第3話 ‐飢え渇く仔‐ ~ロストエデン・ニード・チャイルド~
「赦さない。僕は、君なんか、赦すもんか。
きっと一生、憎み続けてやる。……僕は認めない」
僕は、リンドウをにらみつけると、一息で言った。
「話して。それだけじゃないんでしょ。
リンドウ。君はまだ、君の話をしていない。
新芽だかなんだか知らないけど、
僕が聞きたいのは、そんな話じゃない」
「そうだね、どこから話せばいいか……そうだ」
リンドウは、僕を抱えなおすと、小首を傾げ、澄んだ瞳で、こう言った。
「ねえ命。僕の名前を知っている?」
「何って……“リンドウ”でしょ」
と僕はいぶかしげに返した。
古城凛灯。もしくは、リンドウ・エデン。
それが彼女の名前のはずだ。
「違うよ。僕のほんとうの名前。
生まれたとき、僕がつけられた、祝福の名だよ」
あまはらうずめ、とリンドウは、歌うように言った。
天原卯澄芽。
天の園の、萌え出ずる、
澄み渡る、翼の芽。
それは、まるで、神話のアマノウズメのようであったし、
絶世の美女であっても、二十代前半の年増で、
ふてぶてしいリンドウには、ふさわしくないように思えた。
リンドウは、ついでとばかりに、昔話をした。
リンドウは、ベトナムで生まれた。
準日本人である両親が、現地でNGOをしていたためだった。
――貧しい人々に救いの手を。
彼らの行いは、たぶん正しかったろう、と思う。
だが、あいつぐ内乱のさなか、
彼らはまだ幼いリンドウ……、卯澄芽を置いて死んだ。
リンドウは、両親が、銃で撃たれて死ぬのを、その目で見届けた。
ベッドの下に隠れて、両親の手により、隠されて、
リンドウは悲鳴を押し殺した。
だが、それは隠せるものでもなかった。
テロリストの銃口は、リンドウの額にも向けられた。
……死ぬ。
リンドウは、涙の溜まった大きな目をつぶった。
そこに、現れた者があった。
その人は、ぼろい布をまとい、重そうな杖を握った、老人だった。
このおじいさんも殺される、とリンドウは思った。
だが、そうはならなかった。
老人は、まるで、咲き誇る木蓮のように、
砂漠のオアシスのように、微笑んだ。
その場違いな笑顔に、テロリストはたじろいだ。
「殺生はいけないよ。君の手が穢れてしまう」
老人は、落ち着いた深みのある、テノールでそう語ると、
テロリストの手を握った。
「君には、もっとふさわしい行い、素晴らしい人生がある。
よかったら、この老いぼれに、手を貸してくれないかな」
テロリストは、目を白黒としていたが、やがて、
毒気を抜かれたように、こくん、とうなずいた。
それは、不思議な光景だった。
凶悪な犯罪者が、たったひとつの微笑み、たったひとつのぬくもりで、
これ以上の罪を重ねることを、やめたのだ。
奇跡、というには、あまりに自然で、
まるで、なんてことない、当たり前のことのように、軽やかに、
老人は、その偉業を成し遂げた。
後から聞いた話では、テロリストの両親は、
政府からの弾圧と、迫害にあって、
命を落としたという。
血で血を洗い、罪を罪であがなう、その悲しい繰りかえしに、
終止符を打ったのは、
たったひとりの、か弱そうな老人だった。
やがて、老人に手を引かれ、導かれるままに、
彼の子となったリンドウは、知ることになる。
彼の者こそが、愛と赦しの世界的宗教、
