第23話 ‐陶酔の味- ~テイスティング・サイレント・コープス~ 【後編】
「――よかった。どうやら、間に合ったようだね」
目の前に立っていたのは、におい立つほど美しい、若い娘だった。年は、二十代前半ぐらいだろう。
長くなめらかで、まっすぐな黒髪を腰の手前まで垂らした、静謐で、声の通りに凛とした、涼しげな美貌の女だった。
「……千夜。きみはとても、素晴らしい行いをした」
女はそう言って、こちらに向かって静かに歩みを進め、もう動かない千夜の頬を愛おしげになでた。
「……お前、誰だ。――千夜に触るんじゃねえ」
オレの激しい憎悪のまなざしにも臆さず、女は、すっきりと甘く微笑んだ。
「久しぶりだね、チカ。――僕のことを、覚えている?」
自分を「僕」と呼ぶ、奇妙な女の異常なほどの落ち着きっぷりと、その不審な言動に、わずかな恐怖と激しいいらだちを覚えた。
「――お前、何者だ」
はっきりと敵意を混ぜた、オレのドスの効いた声を柔らかく受け止めると、女は歌うように言った。
「……僕はリンドウ。花蓮宗が、花守、古城凛灯だ。海外では、<リンドウ・エデン>と名乗らせてもらっている。――ようするに、通りすがりの迷子の子羊さ」
「……リンドウ……?」
なぜか、その名に聞き覚えがあった。その時、乙女が、嬉しそうに声を上げた。
「――リン姉!! 助けに来てくれたんだな!!」
「ああ。摩耶。僕が来れば、もう安心だ。ここからは、僕にすべて任せてほしい」
乙女を聞きなれない名で呼んだ女――“リンドウ”は、にこりと微笑むと、茫然自失の状態で顔を覆い、なにかぶつぶつと呟いている進藤の前に立った。
「さあて。まずは、お仕置きかな。……明くん。きみは、実の娘さんになんてことをするのかな? ――ちょっと、痛い目をみてもらわないとね」
そう言って、胸から、なにか棒状のものを引き抜いた。
それは、薔薇色に染まった純金とおぼしき、世にも美しいサーベルだった。
そんな得体のしれない凶器を胸から抜き取ると、リンドウはまっすぐに構えた。
「行くよ」
そして、目にもとまらない動きで進藤に躍りかかり、一瞬で切り伏せた。
「――……っ!」
息を飲んだオレがみたのは、まっぷたつにされた進藤の躰に、大輪の蓮の花が咲く光景だった。
信じられない事態に茫然としていると、進藤の体がぶれ、まるで出来のいい手品か何かのように、そのむごたらしい断面同士が音もなくくっついた。
まもなく、蓮の花はしおれ、はらり、と可憐に舞い散った。
「――ドクター……」
乙女が、倒れこんだ進藤に駆け寄って、悲しそうな顔をした。
「死んでないよ。ただ、取りついた悪霊――……ああ、鵺と言ったかな。それを、祓っただけだ。小一時間もすれば、無事、目を覚ますだろう」
そう言って、リンドウは、鮮血に濡れそぼった、薔薇色のサーベルを、再び自らの胸にしまった。
「さあ、次は、愛しいプリンセスからだ。……チカ、ちょっと失礼するよ」
リンドウは、呆けたオレの腕から千夜を優しくひったくると、その柔らかな唇に、自らのそれを押し付けた。
ぽうっ、と淡く輝く純白の光の玉が、リンドウと千夜を包み、周囲の温度がわずかに上昇した。
春の日差しのなかのような、柔いぬくもりに包まれ、オレは、その時を待った。
やがて、千夜の胸に、小さな蓮の花が咲いた。
淡いピンク色のそれは、ぱちん、とはじけるような音を立てて咲き誇り、しゃらり、と静かに舞い散った。
「――ん……」
千夜のまぶたが動き、その胸がかすかに上下した。
「――千夜!!」
オレは、リンドウから千夜をひったくると、その胸に、耳を押し当てた。とくん、とくん、と奏でられる、規則正しい、生命の音。
間違いない、千夜は生きている。いや、リンドウの力によって、生き返ったのだ!!
