第1話 ‐花は咲き散る‐ ~ロータス・ガッデス・ブラッディ・ドロップス~
やがて、進藤はゆっくりと目を開けた。
あたしは、目覚めた進藤の頭を、ひざに載せ、その短く揃ったまつげがぴくりと揺れ、まぶたが開くのを待った。
「……千夜……」
「……おはよう。もう、気は済んだか?」
「――千夜、僕は……」
進藤はわずかにためらい、瞳をふせた。
「――殺してくれなんて、もう言うなよ」
「……言わない。僕は、間違っていた……」
進藤は、けっして赦されない過ちを激しく悔やみ、懺悔するように、深く長い息を吐いた。
「……言ってみろよ」
あたしは、その頭をさらさらと撫で、険しい表情のなか、唇をゆるめるように持ち上げ、言った。
「……君を殺して、はじめて気づいた。僕が、こんなにも、ずっとずっと、君を求めていたことに。君を失った瞬間、空っぽだった僕のなかに、君が溢れた。僕の中には、もう、こんなにも君が溢れて、溢れ返っていた。それに気づいた瞬間、僕はもうどうしようもなくなった。躰が、バラバラに砕け散るかと思った。――それなのに、僕はまた、君を傷つけ、裏切った」
「――うん」
あたしは、進藤の頭をなでながら、こくりとうなずいた。
「あの女性、千冬に操られていたから、なんて言い訳はしない。僕はずっと、君を憎らしく思っていた。僕の婚約者を奪っていったのは、君だったから。それでも、君に罪はない。君を産もうとした宝子の意思を尊重しよう。そう、誓ったはずだった。でも、本当は、苦しかった。宝子は、僕のすべてだったから。本当は、まだ、心のどこかで、君を責めていた。君なんか死んでしまえばいいなんて感傷、捨てたはずっ立ったのに」
「仕方ないよ。だって、大切な人だったんだろ。そんな簡単に、割り切れないよ。あたしが進藤だったら、きっと、許せない。あたしのママがもし、誰かに殺されたら? そんなの、耐えきれない。きっと憎むし、復讐してやりたいって思う。本当に実行できるかは、わからないけど」
「千夜。そうじゃない。宝子を大事に思うなら、最初から、君を愛すべきだった。君を捨て、利用して殺そうなんて、間違っていた。何度謝っても、許されないことだったんだ」
「過去形だよ。進藤は、もう、二度とこんなことはしない。そう誓ってくれるんだろ? だったら、あたしは、進藤を許すよ。違うな。何度裏切られたって、あたしはきっと、進藤を許す。だって進藤は、あたしの」
進藤の手が伸びて、あたしの頬をさらり、となぜた。まるで、それ以上は言わせない、と言うように。
進藤は、あたしの腕をつかみ、その上体を起こし、体をひねるようにして、あたしに向き直った。
「だから千夜。……改めて、僕の娘になってくれ」
「頼まれなくても、もうあたしはお前のガキだっつの。最初から、あたしは、ずっとお前の娘だったんだ」
そう。進藤を嫌えなかった理由。
あの病院で記憶を失って、はじめて目覚めた瞬間から感じていた、「あたしの主治医・進藤」への不思議な安心感。
きっと、あたしは、心のどこかで、最初から、知っていたんだ。こいつはあたしの親だって。血の繋がった家族だって。
「――だから、もう謝ったりすんじゃねえぞ。……あたしはもう、お前から離れねえから」
言って、あたしは進藤の頭を、柔らかく抱きしめた。
再び感じる、進藤のぬくもり、におい、息遣い。
あたしは、すっかり満たされた気分になって、そのふわふわした頭頂部に、顔をこすりつけた。
チカが、複雑そうな顔で、みつめている気配がしたが、もう、邪魔してこようとはしなかった。
やがて雷門が、「あー……」と気の抜けた声でぽりぽりと頭をかき、こう言った。
「それで、リンドウ、だったか? お前は、一体何者なんだ」
「――僕? 僕はだから、花蓮宗の、花守、リンドウだよ。――それ以上でも、以下でもない」
「だからその、<カレンシュウのハナモリ>って、なんだよ。 ――何語だ?」
「いちおう、日本語なんだけどね。花蓮宗とは、アジアを中心とした、世界宗教の総称さ。人々に、愛と赦しを伝える、生き仏、<花蓮さま>のお手伝いをするのが、僕達の主なお役目だ」
