ピアノの夢
ピアノちゃんは夢を見ていました。
椅子に腰掛けたピアノちゃんの傍らで、お母さんが泣いています。
どこからか知らない大人の声が聞こえました。
「残念ですが・・これ以上、私どもも手の尽くしようがありません。とにかく様子を見ることしかできませんね」
――おかあさん・・
不安になってお母さんを見上げるピアノちゃんの口からは、小さな息が漏れるだけでした。
――「おかあさん!」
――「おかあさん!」
ピアノちゃんは、とても息苦しくて、一生懸命お母さんを呼びました。
ですがやっぱり、ハアハアヒューヒューと、風のような音が漏れるばかりです。
お母さんは、ピアノちゃんを見ながら泣いています。
――「おかあさん!」
――「声が出ないよ!」
――「おかあさん!」
――「おかあさん!」
やはり声になりません。
――「おかあさん!!」
ピアノちゃんは怖くなって泣き出してしまいました。
ピアノちゃんはお母さんに手を引かれて街の中にいます。
街の大通り。
透き通るように晴れた空の下、露店が立ち並ぶ通りは人波にあふれ、楽しげでにぎやかな雰囲気が勢いよく立ち昇っています。
カラフルな風船を配るキツネの獣人のおばあさん。
真っ白な顔に大きな口を描いた、おかしな化粧の道化師さん。
黒いスーツでそろえた音楽隊の人たち。
ピアノちゃんは少し緊張しながらも、わくわくドキドキしてお母さんの手をギュッと握り締めました。
往来の周りを子供たちがキャーキャーと楽しげに走り回っています。
お菓子のにおい。お料理のにおい。
街にはいろんないろんな楽しい雰囲気にあふれていました。
「はい、いらっしゃいよ~! アイスクリーム! アイスクリームはいかがですか~!」
お母さんの手を引いてその声に近づきました。
赤白ストライプのパラソルの下で、中年のおばさんが人のよさそうな顔で笑っています。
「あら、お嬢ちゃん。アイスはどうだい?」
繋いだ手をぐいぐい引っ張っておねだりすると、お母さんは笑って銅貨をピアノちゃんに手渡してくれました。背伸びしてその銅貨を屋台の上に置きます。
「はいよ! ありがとうね、お嬢ちゃん!」
アイスクリームを受け取ったピアノちゃんは、お母さんにニッコリ笑いかけ、早速アイスに舌を伸ばしました。ですが・・。
――ったく。ありがとうくらい言えないもんかね。
頭の中に声が響きました。
ピアノちゃんはギョッとしておばさんを振り返りましたが、おばさんは、ニコニコ笑って手を振っています。
「・・・・」
ピアノちゃんは、なんだか急に、街が色を失くしていくような気がしました。
大人のひとに叱られたことはありますが、文句を言われたのは初めてだったのです。
「・・・・」
なんだか、あんなに美味しそうだったアイスクリームがとってもまずそうで、泥でも食べろと押し付けられたような気がしました。
「・・・・」
「どうしたのピアノ?」
おかあさんがキョトンとした顔で覗き込んできます。
ピアノちゃんはどうしていいかわからず、さしとてアイスクリームを舐める気にもなれず、ただうつむきました。
うつむいてジッとしていると、いろんな声がじわじわと頭に沁みこんできました。
顔をしかめて、目だけを動かします。
一体なにが起こったのかわかりませんが、ひどく嫌な気分です。
「あーりがとうございましった!」
――くっそ、いい女連れやがって、馬鹿面さらしてるくせによう。
「どうぞー! イカ焼き焼けたよー! いかがっすかー!」
――こいつ買うなら買えよ、へなちょこが! めんどくせえ・・
「ねえねえ、次どこいく?」
――何でこいつの色目に付き合わなきゃならねえんだよ。とっとと帰ろう。
――お、いい女、あの尻たまんねえ。
――祭りなんぞにきてる暇あるか! こっちゃ仕事があるんだ!
――さっきの男、ホント最悪!
――なんかパッとしねえな、何で屋台ってこう高けえんだろうな!
――・・・・・!
――・・・・・!!
――・・・・・!!!
ちょっと意識したら、洪水のようにいろんな言葉が降ってきました。
言葉の乱流がぎゅうぎゅうと折り重なり、小さな針の塊りのように襲い掛かってきます。
「!!!」
ピアノちゃんは思わず、アイスを投げ出して、お母さんの足にしがみつきました。
「ピアノ!どうしたの!」
人混みの中、おかあさんはピアノちゃんを抱きしめてくれました。
ですが、ピアノちゃんにもわけがわかりません。
悪い言葉。そして悪い思いが、ドロドロと迫ってきます。
怖くて怖くて必死にお母さんにしがみつきした。
でも・・。
―― どうしてこの子はこうなの? 本当に・・疲れてしまう。
とても悲しい声がピアノちゃんの頭上から降ってきました。
驚いて顔を上げると、お母さんがゆっくり髪をかきあげて、微笑んでいました。
「どうしたの? 大丈夫よ」
――「おかあさん・・?」
驚いてもやはり声は出ません。
手を離し、後ずさったピアノちゃんは、人ごみの中に駆け出しました。
「ピアノ!」
おかあさんの声が聞こえました。
でも、でも、でも!
