、わからないことに目を閉じないで欲しいんだよ。わからないままで終わらないで、いつかその暗闇にも明かりを灯せることに希望を持って欲しいんだよ。それがあたしのお願いさ」
さっきは、ネネコおばあちゃんが何をいっているのかわかりませんでしたが、自分を離してみているうちに理解が降りてきました。
それは、自分はただ惰性で生きてきたのだ。という理解でした。
ただで与えられてきたものを、苦労してやりくりしながら消費していただけだった。
という理解でした。
生まれ。
教育。
財産。
発想。
若さ。
体力。
愛・・。
当たり前に持ってものは、ただで貰っていたものに過ぎませんでした。
知らないうちに自分のポケットに入っていて、欲しいものと交換すれば自分の満足が成り立つ世界。それがピアニカさんの当たり前でした。
その当たり前がなくなったとき。
惰性が停まったとき。
ピアニカさんはゼロになっていました。
ですが、ゼロになっても世界は進んでいきます。
ゼロになった自分に残されていた手段は、さらに自分をすり減らすことだけでした。
『これだけしかない自分』を節約することだけでした。
全ての支出は『仕方がないもの』になりました。
お金、労働力、時間。
優しさ。思いやり。愛すらも出し惜しみしている自分になっていました。
権利を叫び、義務に耳を閉ざし、自分を守ることだけが正義になっていました。
自分の意思だと思っていたものは、ただ防衛のための反射や反応でしかなかったこと。
自分が勝手に作った当たり前に沿って「自分は正しい」という強固な甘えにすがっていたこと。
そんな自分に思い至ったピアニカさんは愕然とする事実にブチ当たりました。
『自分はピアノのことを心配しているつもりで、実はピアノを失うかもしれない自分のことを心配していたのだ』ということ。
ピアニカさんが生きてきた過程は、ただ自分を哀れむ自分自身に対する言い訳の道に過ぎなかったということ。
ピアニカさんの『仕方がない世界』には、自らが生きようする意志など丸っきり入っていなかったのです。
生まれてきたから仕方なく生きてきたのです。
「スライムみたいに見えちまったんだよ」
ネネコおばあちゃんの言葉が、ストンとお腹に落ちてきました。
整然と行き渡った理解に、ピアニカさんは長い溜息を漏らしたのです。
さらにピアニカさんは長い溜息を漏らしました。
もう、何度目の溜息なのかもわかりません。
吐いても吐いても、もうもうと自分の裡に涌いてくる灰色の思いを、少しでも吐き出すように溜息を続けています。
ネネコおばあちゃんの話を聞いているうちに、なんだか自分が責められているような気分になってしまったピアニカさんは、話を濁して退散しました。
元いた席へ戻ってくると、さすがに疲れたのでしょう、ピアノはコクリコクリと船を漕ぎ出していました。
ですが、チェロの服の裾を握り締めて離そうとしません。
誰が見ても、子どもらしい可愛い仕草に見えるでしょう。
でも、ピアニカさんには、ハッとするような光景でした。
これまでに嫌だといって泣き出すというわがままはありましたが、「したい」「欲しい」といって頑と動かない、なんてことはほとんど覚えがありません。
そういえば今日だって、たすけにいくと『いきたがった』のでした。
今日一日で、今まで見た事もない娘の顔を、いくつも見せられたピアニカさんは、単純な驚きとともに、チェロに対して小さな嫉妬まで感じていました。
ピアノの姿を見たミルさんは、寝床を用意するといって隠れ里に入っていきました。今夜中に街へ戻るのは、諦めるしかなさそうです。
―― 仕方がない
ピアニカさんは、所在無げな顔で、グラグラ揺れているピアノの肩を支えました。
ピアノの面倒を見ていることしか、今の自分の居場所をつくれなかったのです。
「ピアニカさん、今、よろしいですか?」
正面から近づいてきたサロンさんは、今にも眠りに落ちそうなピアノを、微笑ましい目で見てからピアニカさんに向き直りました。
ピアニカさんは、ホッとしました。
聞きたい事もたくさんありましたし、なによりも宴の雰囲気に馴染めない自分にとってありがたいことでした。
ですがサロンさんの話は、再びピアニカさんを迷いの闇に放り込むものでした。
自分が後見人になるからピアノを教会へ預けないかと申し出てきたのです。
『巫女』の修行をさせてはどうかと。
ピアノと同じ『感応』という能力を持っているサロンさんは、自分は落ちこぼれて聖騎士になったのだと話しました。
