-Ⅳ.“裏切り”<the Sin>-
チカがいなくなって、一ヶ月が過ぎた。
あたしは、色の抜け落ちたような日々を、ただなんということもなく過ごした。
手を抜くまでもなく成績は落ち、授業中は窓の外をみながら、ぼーっとするか、寝るかサボるかの三択になった。
……最初は心配した。
チカは死んだんじゃないか。施設の奴らに何かされたんじゃないか。
でも、時がたつにつれ、はっきりとわかった。あいつは、あたしに飽きたんだ。
面白みもなければ、可愛げもないあたしと、つるむのがダルくなったんだ。
もともと暗黒仮面とか、痛い事を言っちゃう、ガキみたいなやつだ。
あたしとダチになったのも、きっとその場のノリみたいなやつで、たいした意味なんてなかったに違いない。
そうだ。きっと、そうだ。あいつは死んでなんかいない。
施設なんか敵じゃない。きっともう、そんな有象無象、全員倒してる。
世界との戦いは終わり。
だから、あたしのことなんか、もう、どうでもいいんだ。
(……アホらし)
こんなふうに、あいつのことばかり考えてしまう、あたしが。
こんなふうに、あいつのことばかり、思い出してしまう自分が。
白い歯をむきだして笑う、雲一つない晴天のような笑顔。
おどける時、ひらりと踊る片足。
子どものように、あたたかい手。
ダサいネーミングと、痛いポーズの、暗黒仮面ごっこ。
……すべてが白昼夢みたいな、曖昧な幻になってゆくようで。
(……クソッ)
拳を握る。ちゃっちいつくりのシャーペンがきしむ。
いっそ折ってしまおうかと思って、やめた。
八つ当たりしたって、チカは帰ってこない。すべては、もう終わったことだ。
ふと思いたって、ババアのいる駄菓子屋に足を向けた。
「……なんだお前、やつれてないかい」
ババアは、あたしを見るなり、しかめっ面で言った。
「どうせろくなモン食べてないんだろう。これだから今時のガキは。ほれ、余り物だから、あんたが処理しな。あたしの手作りだからって、残すんじゃないよ。しっかり食って、ブタみたいに肥えるんだね」
そう言って、大量の煮物とご飯と、チョコミントを押し付けられた。
ババア、余計な世話焼きやがって。
公園で、もそもそ、とそれらを食べた。
「まずい」
まずすぎて、ぜんぶ食べてしまった。かけらも残さず、綺麗に完食した。
ご丁寧に、割り箸つきだった。ババアの煮物は、しょっぱくて懐かしい味がした。
(……ママ)
ママがいなくなったあの日、あたしは世界から、取り残された気がした。
世界があたしを笑い、逃げてゆく。
オヤジの酒癖は更にひどくなり、あたしはろくに家に帰らず、友達の家を渡り歩いた。
幸い、あたしの周りのやつはみんな、あたしと類友だった。
万引きがやめられないやつ、彼氏を作っては捨てているやつ。
あいつらはクソオヤジのことも、けらけらと笑って、あたしの代わりに悪口を言ってくれたし、快く家に泊めてくれた。
そう、本当は、みんな、そんな悪いやつじゃない。
――でも、あたしは怖かった。
もし、ママのように見捨てられたら?
もし、あたしに愛想が尽きたと、離れていったら?
徐々に、にぶい恐怖に浸され、気がつけば、作り笑顔で、虚勢をはるようになった。
人に合わせることを覚えた。心と体が別々になったような感じだった。泣くこともしなくなった。
泣いたって、何も変わらない。
家族のいるあいつらに、捨てられたことのないあいつらに、あたしの気持ちはわからない。
あたしの心は、だんだんと冷めていった。
仲良しごっこの裏で、乾いて、固く閉じていった。
そんなとき、あいつが現れた。
『――暗黒仮面参上。』
……最高に痛くて。
『……クックックッ……暗黒微笑』
……最高に意味不明で。
『当たり前だろ!!』
……無駄に、自信満々で。
『お前じゃなきゃやだ』
……ワガママで。
『――お前がどれだけ人に嫌われても、オレがお前を好きでいるから!』
――まばゆくて。
あの日、あいつに出会った瞬間から、世界が、違う色に染まったみたいだった。
晴天のブルーをとかしたような、きらきらとしたものが、あいつの体からあふれていた。
あたしが夜なら、あいつは昼。
真昼の少女。太陽の化身。
バカバカしいけど、本当に、それぐらいやばいやつだった。
すごいと思った。
あれだけ高らかに自分を解放しているあいつが、いわくつきの施設の人間だなんて思えなかった。
でも、あいつはこうも言っていた。
『とにかく、戦友<ダチ>になって一緒に戦おうぜ』
『……何とだよ』とあたしは返した。
『……――世界と!!』
その広げた両手は、まるで、自由の翼だった。
あいつにもきっと、辛くてたまらないことは、たくさんあったんだろう。
――敵がいて。かなわないものがある。
それでも、だからこそ、あいつは挑戦しつづけていた。
自分の可能性に、賭けていて。その両翼で、翔かけていた。