「僕はそのなかでも、筆頭花守として、花蓮さまのお体を、お護りする力を戴いている。いちおう、花蓮宗の、実質的なトップだね」
「色々とうさんくせえが、そんなお偉いさんが、俺たちになんの用だ? まさか、散々、味方面しておいて、あの魔女の手先とかじゃねえだろうな」
雷門の厳しい意見を、リンドウは柔らかく受け止め、否定した。
「それはないね。僕はあのひととは、完全に敵対する身だ。そして、言った通り、千夜の守護者でもある。……正確には、第一騎士。――僕は、千夜を護るために、ここにいるんだ」
こくりとうなずき、リンドウはさらり、とその美しくなめらかな黒髪を揺らした。
「第一騎士……」
あたしは、何がなんだかわからないという顔で、渋面を作った。
すると、リンドウはふっと、そんなあたしを、慈しむような目でみつめた。
「まあ、ていのいい召使いだと思ってくれていい。これからは、摩耶と、有月くんの仲間として、きみをお護りするよ。――遠馬くんと、雷門くんもいいよね?」
華麗にスルーされたチカが、むっとして言った。
「待て。まだ、お前が味方だと決まったわけじゃねえ。さっさと千夜から離れろ」
言って、ぐい、とあたしを背中に追いやった。
「……困ったね。さっきの出来事で、じゅうぶん証拠になったと思ったけど。――さすがに、そんなに甘くないか」
言って、うーん、と腕を組んだ。
「そうだ、摩耶。きみの口から、僕の素性を、話してもらうというのはどうだろう」
「えっ、あたし?! いいぜ、うーんと、リン姉はな……」
「待て、お前が話すとややこしくなる。あたしから説明しよう。――まずは、あたし達が、何者か、についてだ」
言って、有姫は語りだす。少し早口で、でも、静かに、淡々(たんたん)と。
「あたしの名、鮫島有姫というのは、偽名だ。正確には、有月という。――名字は、存在しない」
「存在しない……?」
あたしの驚きに、有姫は目を開け、答えた。
「ああ。あたしは、日本国の象徴、天王家の跡取りにして、日の昇る国の最後の姫、有月だ。この名は、平安の世、鬼と契った鬼姫、有月姫に生き写しだったことに由来する」
「そして、あたしは、お前――千夜を護るため、乙女と結託し、今まで、秘密裏にお前たちを監視していた」
「――ああ。そんであたしも、ほんとは、雷早乙女って名前じゃねえんだ。本名は、摩耶。日本国の総理の娘にして、ばあちゃんとじいちゃん……。勝利と幸福の女神<フェリティシィア>と、轟雷の魔神<クリストフォルス>の血を受け継ぐ、いわば、四分の一女神、四分の一魔神、半分は人間の<ハーフクォーター>だ」
「あたしの怪力は、じいちゃんゆずり。やたらツイてるのは、ばあちゃんのおかげだな。あたしは、千夜を護るために、お前らをストーキングしてたんだ」
「す、ストーキング……」
ツッコミどころも多かったが、いろいろと衝撃的すぎて、あたしは引くしかなかった。
あのチカですら、得体のしれないモノを見る目で、そんな乙女と有姫を、半目でみつめていた。
「まあ、それはいい。問題はお前、千夜の素性だ。公的な記録では、お前はごく普通の一般人だ。――だが、正確には違う。お前はこの有月――天王家の跡取りにして、平安の姫、有月姫の妹であり、鵺を封じた高貴なる巫女姫――血闇姫の血を継ぐものだ」
「もっとも、血闇は、継承権を破棄し、禁忌を犯した。――それこそ、鬼と契るよりよっぽどすさまじい罪をな」
「……罪、って」
「ああ。血闇は、あろうことか、死んだものを生き返らせた。生まれてきてはいけなかった、罪子を。それがお前だ――チカ」
「…………!」
チカは驚いた顔をしたが、それはとっぴょうしもない、ホラ話をふられたというより、隠していた秘密をまるごと暴かれたときの、それに似ていた。
「チカが……死んだ? 生き返った? それに、罪子って、罪の子……?」