「別に聖騎士としての自分を貶めるつもりはありません。しかし幼少時から巫女に成るべく修行してきた身としては、やはり落ちこぼれてしまったというべきなのでしょう」
そういって、眉のピンと張った実直そうな顔に、女性らしい柔らかな表情を浮かべました。
感応については、通訳であるピアニカさんも、もちろん知っていました。
通訳の能力は、声を出す全てのものと会話することです。
感応というのは、もっともっと上位のスキルで、言葉がなくても人の思っていることが理解できたり、人の感情を自分のものとして受け止めたりできます。
さらに巫女ともなれば最早、神にも近い『神通力』と呼ばれる力を使える存在です。
神通力というは、
神足通・・テレポートや空を飛ぶ力
天耳通・・器物はもちろん、大地、水、火、風の精霊の声を聞く事ができる力
他心通・・相手が考えていることがわかる力
宿命通・・人や物の歴史や前世を知る事ができる力
天眼通・・全てを見通すことができる力
漏尽通・・煩悩から離れ、悟りに至る道。さらに悟りに至った事を知る事ができる力
これらの力を合わせて『六神通』と呼ばれる能力が神通力です。
この力を得るには、生まれ持った適性と、適切な修練、さらに単純な性格の良性が必要になります。いくら能力があっても感情や気持ちに曇りがあると使えなくなるからです。
この六神通を余すことなく身につけた存在が巫女と呼ばれる存在で、世界中でも五名しかいません。
巫女になるということは、世界の趨勢に直接関わる力を持つほどの、強大な存在になるということなのです。
「なんだか、ピアノさんは、巫女になってしまうような気がするのです」
そういって、サロンさんは期待に目を輝かせて、ピアニカさんを見ました。
ピアニカさんは、あまりにも予想外の申し出に、唖然としてサロンさんを見返すと、座ったまま寝息を立てはじめた我が子に、大きな戸惑いの目を向けます。
「是非、お考えください。彼女には、とてつもなくすばらしい才能があります、それに・・」
サロンさんは、少しいいよどみました。
「それに・・このまま大人になる前に能力が消えてしまうのならまだいいのですが、感応の力を欲しがる輩はどこにでもいますから・・なんとしても保護は必要になります。ならばいっそ安全なところで暮らすのも、ピアノさんにとって安心できるものと考えます」
「保護ですか・・?」
不安そうな顔をするピアニカさんに、サロンさんは眉根をよせて癇に堪えかねるという表情でいいました。
「不謹慎な物言いになって申し訳ありませんが・・口が利けないということがピアノさんを守っていたのかもしれません。感応の力を得て生まれた子どもは、総じて魔法にも高い適正がありますし、感応の力を使えるのならば尚のこと。そういう子どもたちをかどわかし、売買する愚劣な者どもは、確かにいるのです」
ピアニカさんは、目を見開いてサロンさんを見ました。
確かに、魔法の適正がある子どもがさらわれてしまうという話は、聞いた事があります。
ですが、まさか自分の子どもにそんな危険の及ぶ可能性があるなどと、とんでもない話でした。
固く寄せていた眉間の皺を、鼻からの溜息で解いたサロンさんは、安心させるようにピアニカさんの視線を目の中で包みました。
「大丈夫ですよ。母親であるあなたが今日まで気がつかなかったくらいですから、誰も気づいてはいないでしょう。ですが念のため明日教会でピアノさんにシールを施しましょう。神通でシールしますから、もしも魔力探知されてもわからなくなりますし、何よりも、他者の痛みに自分で傷を再現できるほどの強力な力は、ピアノさん本人にも危険すぎます。シールを施せば他者の思念に干渉されることもなくなります。感覚的には普通の子どもと同じ状態になりますから、それで安心ですっ!」
自分から話を振った手前、不安の色が消えないピアニカさんに責任を感じたサロンさんは、少し大げさにおどけてみました。
「全部ひっくるめてピアノさんは、ちゃんと精霊に守られているのだと思いますよ。ネネコさまもおっしゃっていたではありませんか。あ・・そうそう精霊といえば・・さっき少しだけピアノさんとお話したのですが、わたしは本当に感じ入ってしまいました」
少しだけ、いたずらっぽく笑います。
「精霊とどんなお話をしたのか聞いてみましたら、ピアノさんは助ける代わりにお願いを聞いて欲しいと頼んだそうですよ。それでどんなお願いをしたのか訊ねましたらね・・」
うっとりと嬉しそうに目を閉じてから、もう一度ピアニカさんを見ました。
「おかあさんを助けてくださいとお願いしたんだそうですよ」