大空を。この狭くてクソったれな世界を。
縦横無尽に。それこそ、物語のヒーローのように。
――そう、天下無敵の、<暗黒の勇者>に。
なりきっていたし、なろうとしていた。
その姿に、あたしは惚れた。
こんな人間がいるなんて、信じられなかった。
――疑いもした。
けれど、そのたびにあいつは、そのちゃっちい疑念を、たやすく討ち滅ぼした。
予想は裏切るくせに、期待に応え続けた。
まるで、悪と、世界と戦うヒーローみたいに、愛と勇気と、希望をまき散らした。
あたしの世界を、青空色に染めた。
――そして、突然いなくなった。
あたしはバカで、予想もしていなかった。
その時はもう、あいつがいる毎日が、当たり前になっていたから。
あの日、夜の防波堤で、家に帰りたくないあたしは、くだらない愚痴をぶちまけた。どうしようもない弱音を、吐いた。
あの時の記憶を、そっと辿る。
まだ語っていない、最後の1ピースが、そこにある。
「あたしが、あたしが嫌いだ」
あたしは、とうとう、その一言を口にした。
それは、今まで、誰にも言ったことのないセリフだった。
ひた隠しにしていた弱さで、まぎれもない本心だった。
「もう、家に帰りたくない」とも、あたしは言った。
本当は、もう後戻りできないほど、追いつめられていた。
——なぜなら、その日は、「ママがあたしを捨てた日」だったから。
「ふーん」
やつはそれだけ言うと、足をぶらぶらさせたまま、しばらく夜空を眺めていた。
そして、一辺を指さした。
「チャチャ子」
それは、あたしのあだ名だった。
チカしか呼ばない、ふざけた呼び名。
「――なに」
「流れ星」
あたしは、俯いていた顔をあげた。
ひとしずくのかけらが、夜空を走っていた。
きらり、とちいさな光を撒まき散らし、それは、すっ、と消えていった。
「――な!」
チカはこっちを向いて、はにかんだ。
「…………?」
なにが、「な!」なのか、なにに同意を求めているのか、ぜんぜんわからなくて、あたしが聞き返すと、チカは、立ち上がった。
そうして、くるり、とあたしに向き直った。
「――お前がどれだけ人に嫌われても、オレがお前を好きでいるから!」
広げた両手が、歯をむきだした笑顔が、眩しくて、眩しすぎて。
あたしは、思わず、まるで駄々(だだ)をこねるガキみたいに、繰り返した。
「……あたしが、あたしを嫌いでも?」
「当たり前だろ!!」
その言葉が引き金となったように、降り注いだ流星群は、小ぶりになり、チカは、何かを言った。
その言葉は、低く、聞き取れなかった。
今では、その言葉こそが、チカがいなくなった理由の鍵なんだと思う。
チカは、ろくに家に帰ろうとしないあたしを思って、あたしを慰めてくれた。
クソみたいな親父でも、あたしには実の家族がいて、チカにはいない。
それを妬むでも、うらやむでもなく、チカは、ただ、「逃げるな」と言った。
もし、現実に耐えきれなくなったら、自分がまた、迎えに行くから、と。
夜を引き裂く流星……きらきらとして、チカチカとしたそれは、その名の通り、あいつの象徴だった。
そう、だから、だとしか思えない。
あいつは、あたしを家に帰すためだけに、あれほど嫌だと言って散々逃げ回っていた、施設に帰ったんだ。
流星群をみた帰り道に、チカはこう言った。
“――それじゃあ、戦ってくるわ”
“……何とだよ”
“――決まってるだろ”
チカは、あたしの頭を、くしゃり、となでると、もう1度だけ、抱きしめた。
“…………?”
不思議そうにチカをみあげたあたしをみつめると、チカは、「もう逃げんなよ」と微笑った。
……そうして、鼻歌を歌いながら、最後にひとことだけ言って、夜道に消えた。
それは確かに、約束だった。
はっきりと口にしなくても、いや、軽々しく口にしないからこそ、固く、大事な約束だった。
『――帰るぞ、暴走娘』
その言葉だけが、今も頭にこびりついて、離れない。
チカは、いったいどこに行ったのか? 施設とは、どんなところなのか?
すべてが、謎で埋うめ尽つくされている。まるで、この世界みたいに。
あたしは、そっと涙をぬぐった。
「……ふっ……」
あたしは、また取り残されたんだ。
いつだって、あたしはひとりになる。
ママがいなくなったように。世界はあたしに背を向ける。
――何度だって、裏切る。
『一緒に戦おうぜ』
——嘘。
『お前じゃなきゃやだ』
——……嘘。
『間違えた。お前じゃなきゃダメなんだ』
——嘘じゃねえか。
『“お前がどれだけ人に嫌われても、オレがお前をすきでいるから!”』
「~裏切ってんじゃねえよ、バカ……ッッ!!」
あたしは、泣いた。
公園のベンチで、ボロボロ泣いた。
ぬぐっても、ぬぐっても、涙が後から後から溢れてきて、悔しくて、さらに泣いた。
地面が濡ぬれて、スカートがびしょびしょになる頃、背後から、その声が、降り注いだ。
「なに泣いてんだよ」