小さな手足を懸命に動かしてピアノちゃんは走りました。
走って、走って、走って。
人混みを掻き分け、足の間を縫って走りました。
その間にも、たくさんの言葉がピアノちゃんを打ちます。
――なんだこのガキ。
――チョロチョロすんな。
――親はなにやってんだか・・。
ピアノちゃんはその言葉の雨から夢中で逃げました。
走って、走って、走りましたが、ついに石畳の隙間に足を取られて思い切り転んでしまいました。
体を起こした途端、ジワリと痛みがかぶさってきます。
右の膝からいっぱい血が流れ始めました。
――「いたい。 いたい。 いたいよう!」
ぽろぽろ涙があふれます。
――「いたいよう!」
声にならない叫びが、誰の耳にも届かないまま、晴天の虚空に消えていきました。
ピアノちゃんは、ギュッと顔をしかめながら、しきりにパクパクと口を動かしています。
時々苦しそうに首を反らせたりして、ポロポロとこぼれる涙がずっと止まりません。
チェロは、ピアノちゃんを抱いて霊泉につけている『ミル』と名乗ったカッパ族の女官を心配そうに見上げました。
「大丈夫よ。治療の最中はいろんな思いが出てくるの。それをもう一度体験して乗り越えるのよ。ちゃんと泉が助けてくれるから安心してね」
ミルさんはそう言ってゆっくり笑いました。
その間にもピアノちゃんは、ビクビクと強く震えています。
チェロはおくるみの上から、ゆっくりとピアノちゃんをなでました。
しばらくそうしていると、だんだん落ち着いてきたのを感じられました。
やがてゆっくりと瞬きしながら目を開いていきます。
「はあ!」
チェロはパッと顔を輝かせてミルさんを見上げました。
ミルさんもニッコリ笑うと「もう大丈夫」と嬉しそうです。
チェロの後ろにいたアイラさんも、そっとチェロの肩に手を置きました。
「クカカ! クアカカ!」
「キュー!ウキュイー!」
「まーおー!」
そばに来ていたイルカちゃんも、首長竜も、ベジタローも嬉しそうに鳴きます。
シマシマイルカは、ピアノちゃんの足元にテシテシとアゴを打ちつけました。
首長竜はそおっとそおっとピアノちゃんに頬ずりしまして、チェロはきゃっきゃと飛び跳ねます。
「ピアノちゃんが助けにいくっていってくれたから、この子たち助かったんだよ。よかったねピアノちゃん!」
ピアノちゃんは、ぼんやりとしながら、顔を寄せてきた首長竜のほっぺたの辺りに手を置いて、なんだか不思議そうに撫で回すと、そっとその顔を遠ざけました。
シマシマイルカに目を転じ、ミルさん、アイラさんの顔を見てからチェロのほうに向き直ると、フルフルと首を横に振りました。
「?」
チェロたちは顔を見合わせます。
その間にピアノちゃんは、もそもそと器用におくるみの布のすきまから両脚を出すと、ミルさんの手から離れて、すぐ隣にいたピアニカさんに近づきました。
ピアニカさんにはふたりの女官がついていましたが、まだ目覚める気配はないようです。
少しの間ピアニカさんの顔を見つめていたピアノちゃんは、ザボザボとスライムを掻き分け、よじよじ泉の縁を登りはじめました。
「ピアノちゃん! どうしたの?」
あわてて追いかけますが、ピアノちゃんは濡れそぼったままベジタローに近づくと、その背中をぺんぺん叩きました。
どうやら背中に乗せろと言っているようです。
ベジタローは濡れるのを嫌がって、するりと後ずさりましたが、その後をトコトコと追いかけます。
そこを乾いた布を持ったミルさんが捕まえました。
途端におとなしくなったピアノちゃんは、まかせるまま体を拭いてもらっています。
「だめよ。治療が終わった後は、しばらくゆっくりしないと」
その時でした。
ズズズズズズズ・・・・・。
突然、周りが重い低音を伴って振動しはじめました。
カタカタカタと、小さく地面が揺れています。
「なに!?」
チェロは慌ててアイラさんに飛びつきました。
地鳴りが続きます。
アイラさんはチェロを抱き締めて、キョロキョロ周りを見回していましたが、その目に、泉の中からヒョコっと飛び出した二つの頭が映りました。ブルさんの車を引っ張っていた二匹の大王トカゲです。
大王トカゲはスルリと泉の縁を越え、そのまま凄いスピードで走って行ってしまいましたが、さらにその後に黄色い毛皮が続きます。
ぎょっとしてチェロが叫びました。
「ベジ! ピアノちゃん!」
体を拭いていた布を体に巻きつけたピアノちゃんが、ベジタローの背に乗って飛び出していったのです。