「ああ。チカは、平安の世、名もなき奴隷だった。生まれた時から化け物と呼ばれ、嘲笑と差別と、畏怖をもって、虐待されてきた。お前と血闇は、その美しさも、髪の長さも、外見上の年も、まるで鏡写しのようだった。そして、あの蒸し暑い夏の夜、お前達は、出逢ってしまった」
有姫はそこまで区切ると、はあ、と息を吐いた。
「――名無しは言った。“オレを、殺してくれ”と。――血闇は言った。“ならぬ。そなたの姿を、もっとわらわにみせよ”と。雲がとぎれ、満月に照らされた名無しの瞳は赤く、その赤は、まるで、血のようにも、林檎のようにもみえた」
――血闇は笑った。
“なんじゃ、そなた。わらわの名と、同じ目じゃ。そなたは、まるで、わらわじゃな。わらわの半身よ。――ちこうよれ。……わらわを触れたもうことを赦す”」
その時代、年頃の姫が、御簾という、顔を隠す障害物なしで異性と会話するのも、ましてや、初対面の異性に、自らの躰に触れさせるのも、ありえないことだった。
だが、血闇はそうした。
その時には、もう運命は決まっていた。そう、血闇は、哀れな名無しに恋をした。
――まさかその結果、名無しが死ぬとは思いもせず。
(チカが、大昔、男で、名もなき奴隷だった? しかも、あたしのせいで死んだ?)
あたしは、ぞくり、としながら、続きを待った。
「血闇は、まず名無しに自分の手を、頬を、そして、腕を、足を、胸を、触らせた。名無しは戸惑ったが、それ以上に、飢えていた。――こんな風に人に触れるのは、はじめてだった。もっと、と思った。“もっと、触りたい――もっともっと、もっと”」
それからのことは、もうわかると思う。
ふたりは一夜にして、契りを交わした。血闇は身ごもった。
やがて、父親が奴隷だと知ると、子どもはおろされ、名無しは処刑された。
血闇は泣いた。泣いて、泣いて、枯れるほど泣いて、自害をこころみた。
だが、それを止めたものがあった。
それが、あたし――有月だった。
有月もまた、禁じられた恋に、身をやつしていた。鬼と契り、鬼の子を宿していた。
血闇と有月は、約束を交わした。
この子が鬼の子であるということは、隠し通そう。――そして、名無しを殺した者たちに、制裁を。
ふたりは、陰陽の術を使って、名無しを殺そうとはやし立てた権力者たちを殺害した。
とはいえ、殺せないものもあった。あたしたちの弟、暁。そして、あたしの友であった姫の幼馴染、相之宮。
だが、残りはすべて消した。そのせいで、あたしたちは短命の呪いを受けたが、かまわなかった。
やがて、有月は、みずからの夫、悪鬼、紅天飛が、自分を騙していたことを知る。
天飛は、鬼たちの長になりあがるために、強い神の力を宿した姫、有月をはらませようとしたのだ、と。
だが、事実は少し違った。最初は、確かにそうだった。
そう、鬼は病弱にして可憐なる美姫、有月に恋をした。
そして、罪悪感から自ら、魔剣――悪鬼魍魎を斬る霊刀、禍津神ノ懺を有月に与え、自らを殺害させた。
鬼の死体からは、大量の鵺が生まれた。
その鵺が人に害をなす前に、それらすべてを封じたのは、有月と同じ女神の血をひく、高名な女陰陽師でもある、血闇だった。
こうして名無しとその子は死に、鬼も鵺も消えた。
残されたのは、あわれなるふたりの美姫と、有月のはらんだ鬼の子だった。
ふたりは秘密を守り、鬼子を育て慈しんだ。その子孫があたし、有月だ。
あたしの体質、「高速治癒」は、強靭な鬼の肉体と、高潔な女神の血が混じり合い、相互に干渉することによって起こる、副産物だ。
欠点は、あまりにめまぐるしい代謝と引き換えに、常人より疲れやすいことだ。
あたしはそれを、自らの体内の気の流れ、すなわち龍脈を解放することによって、うまくコントロールしている」
「リュウミャク?」
「ああ。龍の脈と書いて、リュウミャクと読む。そもそも、個人の神性は脳ではなく骨髄と心臓と、それに流れる血液に宿る。その流れを鵺が浸食<ハック>し、乗っ取る手順を逆にしただけだ」
「その閉じられた神性の蓋、あるいは栓を開くことによって、あらゆる身体機能を瞬時に活性化させる」