花蓮宗の筆頭、
医師であり、女神・花蓮の箱庭を管理する<庭師>、
蓮教老師こと、
古城蓮鏡その人だということを。
老師の養子にして、
弟子となったリンドウは、世界中を旅した。
どんな豊かな国にも、貧困や飢えはあった。
その渇望を、溢れんばかりのおおらかな愛で包み込み、
満たそうとする、蓮鏡の姿に、
リンドウは羨望を覚えた。
蓮鏡は、こう言った。
「鏡は、磨かねば、すぐに曇ってしまう。
君のその、凛とした、濁りなき瞳が、
私に、消えない炎を、灯してくれる。
リンドウ。凛と輝く、導きの炎。
君は、この世界に、ひとつひとつ、希望の光を灯しておゆきなさい……」
やがて、蓮鏡は死に、次の筆頭に、
唯一の弟子にして、養子である、リンドウを選んだ。
だが、リンドウは、彼以外には愛されなかった。
女神・花蓮こそを、至高とする、花蓮宗の修道長たちは、
それ以外の女性を、ただの模造品<レプリカ>としかみなさず、
今だに、時代遅れの、女性蔑視を続けていた。
リンドウが当主となってからも、批判はたえず、
時には、愛と慈悲の世界的宗教の一員とは思えない、
姑息な嫌がらせをしてきたり、
中には、まだうら若い娘であるリンドウを、
薄汚い情欲のはけ口にしようとする、輩すらいた。
だが、リンドウは、そんな輩を、かえって、自分の理想のために利用した。
それぐらいのふてぶてしさがないと、
この世界で、生き残っていくことはできなかった。
時には、娼婦の真似事もした。
聖なる力が、純潔の乙女の身にのみ、宿ると知っていた、
やせぎすの修道長達は、どんな時も、一線を越えようとはしなかったし、
リンドウもまた、こんな下卑た輩に、
大事な処女を、くれてやるつもりもなかった。
誰からも愛されないリンドウは、いつも飢えていたし、
その愛と慈悲にあふれたふるまいも、
すべて、蓮鏡のコピーにすぎなかった。
だからリンドウは、いつだって、
自分は花蓮宗の首領にはふさわしくない、と感じていた。
そして、リンドウは、結論付けた。
僕は、空っぽだ、と。
そしてそれを、恥じている訳ではないと。
みんなが愛しているのは、リンドウ自身じゃない。
リンドウに宿る、神様のほうなのだと。
「そんなことない」と僕は、言った。
あるよ、とリンドウは静かに言った。
「僕は、両親が死んでから、誰にも抱き締められたことがない。
お師匠様以外にはね。
そしてそのお師匠様も、僕に秘伝を授けると死んでしまった。
……僕は、ひとりぼっちだ」
僕は、衝撃を受けた。
あんなに堂々としていて、いっそ、ふてぶてしいふるまいのリンドウが、
こんな風に思っていたなんて、知らなかったのだ。
その横顔は、悲しそうというより、悲しみなんかを通り越し、
諦めて、諦めきっているように見えた。
「――リンドウ」
「……ごめん。嘘だよ」
リンドウは、申し訳なさそうに笑うと、
これで話は終わりだ、とばかりに微笑った。
僕は、思った。
リンドウは、恥じていないわけじゃない。
恥じてはいけないと、思っているんだ。
神の僕である自分は、
誰をも見下げてはならないし、愛すべきなのだと。
それは、リンドウ自身を縛る、鎖のように思えた。
僕は、思う。
そのかなしい呪縛から、開放してあげられるのは、誰だ?
このちっぽけな世界で、誰が彼女を救える?
