やさしいおんなのこのうた
チェロたちはスライムの真っ只中にいます。
ほんのすぐそこで、真っ黒なスライムの太い触手がぎゅんと伸び上がり、しゅんと縮まって消えてしまいます。一本一本は木の幹くらいの太さですが、前にも後ろにも見渡す限りの物凄い数で、延々とその運動が続いています。
伸びるときも縮むときも音を立てないのが不思議でした。
チェロたちは、スライムの上にただプカプカ浮かびながら、その様子を見ていました。
もう恐怖はありません。
空気を震わせる悲しそうな泣き声を聞きながらその光景をみていると、チェロは可哀想で仕方がなくなってきました。
伸び上がる触手は、何かを求めて懸命に手を伸ばしているように見えてきましたし、手が届かずに慌てて引っ込めている、そんな風にも見えるのです。
チェロも、ピアノちゃんも、ベジタローも、竜ちゃんも、イルカちゃんも、誰一人声を出さず、物音も立てないまま、しばらくスライムを見ていました。
不意にチェロは、スライムの中に手を伸ばしてみました。
なにか考えがあったわけでもなく、ただそうしてみたのです。
『ねー』とか『ぬー』っといった、重い感触でした。
目を閉じ、手先の感覚を澄ませてみると、なんだか向こうからも弱々しくチェロの手を握ってきているような気がしました。
だんだんと、色んなイメージが手を伝って登ってくる気がしました。
悲しみ、悲しみ、悲しみ・・・
痛み、嘆き、諦め、淋しさ、不安、孤独・・・
届かなかった祈り、裏切られた絶望、断ち切られた喪失感・・・
失った・・
消えた・・
捨ててしまった・・・
女のひと、男のひと、赤ちゃん、おじいさん、お姉さん、男の子、おばあちゃん、おじさん、女の子、おばさん、お兄さん・・・
溜息、懺悔、慟哭、後悔・・・そして、許しを乞う叫び・・・
チェロは、大勢のひとたちの涙の中に手を浸しているように感じました。
ですが、まただんだんと・・・手に感じるものの質が変わってきました。
ひんやりと冷たく、重くなっていきます。
―― 黒・・・?
いや、黒いのではなくて暗い・・のです。
暗い・・昏い・・冥い・・闇い・・・・
波打つ感情の先に暗くて冷たいものが、静かに茫漠と広がっていました。
―― 怖い・・気持ち・・?
それは『恐怖』でした。
死への恐怖
別れへの恐怖
病への恐怖
敵への恐怖
老いる恐怖
得られない恐怖
自分が分からないという恐怖
生きているという恐怖
とてもとても静かに、揺るぎなく、確実に、厳然と
恐怖がありました。
ですがチェロはなんだか不思議なことに気がつきました。
今、恐怖を見ていますが、見ているだけなら怖くないのです。
とても怖いことは分かっているのに、怖いと感じません。
――あ、そうか!
チェロの中に明るい理解が生まれました。
――これはスライムの『核』なんだ。いつも見ているのの反対になってる『核』を見てるだけなんだ!