「姫が、ちょっぱえーのは、そのおかげってわけだ」
と乙女が、わかったようなわからないような、どやあ! 感あふれる、間抜け面で合いの手を入れた。
有姫の、目にも止まらないほどのちょっぱやい、ようするに超早い剣さばきはその、龍脈? とかいうのを活用したせいだったのか。
「いみわかんね」とチカが、さっそく思考放棄した。
「ともあれあたし達は、千夜を護る立場にある。あたし、有月は剣の番犬<ビースト・エッジ>、乙女が勝利の守護者<ヴィクトリー・ガーディアン>。そして、リンドウ――前世の名“新芽”から、あたしは新芽姉と呼んでいる……は、あたし達ふたりの師範役だ」
「第一騎士という呼称は、いざというとき、一番に千夜――花蓮を護る、従者<ナイト>であることを意味する。あたし達三人は、これまで互いに協力しあい、千夜を陰で護ってきた。――チカ、ここまではわかるか」
「わかるもなにも、それが真実なんだろ。だったら、わかるしかねえ。納得いかねえが、ようするにお前らは千夜の味方だってことだろ?」
「ああ。そして、お前の敵だ。まあ、今は休戦だ。あたし達は、お前達の動きを静観し、みだりに干渉しない。ただしそれは、お前が本性を押さえて隠せているうちだ。お前がひとたび牙をむき、欲望を抑えきれなくなったら」
――その時は、わかるな? と有姫は細めた瞳に物騒な輝きを灯し、小首をかしげた。
チカが、静かにうなずく。
「――異論はねえ。腹は立つが、お前らの能力は正直、ありがたい。お前らがオレ達を監視するついでに、オレ達もお前らを利用させてもらう」
「……利用とかいうなよ。仲良くしよーぜ」と乙女が、唇をとがらせた。
「やれやれ、殺伐としてきたね。ちょっとは落ち着こうか。有姫、きみはチカにケンカを売らないこと。有姫は口ではこういっているが、きみのことを認めている。ただ、素直になれないお年頃なんだ」
きっと、大事な女友達を、取られたくないんだろうね、とリンドウは、わかった風な上から目線で言った。
なんだろう、このリンドウという女性、腰は柔らかいが、やたら高圧的だ。
――食わせ物のタヌキ。
あたしの脳内に、丸いタヌキ耳としっぽを生やし、ぽんぽんと腹を叩いているリンドウの姿が浮かんだ。……すごく、シュールだ。
「ともあれ、幸いまだ時間はたっぷりある。ラスボスに挑戦する前にレベル上げならぬ、情報交換だ。今、僕が保有する全知識のうち、特に今必要なものを千夜、きみに教えておこう」
リンドウは語る。
――僕は、ベトナムで生まれた、純日本人だ。だが、食べたものが違ったからかな。僕の容姿は、純粋な日本人とは少しばかり、かけはなれてしまった。
ともあれ、僕はきみぐらいの年のころ、日本を一度訪れているんだ。
ちょうど、交差点を渡ったところだった。
ふと、ちいさなレディーにぶつかった。
僕は、振り向き――そして、心奪われた。
気が付いたら、ぶつかってきた、少女の頬に触れていた。
その瞬間、ぶわり、と全身の細胞が花開いた。そう、僕は、僕の生まれ持った使命に、そのときはじめて気づいたんだ。
「いや、思い出した、と言っていい。それが、花蓮宗の花守、リンドウ・エデンの誕生だった」
「とりあえず、いろいろツッコミてえが、それが千夜だったのだけはよくわかった。だが、お前にとって千夜とは、いったいなんだったんだ」
チカが、あきれたような表情で、続きをうながした。
「我らが主。我らが母上、だよ。すべての乙女達の姉であり母。彼女こそが、僕の探し求めていた女神<ディーヴァ>だと、その時、はっきりとわかったんだ」
リンドウは、再び、続ける。
――その時思った。……美しい、と。僕はこんなに美しい女性を、今まで見たことがなかった。
そして、誓った。僕は、この人のために生き、死のうと。
「あたしが、美しい……?」
あたしは、いぶかしげな瞳で見返した。
「――ああ。きみは、血闇さまにそっくりだ。見目形が、ではないよ。魂の色が、美しさが。そして、ないよりも内に抱いた誇り高さ、気高さが。……まるで生き写しだった」
