第12話 ‐堕落‐ ~ポイズン・ミストレス・アンダー・ザ・ケージ~ 【後編】
「――そこまでだよ、魔女」
そういって、現れたのは、亜麻色の髪を揺らした、小柄な体躯のガキだった。
「あらあら。ひ弱な小童が、なんのご用ですの? あたくしは、あなたなぞ、所望していないというのに」
「君が望んでいなくても、僕が望んでいるんだよ、“ミランダ”。そのひとを離してもらおうか」
千冬を見知らぬ名前で呼んだ、まだ小学生と思しき幼気なクソガキは、黄緑色のパーカーを脱ぎ捨てた。
びゅう、と、蜜色の風が吹く。
現れたのは、純白の袈裟に覆われた、僧服に身を包んだ、目もくらむような、美しい少年だった。
少年は、聡明そうな瞳を、余裕たっぷりに緩めると、シャン、と鈴と輪のついた、金属製の杖のようなものを鳴らした。
「まあ。怖いですわね。この娘は、あなたのなんだというのです? 人の御子には、なんの関係もないはず」
「――ああ。その人は、“未来の僕の愛しい人”だよ。だから、“僕の妻“を離してもらおうか」
「あらあら……」
魔女はくすくすと微笑んだ。
「やってごらんなさい。やれるものなら、ね」
魔女が放ったのは、銀色の矢だった。
千本もの矢が、少年の小さな体に降り注ぐ。
「“呪々解戒”」
その瞬間、少年の黒い瞳孔がぱくり、と開き、そのちいさな全身を庇うように、人間の頭ほどもある、黒色の丸い物体が、無数に現れた。
あれは……数珠?
その数珠が目にもとまらぬ早さで蠢き、千本の矢を、もれなく砕き割った。
――しゃらしゃら、しゃらり。
粉々になって、ふりそそぐ銀粉をもろともせず、少年は再び瞳孔を開いた。
「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前……、――“永遠因果”」
そう呟きながら、さらに、指先を素早く組み、なにか形を描くように、結びあわせた。
「立法・如律令、――壱ノ段……“朔夜”」
その瞬間、辺りが一瞬で、暗くなった。
いや、暗いなんてもんじゃない。
――まるで、月のない暗黒!
次の瞬間、少年の姿がまばゆく輝きだし、はじめて、物がまともに見えるようになった。
「……弐ノ段、“明星”」
その静謐な声とともに、少年の体からは、禍々(まがまが)しくも、神々(こうごう)しくもみえる、朱金色の塊が飛び出してきた。
それは真ん丸で、まばゆく輝いており、鱗粉にも、太陽のコロナのようにもみえる光を撒くと、急激に膨張しながら、魔女へと向かっていった。
「鬼魔駆逐……――急々如律令!!」
「あらあら……」
少年の凛とした叫びに、魔女は笑って、それを受け止めた。
その瞬間、ぱちん!と、シャボン玉がはじけるようなあっけない音がし、魔女の体がはじけた。
「……ふう。どうやら、まんまと逃げられちゃったようだね」
少年は、さして、気落ちした風でもないように、やれやれとため息をつくと、こちらに歩み寄った。
「――君がチカ?」
少年の、可愛らしい顔に似合わない、値踏みするような、獲物を前に舌なめずりするような、不気味な笑みを迎え撃ち、オレは千夜を抱き締める腕に力を込めた。
「……てめえこそ誰だよ」
オレのドスの聞いた声を受けとめ、少年は凄惨に笑った。
「ふふ。やだなあ。僕のこと、忘れちゃったの?」
「なんのことだ。オレとお前は、初対面のはずだ、ガキ」
「あっはは。そこまで警戒されると、逆に可愛いよね。うっかりいじめて……殺してしまいたくなる」
「てめえ……」
明確な侮辱に、殺気をほとばしらせたオレの唇に、少年はぷに、と指を押し当てた。
「命、だよ。僕の名前は、天津命朔夜。今度は忘れないでね、チカ」
少年は、嫣然と笑むと、くるり、とその場でターンした。
「今日のところはお暇するよ。思わぬ収穫もあったしね」
“――じゃあね、チカ。”
少年はスキップでもするかのような軽い足取りで、その場から立ち去ろうとした。
「……待てよ」
「――なあに?」
少年が、無邪気な笑顔で振りかえる。
「――お前にも、<記憶>があるのか」
「まあね」
「……オレには、お前の記憶だけがない。それは何故だ」
「――さあね?」
少年は、タチの悪い悪戯を企む、悪ガキのような悪人面で、にたり、と笑んだ。
「でも、ヒントぐらいあげてもいいかな。僕は世界の理から外れた者にして、この世界をいずれ掌握する者。そして、君の愛しい彼女の夫となるものだ」
「――覚えていてね、チカ。君らが僕の奴隷であり、家畜であることを」
“――じゃあね! ディア・プシーキャット!”
少年は嬉しそうに笑うと、ひらひら、と手を降り、今度こそ走り去った。
オレは、抑えがたい怒りを、腹のなかに溜めながら、茫然とその姿を見送った。
「――命。天津命朔夜……」
心の片隅に、その名を刻む。
千夜を助けたことを、感謝すべきなのだろうが、この腹の中の、ドス黒い怪物までは騙せない。
あいつは敵だ、と本能が告げていた。
油断したら、大切なモノを根こそぎ持っていかれ、穢される。
オレはただ、千夜をきつく抱き締めることしかできなかった。
やがて双子坂が追い付き、オレは、千夜を託すなり、その場を去った。
一人になりたかった。
この、無力で惨めな姿を、もう、誰にもさらしたくなかった。
朝はやがて昼へと化け、やがては傾き、まばゆい太陽は死んでいく。
どれだけ血に塗れても、どれだけの罪に手を染めても。
守りたいモノが、あるはずだった。
けれどオレがしたことは、その宝を傷つけ、汚し、裏切ることだけ。
じゃあオレは、一体何のために、ここにいる?
「……くそっ……」
壁にこぶしを叩きつけ、その時はじめて、進藤の眼鏡を叩き割った傷が、まだ癒えていないことに気づいた。
――ああ。いっそ、壊してくれ。こんなオレを、誰か、裁いてくれ。
……千夜。願うなら、オレは、お前の手で……。