オレは、今度こそ泣いた。
涙をこぼし、しゃくりあげるオレを、まぶたを開けた千夜が、不思議そうにみている。
「……チカ……お前……、泣いてるのか……?」
言って、オレの頬に手をのばし、その雫を優しくぬぐった。
「……ふふ、チカ、大好きだぜ……」
歌うように言って、千夜は、オレをふんわりと抱きしめた。
とくん、とくん、と心臓の音がする。
それは、千夜のものか、オレ自身のものか。
ふたつの鼓動と熱が、混ざり合い、オレは、ほの甘い陶酔に酔いしれた。
……ああ、もうなにもかも、どうなったっていい。
――オレは、こいつのために、なんだってしよう。
コホン、という咳払いと共に、気まずそうな表情を浮かべた、リンドウが、こちらに語りかけた。
「――もういいかな。待ちくたびれてしまったよ」
言って、目線を落ち着かなそうにさまよわせると、オレをぎゅうっ、と抱きしめたままの千夜を向いて、そっと笑いかけた。
「……千夜。また会えたね。ずっときみを待っていた。僕は、きみの第一騎士、リンドウだ。きみはもう、僕のことなんてもう、忘れてしまったかな」
言って、千夜に向かって、その手を差し伸べた。
ぼうっとしながら、手を伸ばした千夜の、手の甲にそっと口づけると、リンドウは甘い声で囁いた。
「――ライラ。……僕達の女王。僕らの命は、すべてきみのもとに。さあ、行こうか。あの人が僕らを待っている」
リンドウの声に、千夜はまばたきをして、やっと焦点を合わせた。
「お前は……、いや、あたしは……?」
「すべての因果を孕む、〈真夜中の聖母‐ライラ‐〉。〈忘却をつかさどりし娘‐レテ‐〉。〈‐聖なる織姫‐の竪琴〉。〈別れの音色の‐エウリディケ‐〉。〈運命の糸を織りし女神‐ウルド‐〉。〈真夏の鷲‐オリオン‐を撃ち墜とす乙女‐アルテミシア‐〉。〈禍‐エリス‐を塗り替える絵師‐ミューズ‐〉。〈彼の名は悪‐エリス‐ではない〉……――つまりは、きみこそが、僕の、僕達の女王というわけなんだ」
「……意味わかんねえ」
千夜は、まぶたをこすりながら、リンドウの謎の発言をばっさりと切り捨てた。
「そうだろうね。きみはまだ、何も知らなくていい。――今はまだ、ね」
そう意味深に微笑んで、リンドウは、ぱんぱん、と手を打った。
「さあ、隠れてないで、出ておいでよ、命。――そこにいるんだろう?」
「……ちっ……うるさい女は嫌いだ」
命が柱の陰から、しぶしぶ、と言ったていで出てきた。
「久方ぶり。元気だったかい?」
「すごぶる元気だね。君を喰い殺したいぐらいには」
リンドウの軽やかな微笑みに、命は憎悪と嫌悪の中間のような顔で返した。
「――あは。きみは変わらないね」
明確な殺意のこもった言葉を、やはり物ともせず、リンドウはけらけらと笑った。
「今から、殴り込みに行く予定なんだ。……きみも来るかい?」
リンドウが、面白がるような輝きを宿した、澄みきった黒い瞳で言った。
「遠慮しておくよ。君と同じ空気を吸いたくない」
「――嫌われたものだね。僕はきみのことを、こんなに好きなのに」
命の態度は、徹底して嫌そうな拒絶だった。対するリンドウは、余裕綽々(よゆうしゃくしゃく)といった風に、すこぶる軽やかだ。
「ずいぶん、重みのない言葉だよね。君、それ全員に言ってるでしょ」
「そうでもないよ。僕が、こよなく愛しているのは、いつだってきみだけなんだ」
とっておきの冗談を言うように、リンドウは、ふんわり、と爽やかに微笑んだ。
「……ちっ、これだから年増女は。僕はここで、お暇するよ」
不機嫌そうに、再び舌打ちした命は、振り返って、あたしをみつめた。
「…………」
「…………?」
無言だったが、その顔は、まるで泣き出す寸前のようにもみえた。
「――じゃあね、千夜。今度、そのケダモノに襲われたら言ってね」
後ろを向いて、ひらひら、と手をふった命は、いつもの人を食ったような、意地の悪い命だった。
「……あいつ」
実は、あたしを心配してくれたのか。思わず、そんな世迷いごとが浮かんで、首をふった。
(……まさか、な)
今、再び、定められた夜がやってこようとしていた。
幕は上がった。
――さあ、失われた未来を、取り戻せ。
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Tasting ~テイスティング~
「味覚、味」
Silent ~サイレント~
「静かな、無言の」
Corpse ~コープス~
「屍、死体」
“Tasting Silent Corpse”
~テイスティング・サイレント・コープス~
「無言の屍の味わい」=「物言わぬ屍体の味わい」




