第11話 ‐堕落‐ ~ポイズン・ミストレス・アンダー・ザ・ケージ~【前編】
あたしは、公園のブランコをこいでいた。
頭は空っぽで、もう何も考えたくなかった。
やがて、時は訪れた。
焦ったような足音と共に、目の前に現れた、「この世で一番見たくないモノ」の瞳を、あたしは無言で見返した。
「――千夜」
それは、必死の表情で、唇を噛みしめていた。
しかし、そんなことはもう、どうでもよかった。
「……誰だ、お前」
冷たく、がらんどうな瞳で言い放ったあたしに、「チカ」は、ショックを受けたように青ざめたが、すぐに気を取り直し、拳を握って、こう言い放った。
「――進藤が、消えた。今、双子坂と、雷門に追わせてる。お前も来い。ここはもう、安全地帯じゃねえ」
「……知らない」
端的に拒絶すると、あたしは無言でブランコを再び、こぎはじめた。
「……千夜」
「――知ったことか。進藤も、お前も、もうあたしなんてどうでもいいんだろ? だからあんな風に傷つけて、ズタズタにして。それならもう、あたしは、誰のことも信じない」
「……千夜!!」
「ほっとけよ!! もう、あたしなんて……、――この世から消えればいいんだ!!」
(――夏にとけていった、あたしのママみたいに!!)
そう怒鳴った瞬間、ぱあん、と軽快な音が鳴った。
気が付くと、チカに頬を張られていた。
「……てめえ」
じんじんと熱くなる頬に手を当て、涙をにじませ、やつをにらんだが、チカはひるまなかった。
「……そんなこと言うな。――二度と言うんじゃねえ……」
言って、チカはうなだれた。
殴られたあたしより、さらに傷ついた顔で、チカは震えていた。
そして、ブランコに乗ったまま制止しているあたしを再び、抱きしめた。
「頼むから、もう二度と、オレから離れないでくれ……」
ぎゅう、と抱きしめるその体は、いつものあたたかさが嘘のように、冷えていた。
その姿は、まるで、裏切られたショックで打ちひしがれたあたしより、よっぽど、ズタズタにされたみたいだった。
「……チカ」
「――よかった」
“――やっと名前を呼んでくれた……”
思わず名を呼ぶと、チカはそう言って、ほっとしたような、泣き笑いの顔で、抱きしめた体を離した。
そして、再び、チカの端正な顔が近づく。
鼻と鼻がぶつかりあい、距離がゼロになる……。
……前に、それは起きた。
「――あらあら。邪魔しちゃったかしら?」
気が付くと、目の前に、艶めかしい笑顔を浮かべた、女が浮かんでいた。
らせん状のパーマのかかった、赤みがかったグラマラスな茶髪。
グレーのアイシャドウで彩られた、狐のような切れ長の瞳、右目のなきぼくろ。
Fカップ以上ありそうな、豊満な胸を包むのは、大きく襟ぐりの空いた、血のように赤いワンピースだった。
「千冬……」
チカが、茫然と、呟いた。
「あらまあ。あたくしのことを、ママとは呼んでくれないのね? ――千夏」
「――ママ?」
あたしは、聞き返す。
何故だか背筋が冷え、冷たい汗が流れ落ちた。
「そうよ。あたくしは、その子の実の母。千春はもう死んだから、その子のたったひとりのママよ」
女は、スリムながらも妖艶な体をくねらせると、チカの掌を取った。
――千春?
もしかして、リッパーに殺されて死んだ、チカの育ての母っていうのが、千春なのか?
「会いたかったわ……千夏。あたくしの、たったひとつの、宝石」
「……ち、ふゆ……」
「……チカ?」
不審に思って、名を呼んだ。
だが、チカはその声が聞こえていないように、ふらふらと、その女……千冬にすり寄った。
「あらあら。いい子ね……千夏。さあ、行きましょうか。――帰りましょう? あたくし達の家へ」
「……待てよ!!」
あたしは、叫んだ。
「そいつを、どこへ連れて行くつもりだ! 大体だいたい、お前は本当にチカの親なのかよ!」
「そうですとも。それとも、この子が、あたくしを見違えるとでも?」
くっ、と言葉に詰まったが、チカが一言も発しないまま女に抱かれ、身じろぎ一つもしないまま、がらんどうの瞳で、こちらをみつめていることに気づき、ぞくり、とした。
「待てよ。なんか、おかしいだろ。チカ。お前もお前だ。なんで、なにも言わねえんだよ。お前はそんなに、おとなしいやつじゃねえだろ」
「…………」
チカは、相変わらず、焦点の合わない瞳で、こちらをみつめている。
「――こっちをみろよ! チカ!! あたしはここだ!!」
両手を広げ、呼びかけたが、返ってきたのは、空っぽな沈黙だけだった。
「……チカ!! ――ふざけてんじゃねえぞ!! お前が望むなら、何度だって呼んでやる!!」
「どこにも行かねえ!! 逃げねえ!! お前がどこかへ行こうとするなら、あたしから去ろうとするなら、どこまでも、どこまででも追いかけて、捕まえてやる!」
「――だから!!」
<< ――だからお願いだ、チカ――どこにも行くな!!―― >>
その時、チカの肩が、びくり、と揺れた。
「……ち……」
呼びかけたのは、千冬か、千夜か。
――その瞬間、女は、つぶやいた。
「つまらないわ」
「……え……」
その言葉に、隠しきれない怨嗟が混じっていたように思えて、あたしは、女をみつめかえした。
「……ぜんぜんつまらない。――千夜。あなたはやっぱり、邪魔だわ」
言って、女は赤いマニキュアの塗られた指を、つい、こちらに伸ばした。
「こうしてあげる」
その瞬間、あたしの中の、何かが波打った。
「……がは……っっ」
躰からだを襲ったのは、壮絶な痛みと吐き気だった。
腹の中の臓腑が、ぐちゃぐちゃにかき回される!