チェロはお家で、銀を張ったお盆の中でスライムの様子を見るときに、スライムの中できらきら光る、小さな光の粒々のことを思い出しました。
「優しいスライム」だと教えてもらったカッパの霊泉のスライムを思い出しました。
そこにピコちゃんの言っていた「悪いスライムじゃなく、穢れて生まれてきただけ」という言葉が重なります。
―― 悪いスライムじゃないんだ。ただこういう風になったスライムなんだ。
チェロはゆっくりと目を開き、スライムから手を抜き取りました。
手にべっとり着いていたスライムは、そのまま動かさずにいると、勝手にウネウネ動きながら、ぽとりぽとりと淵に落ちていきました。
その手をじっくり見ます。どこにもスライムは残っていませんでした。
「やっぱり」と小さくつぶやいて満足そうに笑ったチェロを、ピアノちゃんが首を傾げて不思議そうに見ていました
チェロはニッコリと笑いかけると、「ふう」と息を吐きました。
空を見上げると、チェロたちの真上に大きな満月が煌々と輝いています。
じっと見ていると、なんだかふんわり笑っているような気がしてきました。
チェロは、いたずらっぽく笑うと、ピアノちゃんの耳にそっと口元を寄せました。
「ピアノちゃん。わたしなんだか面白いこと考えちゃった」
ピアノちゃんはコクコクとうなずきます。
「あのね。満月の夜は、人が狼になったり、オバケが元気になるっていうでしょ? それはね・・お月さまがオバケを元気にしてるんじゃなくて、ただ『オバケのままでもいいよ!』って許してあげてるんじゃないかなあ。だからオバケは嬉しくなって元気になっちゃうんじゃないかな?」
ピアノちゃんは、目をまん丸に開いて、うんうんうん!と強くうなずきました。
「だからこのスライムたちも『こういう風に』元気になってるだけなんだと思うんだ~」
そういってチェロは、首からペンダントをはずしました。
おかあさんの形見の、小さなスプーンの形をした銀のペンダントです。
落とさないように右の手首に鎖を巻きつけて、チェロの小さな手でも指先でなければ持てないような小さな柄をチョイと摘みました。
お月さまにかざします。
きらきらと月明かりを浴びて、スプーンも輝きました。
空中で月の光を掬い取るような仕草をすると、パクリと口にくわえて「うーん」とおいしそうな顔をします。
もう一度同じ動作を繰り返すと、今度はピアノちゃんにスプーンを差し出しました。
「お月さまのアイスクリームだよ」
ピアノちゃんはパッと顔を輝かせて、ア~ンと口を開きました。
パクリ。
両手を頬にあてて、足をパタパタさせます。
「おいしいね!」
チェロが言うと、ピアノちゃんも嬉しそうに、うんうん!とうなずきます。
イルカちゃん、竜ちゃんにも一口ずつ、さらに「はい、ベジ~」「にゃ・・にゃにゃ」ベジタローは振り返るのが大変そうでしたが、必死に首を回してパクリ。
―― これでわたしたちも元気!
チェロはもう一度『お月さまのアイスクリーム』を空から掬い取り
「はい、スライムさん」と、スプーンを足元のスライムの中にそっと差し入れました。
ゆっくり小さな円を描きはじめます。
ゆっくり。
ゆっくり。
チェロは囁くような小さな声で歌いはじめました。
月明かり おやすみ おやすみ 優しいこ
星の恵みを 銀色の あなたの夢にそえましょう
花の小径の 薫香を あなたの夢にそえましょう
ただ安らかに
ただ健やかに
今日のあなたの楽園が
あしたも ともにありますように
すべての風が あなたに歌う
すべての月が あなたと憩う
大きな 大きな かあさんの
大きな 大きな この愛の
すべての雨は 贈り物
すべての日々は 贈り物
今日のあなたの楽園が
あしたも ともにありますように
今日のあなたの楽園が
許しと ともにありますように・・・・
囁き声のひそやかな子守唄が、チェロの描く小さな輪の中に吸い込まれていくようでした。
チェロは同じ歌を続けます。
歌いながら気がつきました。
この歌は教会で覚えた『おおきなお母さん』という歌です。
―― ビッグマムの歌だったんだ・・・
チェロは歌いながらじんわりと嬉しくなってきました。
そのじんわりが、優しくチェロを包んでいきます。
自分の歌声にゆっくりと引き込まれながら、ずいぶん前になじんでいた感覚に、ウトウトさまよいはじめた。
柔らかくて、あったかくて、いい匂いがして・・
―― おかあさんが歌ってくれたんだ・・・
―― おかあさんが歌ってくれたんだ・・・
―― おかあさんが歌ってくれたんだ・・・
―― おかあさん
―― おかあさん・・・
チェロは、ふぅ~っと気が遠くなるような心地がしました。
とっても気持ちいいのです。
真っ白で柔らかい光の中、チェロはハッキリとおかあさんの顔を思い出していました。
ずっと長いこと、ぼんやりとしか思い出せなかったのですが、今、ちゃんとおかあさんの優しい笑顔を見ています。
―― 大好きよ チェロ・・・
優しい声で、にっこり笑ってくれました。
―― おかあさん
―― おかあさん・・・
―― おかあさん・・・
いつの間に目を閉じていたのでしょう。
目を開けると、ピアノがチェロの方を向いて座っていました。
背中を竜ちゃんの首にあずけて、チェロの左手を握っています。
チェロが目を開けたのを見て、ピアノは安心したように笑いました。
チェロも笑って歌を続けました。
するとピアノは、チェロの真似をするように、左手に持った木の枝をゆっくりゆっくりスライムの中で回しはじめました。
揺れながらリズムを取っていたチェロに合わせて体を揺らし、声は出ないままでもいっしょに歌いはじめました。
目が合うと、ふたりでくすぐったそうに笑い合い、なんだか歌の響きがよくなったような気がします。
囁き声で歌う子守唄は、淵の中、周りの森、さらには冴える月にまで届くかのように、りんりんと渡っていきました。
気がつくと、立ち上るスライムの柱がなんだか細くなっていました。
伸び縮みするスピードもゆっくりです。
そしてなんだか、チェロたちの歌に合わせて左右に揺れているようです。
そこへ遠くから『スットコン トットコン』と明るくも控えめな音が聞こえてきました。
チェロたちに合わせるように、そして少しでも助けになるようにと決意を感じさせて届いてきます。
―― ブルさんだ!