誰かを救うことしか考えていない、この空っぽの、可愛そうな救世主に。
誰が手をさしのべ、抱き締めてやれるのだろう。
そう考えたところで、はっとした。
何を考えてるんだ、僕。
このクソ女に、同情するなんて。
ぶんぶんと、首を振るっていると、命は優しいね、と、頭を抱かれた。
「なにす……そんなわけな……」
「優しいよ。僕よりずっとね」
なぜか、リンドウが泣いている気がして、僕は仕方なく、体の力を抜いた。
しばらく抱きしめられていると、
リンドウは、僕の額にキスして、お礼を言った。
「ありがとう、命。おかげで、少し楽になったよ」
それは半分、嘘だと知っていたが、黙っていた。
この女は、時々、こうして強がる。
恐らく、心配をかけまいとしてのことだろう。
大人というものは、なんて面倒くさい、
と僕はそっと溜め息をついた。
「ようやくみえてきたね」
そこは、見渡すばかりの海岸だった。
「ちょっと位置は違うけど。うん、ここなら、みんなと合流できそうだ」
リンドウは、のろしを上げた。
ひゅーーーー、どん。
それは、蓮の花を模した、花火のようだった。
「有姫と摩耶なら、
この合図で気づくだろうね。
後のメンバーが引っ掛かってくれるかは、五分五分かな。
ともかく、ここで、野営するよ」
リンドウは、僕をそっと砂浜におろし、自らも、品よく座った。
気づけば、日も落ちかけていた。
ここに来てから、どのくらいたったろう。
時計のない今、時間も日時も、知るすべがない。
元の世界に帰ったら、浦島太郎とかしていた、なんてことはないだろうか。
僕はぶるりと震え、リンドウが、そんな僕に、ぴたり、とくっついた。
「きみは寝ていて。僕が見張りをしておくよ」
「おなか減ったんだけど」
「僕の顔でも食べる?」
「アンパン仮面<ヒーロー>かよ……」
僕は、キッズの話題には上るが、一度もみたことのない、
幼児向けアニメを想像して、げんなりした。
「もういいよ。我慢する。
いっとくけど、交代だからね。三時間たったら起こして」
「ダメだよ。子どもはたくさん寝ないと。オトナになれないよ?」
「余計なお世話だよ。僕は、暇人じゃないの。
――とにかく、命令だから。三時間たったら、今度は君が寝るんだ。
異論は許さない。……わかった?」
「はいはい。じゃあ、六時間後に起こすよ」
リンドウは、僕の睡眠時間を、ちゃっかり、勝手に増やすと、
僕の頭を抱えて、自分の膝に置いた。
「うわ……っ、なにするの」
「え、抱きしめたほうがよかった? それならそうするけど」
「冗談じゃない。君と同衾なんて、虫唾が走るよ。
もうなんでもいいから、黙りなよ」
「ふふ、照れちゃって」
「照れてない」
しばらく無駄なおしゃべりが続いたが、気づけば、
僕は、眠りに落ちていた。
夢のなかで、僕は、見知らぬ女を抱いていた。
ミルク色の双丘に顔をうずめ、
裂くように、身を進める。
女は、悩ましげに、吐息を漏らした。
この女は、あまり喘がないな、と僕は、
いや、暁は、思った。
女は、布や枕を噛んで、
襲いくる、快楽に耐えていた。
そんな女の慎ましさと、健気さ、
それとは相反して、よく跳ねる躰、
汗をはじくような、みずみずしい肌に、僕は陶酔した。
あまりに気持ちがよすぎて、何度も意識が飛びかけた。
女もまた、徐々(じょじょ)に高ぶり、淫らになっていく。
鮮血が、つい、とふとももに伝い、ああ、この女は処女なのだ、と思った。
雄に純潔を散らされ、この女は、またひとつ、美しくなるだろう。
女は、信じられないほど美しかった。
僕の失った奴隷<チカ>のような、
おぞましいほどの美、というわけではない。
ただ、染みわたるほどに清廉で、
澄み切った泉のような、清らかな美しさだった。
爽やかで、後に残らないそれは、
それでいて、飲めば、このうえなく甘美だった。
僕は、その至福を、たった一晩にして、味わった。
まるで、人生すべての幸福を集め、凝縮したような、
その甘露の交わりを、