「僕にはそれまで、記憶はなかった。それでもありありとわかった。――ああ。僕はこの人のために、生まれてきたんだ……ってね」
チカが、そこで口をはさんだ。
「――待て。お前にも、“記憶”があるのか」
お前にも? 不可解な発言に、あたしは顔をしかめた。
お前……“にも”? それじゃあ、まるで、チカにも……。
「ああ。もちろんだ。もっとも、僕は、あまり運命に干渉できない。なにしろ、この世界では僕は完全なる異邦人だ。なにしろ、厳密にはヒトではないからね。ようするに僕という存在は、太母である、花蓮さまに造られた身なんだ」
「つくる? タイボ? あんたは、なにを言ってるんだ?」
あたしは、イライラしながら聞き返した。――理解不能だ。この女の言うことは、すべて。
「きみはね。平安の時代を代表する。美姫、血闇さまの生まれ変わりだというだけじゃない。創世の折お生まれになった、摩耶や有月くんをはじめとした、この世界のすべての女性の産み手、唯二たる夫婦神・花蓮さまの顕現<アバター>なんだ」
「それは、オレも初耳だ。だが、それが本当だと証明できるのか?」
チカが、疑わしいといった顔つきで、にらみつける。
「できるね。たとえば、この世の誰も、千夜を殺せない。たとえ殺人鬼<リッパー>くんだろうと、明くん<パパさま>だろうと。千夜を殺せるのは、きみだけだ、チカ。正確には、きみの言動のみが、千夜の運命と生死を狂わせる。そう、唯二たる夫婦神の片割れ、魔王・空魔さま、それが本来のきみだ」
「待て。さすがに、ホラ話にしてはぶっとんでんな。大体、この世界を作った夫婦の神様が、オレと千夜って、どう考えてもおかしいだろ。それだと、千夜は、魔王だかなんだかの妻? ――いいかげんにしろよ。てめえの妄想で千夜を穢すな」
はっきりと、憎悪と嫌悪、そして拒絶の入り混じった瞳で、チカはリンドウを見据えた。
「……いや。きみの疑問は正しい。現に、我が花蓮宗でも論議が耐えなくてね。母なる女神、花蓮さまが悪魔にほだされたなど、ありえない、あってはならないと。だが、それは事実なんだ。花蓮さまは、魔王さまと契りを結んだ。しかしそれは、きみがまだ、清らかな男神だった頃の話だ」
「え……?」
話についていけなくて、あたしは思わず疑問符めいた吐息をもらした。
「そう、それは、日本神話の夫婦神、<イザナミとイザナギ>の話に似ているね。花蓮さまは、人類を生み落として死んだ。そして、そんな花蓮さまを蘇らそうとして、空魔さまは変化した。あらゆる罪に手を染めて、どんな手段もいとわず、彼の妻を取り戻そうとした」
リンドウは続ける。
「結果、地上には罪があふれ、彼らの愛し子である人類は争い、互いに殺し合うことになった。鵺とは、空魔さまの絶望の涙から生まれた、彼の眷属だ。彼の手先である鵺達は、彼の失われた伴侶、花蓮様を蘇らせるために、多くのあわれな子どもたちにとりつき、その甘美な不幸を種床にして、とうとう千夜を復元するに至った」
「だが、あの血闇さまですら、その実験作<プロトタイプ>でしかない。……血闇さまは失敗だった。血闇さまは、そのたぐいまれな美しさをのぞいては、花蓮さま<オリジナル>には程遠かった。――しかし、きみはどうだ。……きみは完璧だ。きみこそが、まさしく、僕達の母であり、花蓮さまのうつしみ<アバター>だ」
そこまで語り終えると、リンドウは、そっと息を吐き、かすかに微笑ってみせた。
「これがこの世界における、最も真実に近い創世神話であり、この世界の純然たる歴史だよ」
「――そんなの……おかしいだろ……」
あたしは、うつむいたまま、肩を震わせた。
そんな荒唐無稽なホラ話、誰が信じるか。
だが、あたしの内部の何かが、否、と首をふる。
それは、事実だ。真実であり、真理であり、おかしがたい真なのだ、と。
「――じゃあ、証明してみろよ」
チカが、噛みつくように言う。その挑発的で、挑戦的な瞳は、ぐらぐらと煮えたぎったマグマかなにかのようだ。