心臓が狂ったように、めちゃくちゃに叩きつぶされる――!!
――全身の血液という血液が、逆流し、暴れまわる……!!
「……~~っっ!!」
涙があふれ、喉に、ねばついたものが、せりあがってきた。
ややあって、口を押えた指の間から、ぽたぽたと、赤く生臭い液体が、溢れ出す。
「――あらあら。汚いわね。……千夏、こんな穢らわしい生き物に構わず、行きましょう?」
嗜虐的な笑みを浮かべ、女は、チカの肩を抱いた。
しかし、その手は次の瞬間、勢いよく振り払われた。
「――雷門!!」
チカの咆哮が轟き、女の前に、長身の男が立ちふさがった。
灰がかった金髪を揺らし、男は、その鍛えあげられた体を、惜し気げもなく、さらした。
『……チカ、いいんだな?』
「――ああ。“撃滅しろ”!!」
雷門の周囲に、竜巻と台風と嵐をミックスしたような、とんでもない暴風が吹き荒れた。
あたしは、すさまじい風に、吹き飛ばされないように耐えるのがやっとで、今、何が起こっているのか、把握できなかった。
襲い来る砂塵から目を庇い、無理やり目を開けると、大口を開けた獣のような形をした暴風が凝縮され、勢いよく、女に襲い掛かるところだった。
「――あらあら」
轟音のなかでも、その声だけは、嫌にくっきりと聞こえた。
次の瞬間、なにかが爆発したようなすさまじい音と衝撃が、鼓膜を襲った。
再び、目を開けた瞬間、驚愕した。
――雷門の姿が、どこにもない!
そこにいたのは、傷一つなく余裕の表情で立つ女と、唖然としたように、尻餅もちをつくチカだけだった。
「――雷門が……」
「……躾のなっていない、仔犬だこと。――ねえ、千夏、あなた、あたくしに牙をむいたわよね? これは、お仕置きが必要ではないかしら?」
真っ青な顔でチカは、なすすべもなく、女の瞳を見つめ返していた。
その華奢な体躯に、女の手が伸びる。
その視線に縫いとめられた、チカの瞳が、再び、「がらんどう」になってゆく。
「……チカ!!」
あたしは駆けだすと、女の腕にすがりついた。
「――やめろ!!」
「あらあら。……邪魔よ、あなた」
ふんわりと笑んだあと、その顔は、般若のような、凄まじい形相へと化した。
「……く……っ」
首が、ぎりぎりと絞められる。
長くとがった爪が食い込み、喉に、幾重もの赤い血液がしたたる。
……痛い!! 息が、できない!
もがき、女の手に爪を立てようとしたが、万力のようにきつく締めあげられ、意識が遠のいていく。
「……や……めろ……」
それでも、舌を強く噛み、両手を女の手にかけ、なんとか引きはがそうと、あたしは必死であがいた。
「――やあよ。」
女の笑みが深くなる。
そのまま、意識が、どんどん、遠のいていく。
<< ……チカ……!! >>
最後に、まぶたの裏に浮かんだのは、あのまばゆい笑顔と、ひらりと踊る手足だった――……。
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『――なあ、千夜。約束しようぜ』
『……約束? なんだそれ』
『ああ。病める時も、健やかなる時も、死神がオレ達を引き裂いても。――オレ達はずっと……』
『なんだよそれ。プロポーズかよ?』
『――ああ。千夜。オレと結婚しよう』
『……ハァ?!!』
『うそうそ。冗談だって。あっ、いてえ! 殴ることねえだろ!!』
『うるさい!! 死ね!! てめえなんて、地獄に堕ちろ!!!』
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オレは、懐かしい声に、目を覚ました。
ぼんやりとした頭であたりを見わたし、ショックで息を止めた。
――千夜が、千冬に、首をしめられている!!
ぐったり、とその体が弛緩するその直前、場違いな、あまりにも場違いすぎる声<ボーイソプラノ>が降ってきた。
「――そこまでだよ、魔女」