当時の僕は、夢、幻のたぐいだと、信じて疑わなかった。
だが、ふとした時に、その時の、快感がよみがえり、
僕は、むさぼるように、ほかの女を抱いた。
我が妻、血闇には、最初に契って以来、
一度も手を出していない。
もはやあれは、僕のものではなかったし、
血闇が孕んだのが、
今度は僕の子だったというだけで、満足だった。
僕は、天王の聖なる血を、後世へと繋いだだけで、
お役御免、もはや、もうなすべきこともなかった。
金と権力と美貌は変わらずあったから、
僕は、残りの人生は、遊べるだけ、遊んで暮らすと決めた。
それはまるで、どんなに求めようと手に入らない、
激しい飢えを満たすがごとく。
それでも、満月の晩には、よく、物思いにふけった。
――奴隷を抱いた、あの快楽。
――奴隷が笑った時の、あの幸福。
――――奴隷に裏切られたときの、あの絶望。
……奴隷を裏切り返し、殺めたときの、あの後悔。
走馬灯のような情景の最後は、
決まって、あの天女のことを思い出した。
あのぬくもりに包まれた時の安堵、
あの躰の甘やかさ。
そうして、少し満たされたような気分になって、僕は床についた。
目覚めると、隣に天女を探した。
羽衣でもいいから、落ちていないかと、寝所中を探し回った。
落胆はいつものことで、いつしか、慣れてしまった。
それでも、人ならぬ奇跡と交わった至福は、
僕の胸からは、いつまでも消えずに、
あたたかな灯し火として、僕を抱き続けた。
僕は、彼女を求めていた。
奴隷のような、「愛しさ」でもなく、
血闇のような、「激しさ」でもなく。
ただ、それが当たり前であるかのように、
見知らぬそれを、史上の女だと、讃えた。
いつしか、また逢えると、僕は確信していた。
死ぬ直前まで、信じていた。
最期まで、彼女には逢えなかったが、「次こそは」と思った。
次にまた逢えたなら、今度は、あの女性の名を呼んで。
そして今度こそ、大切にする。
もう、騙すのも、裏切るのも、こりごりだ。
あの女を娶るためなら、血闇と別れてもいい。
妻は、夫である僕のことなど、どうせ毛ほども愛してはいないのだから。
来世というものがもしあるのならば、僕はそのひとを、二度と、離さない。
鳥籠に閉じ込めてでも、僕のものにする。
薄く目を開けると、日はもう昇っていた。
目の前に、すやすやと眠る、
リンドウの長い睫毛が揺れていたが、
さほど驚かなかった。
躰を起こし、その頬に触れる。
艶やかな黒髪に触れる。
そして、その毛束に、口づけた。
なんで、忘れていたのだろう。
僕が求めていた天女は、
ずっと前から、こんなに近くにいたのだ。
僕は、その健やかな呼吸を、鼻で感じ取ると、
ゆっくりと、そのふっくらとした唇に、顔を近づけた。
触れるか、触れないか、といった距離で、僕は、一瞬、迷った。
なにを、バカなことを。
前世は、前世だ。
僕の未来の妻は、千夜ただひとり。
たとえ、この女が僕の求めていた女神だとしても、
僕は、千夜を愛すると決めたのだ。
ためらっていると、リンドウが身じろぎをした。
「ん……」
はっとして、身を引くと、リンドウに抱き寄せられた。
「暁……」
その瞬間、かっと頭が焼き切れた。
気が付くと、その唇を、強引に奪っていた。
舌こそいれなかったが、気持ちとしては、
今すぐこの最低女を、
滅茶苦茶に犯してやりたい気持ちで、いっぱいだった。
僕と、暁は違う?
嘘ばっかり!!
やっぱりこの女にとって、僕は、ただの代用品なんだ!!
僕は、いらだちながら、その場を後にした。
砂浜に、僕の足跡が刻まれていく。
僕は、そうして、眠るリンドウを、置き去りにした。
そのことが、どんな悲劇を呼ぶかも知らずに。
Lost ~ロスト~
「失った」
Eden ~エデン~
「天国」
Need ~ニード~
「必要とする」
Child ~チャイルド~
「子ども」
“Lost Eden Need Child”
~ロストエデン・ニード・チャイルド~
「失われし楽園は、子どもを求める」