どうやらチカもまた、あたしと同じものを感じているようだった。
――否定したくても、できない。
まるで、四肢の自由をうばられた、標本……いや、操り人形<マリオネット>のように、あたし達は踊らされているのだ。そう、運命という大いなる脚本の前では、あたし達はあわれな奴隷に等しかった。
「そうだね。それは簡単だ。僕がこの剣で、千夜をつらぬく。――それで、千夜が死ななかったら、僕の勝ちだね」
リンドウは、歌うように言うと、さっき剣をしまった胸にそっと手をあてた。
チカを含め、一同に、緊張が走る。
チカが、いまにも刺し殺しそうな殺気をはなったのをみてとって、リンドウは肩をすくめた。
「――どうやら、試す気はないようだね。僕の不戦勝かな」
「――てめえ……」
チカが、ゆらりと動く。雷門と双子坂が、静かに臨戦態勢に入った。
「まあまあ! ケンカはやめようぜ! あたし達は、仲間なんだ! ――仲良くしようぜ!!」
乙女が、めずらしく空気を読んで、割って入った。
気をそがれたチカが、しぶしぶといった風に引き下がり、情に厚く喧嘩っ早い雷門が、舌打ちをした。
「それが本当だとして、あなたの目的は何ですか? まさか、そんな与太話を言うためだけに、ここに出向かれたわけじゃ、ありませんよね?」
双子坂が、珍しくぴりぴりとした警戒心を隠さない、わずかに不機嫌そうな硬い表情で言った。
「もちろん、きみたち子羊達に、協力するためだ。あいにく僕は、さきほどの千夜の蘇生と、明くんに一時的に寄生した鵺の浄化で、現存する力を使い果たしてしまったが、知識と知恵なら、あまりある」
「花蓮さまから力をたまわった花守の首領として、また、花蓮さまによって造られた土人形、“新芽”の末裔として、きみたちに大いなる叡智を与えよう。まずはさっそく、お待ちかねの母上<ミランダ>のもとへ向かおうか」
「――向かう、って……」
あの女と対峙するのは、腰が引けた。
あたしは、チカの実母、千冬を名乗るあの女の罠にはまって、一度死んだ。
今、こうして、ありありと、自らのバカさ、愚かさに、気づかされる。
――母なる女神? ……太母? ――どこがだよ。
あたしはどう考えても、ただのガキだった。
無知で、無能で、盲目な、<愚者>。それが、あたしの本質に違いなかった。
「僕は、あの女性の弱点を知っている。居場所はにおいでわかる。正確にはあのひとの放つ、魔の波動だね。それをたどれば、追跡は可能だ。きみたちは、僕に黙って、着いてきてくれるだけで充分だ」
「――気に食わねえな。オレは、お前のことを信用できねえ。千夜を助けた礼は言うが、それまでだ。てめえが千夜の脅威になる、と判断した時点で、てめえを排除する」
チカのとげとげしい口調に、雷門も厳しい表情で、こくりとうなずいた。
「……いいよ。僕としても、そのほうが気楽だ。――さあ、行こうか。あの美しい魔女さまが、僕達を待っている」
あたし達は、こうして、決戦の地へ向かった。
次々と明らかになる真実は、真っ赤な禁断の果実。罪と罪を重ねて、あたし達は、死化粧をまとう。
――いずれ、滅びるさだめの、真夜中の子ども達。……それでも、もう、後には引けやしないのだ。
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Lotus ~ロータス~
「スイレン」「蓮」
<ギリシャ神話> 「ロートス,ロートスの実」
(その実を食べると浮世の苦しみを忘れ、
楽しい夢を結ぶと考えられた想像上の植物)
Goddess ~ガッデス~
「女神」
Bloody ~ブラッディ~
「血の」「血を含む」「血のような」
「血の色の」「血によごれた」「血まみれの」
「血なまぐさい」「殺伐な,残虐な,むごたらしい」
Drops ~ドロップス~
「涙(複数形)」
“Lotus Goddess Bloody Drops”
~ロータス・ガッデス・ブラッディ・ドロップス~
「蓮の女神(花蓮)の血まみれの涙たち」