チェロは、わけもなくそう直感しました。
嬉しくなったチェロとピアノは、ニコニコ笑いながら歌い続けました。
ボロボロになった上着を、無理やりフンドシに仕立て上げて岸にやってきたブルさんは、月を正面にどっかりと胡坐をかいて座りました。
上着だけでなく全身ボロボロでしたが、口元にはいつもの太い笑みが浮かんでいます。
淵を渡って届いてくる、ほんの幽かな歌声にうっとりと目を閉じると、イルカちゃんが入っていたタライをひっくり返して膝の上に乗せ、指の腹でタライの底を打ち始めました。
増援にきたスレンドロ隊の隊員たちと一緒に、カッパや他のレンジャーの救護をしているサロンさんは、テキパキと手を動かしながら、小さな声で歌っていました。
幽かに響いてくる歌声に合わせて、ぐんぐんこみ上げてくる涙を何度も袖で拭いながら歌っています。
胸を押す思いに、突っ伏して泣き出したいくらいでしたが、絶対にこの歌の邪魔をしてはならないと、ぐしゅぐしゅ洟をすすり、涙を拭いながら、耳だけは全て、歌を聴くために使っていました。
まるで深い森の中にいるようだったチェロたちの周りは、すっかり視界が開けていました。
スライムの柱は、小枝くらいな大きさまで縮んでいました。
月の光を受けながら、風に揺れる草原のように、ざわり、ざわりと動いています。
―― お月さまの光をみんなで運んでるみたい
チェロはちっちゃくなったスライムが可愛く思えてきました。
その間にもスライムが揺れる間隔が、段々小さく目立たなくなっていきましたが、ざわりと光を運んだスライムから、突然、光のしぶきがポポンと出てきたのです。
チェロは目をパチクリさせました。
小さな光の粒は、そのままふよふよと空へ浮き上がります。
ざわり・・・ポポン。
ざわり・・・ポポポン。
歌に合わせて揺れるスライムの表面で月を反射した光が動き、その度に光の粒がドンドンと飛び出していきました。
チェロとピアノは楽しげに顔を見合わせて、嬉しそうに微笑みます。
遠くから、また違う音が届きはじめました。
これもまた極々控えめですが、確かにカッパ太鼓の音です。
スットコン トットコン
ドンドタッタドンドドン
スットコン トットコン
ドンドタッタドンドドン
シャン!
鈴の音です。
チェロたちの歌に合わせたコーラスの声も、細く真っ直ぐ聞こえてきました。
ベジタローも、イルカちゃんも、竜ちゃんも、みんなみんな歌いはじめました。
もうチェロたちの周りは、光の粒で一面真っ白です!
淵中に広がって、ゆっくりふよふよ、ふよふよ。
ふよふよ、ふよふよ。
ふよふよ、ふよふよ。
淵も森も山も月も、み~んな覆い隠して光の粒が天に昇っていきます。
最後の光がお月さまに吸い込まれました。
淵は、月の光でシンと満たされ。
夜の風が、淵に浮かぶその白い影に、さざなみの微笑をもたらしました。
大歓声が上がりました。




