-Ⅲ.“チカのいた夏”<Lost Summer>‐
ひとつ、気になっていることがあった。
チカと出会って約2週間がたったころ、あたしは直接聞いてみた。
公園はあいかわらず、チカとあたししかいない。
考えてみれば異常なのだが、この平和な蝉せみの音がする真昼の公園には、なにもきなくさいところがなかった。
……少なくとも、表面上は。
「施設って、どんなところなんだ?」
施設。それは、チカが所属している、養護施設のことだ。
常識的に考えて、かなりデリケートな話題だ。
でも、チカは自分が施設育ちだ、ということを隠そうとしなかったし、きっと精神的にタフか、めちゃくちゃ楽天的で、のんきなやつなんだろうと判断して、好奇心のまま聞いた。
「ん~……<牧場>?」
チカは顎に手を当て、軽く眉根を寄せながら、首をかしげた。
「なんだそれ」
「……お前の知らない世界」
チカは瞳を、きらり、と輝かせながら、もったいぶった口調と、悪戯いたずらっぽい笑顔で言った。
――牧場。子ども達を飼っている? 支配している?
「……なんかよくわかんねえけど、ろくな場所じゃなさそうだな」
ため息をつくと、チカは得意そうに言った。
「まあ、世の中には、知らないほうがいいこともあるんだ、って話だな」
「……ふうん。マンガだったら、特殊な能力があって、戦ったりするんだよな」
「――まあ、ぼちぼちな」
一瞬、チカの瞳がかげった。
「……あっそ」
何か隠してやがるな、と思ったが、言いたくないなら言わせなくてもいいよな、そこで話を打ち切った。
チカは、何か秘密を持っていて、それは誰にも知られたくないんだろうな、となんとなく思った。
——もっと知りたい。
でも、それはきっと、ずけずけ聞いちゃいけない、たぐいなんだろう。
……あたしが、 ママのことを「思い出したくない」ように。
その夜、あたしは公園に行った。
チカは「遅かったな」と言って、丸太からぴょん、と降りた。
「行こうぜ」
差し出された手のひらを、とってしまったのは、なんとなくだ。
チカの手のひらは、やたら、あたたかかった。
どこか懐かしくて、ぎゅっと握り返した。
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結末に至る分岐点ぶんきてんがあるとしたら、きっと、この日、この時だったんだろう。
あの流星が流れる、真夏の夜空、なぶるような、なまぬるい夜風が吹きすさぶ、防波堤。
この場所で、あのセリフを聞いた時、きっと、あたしの運命が、扉を叩いたんだ。
……本当は、ずっと、不安だった。
幼い記憶に残るママは、いつだって優しかった。
でも、そんなママは、ある日突然、いなくなった。
なんで? わたしはいい子だったよね?
イタズラも我慢したし、学校の勉強もがんばった。
なにが、いけなかったんだろう。もっといい成績を、とればよかった?
お手伝いも、もっとすればよかった?
そして、結論にたどり着いた。ママは、わたしを……あたしを、捨てたんだ。
ママがいなくなって、親父は酒におぼれた。当たり散らすこともあった。
あたしは、もう何にも、期待しなくなった。
退屈上等。ルールがなんだ。そんなの守ったところで、ママは帰ってこない。
家になんて、帰りたくない。あそこは、ママのにおいがする。
においなんてあるわけがないが、今でも、その面影おもかげが、香っている。
今は、タバコと酒のにおいだ。
それでも、家にいるとママを思い出した。
親父は、あたしをみると、嫌な顔をした。
――そう。あたしはもう、誰にも必要とされてないんだ……。
がらんどうな心で、星を見上げていると、チカの横顔が飛び込んできた。
静かな炎が揺れる瞳は、夜なのに、輝いていた。
……思わず、こうもらした。
「あたしは、あたしが嫌いだ」
「ふーん」
そして、チカは言った。
「お前がどれだけ人に嫌われても、オレがお前をすきでいるから!」
チカがそう言ったその時、とんでもないことが起こった。
夜空が、もう一度光った。
そして、たくさんの、星、星、星……。幾千いくせんもの流れ星が、夜空を埋め尽くしたのだ。
いや、あたしの目を奪ったのは、そんなモノじゃない。
流星群をバックにして、両手を広げたチカの、満面の笑み――。
――なんて顔を、するんだろう。それは、すべてを受け止め、笑い飛ばし、包み込む笑顔だった。
歯をむき出した、最強無敵の、<晴天の笑顔>……。
胸がかちん、と音をたてた。
止まっていた全身の血液が、流れ出す。
止まった時間が、<死んだ夏>が、今この瞬間、蘇ったみたいだった。
なんでだろう。なんで、こんな気持ちになるのか。
でも、この言葉を聞くために、あたしは生まれてきたような気がしたし、このセリフを、あたしは何度だって、思い出すだろう、と思った。
「――あたしが、あたしを嫌いでも?」
それでも、試すようにそう聞いたのは、怖かったからだ。
——本当に? 嘘じゃなく?
あたしは、揺れる瞳で、チカの瞳を見返した。
「……当たり前だろ!!」
チカはにかっ、と親指をつきだした。両手で作る、チカのサイン。
“オレはお前で、お前がオレだ!”のサイン。
チカの、<全力全開の愛の証>……。
「あっは。オメーなんで泣いてんだよ。しっかたねぇな~っ」
チカは、うつむいたあたしの頭を、うりうり、とした。
そうして、涙がぼろぼろとこぼれる、みっともないあたしの身体を、強く柔やわく抱きしめた。
チカの胸は、相変わらず貧乳で、全然ふにふにしていなかった。
だけど、あたしは、ふと、なんとなく、いなくなったママを思い出した。
似ても似つかない、ちっさい胸。
それでも、チカからは、あの甘くてしょっぱい、ママのにおいがした。
夜空に静けさが満ちるころ、チカはコンクリートに尻をつけ、夜空を見上げた。
「なあ、チャチャ子。楽しーな」とチカは豪快に笑った。
それは、あたしの名だった。
チカしか呼ばない、変なあだ名。
「……楽しくない。ふざけんなし」
あたしは隣でまぶたをこすりながら、もそもそ、とつぶやいた。
そのふざけた口調は、まるで泣いたあたしを、いたわるようだったから。
その優しさが気恥ずかしくて、またぼろぼろと、泣いてしまいそうで。
「楽しーよ。本当にな」
チカはそういって、空を見上げた。
「――暗くれーな……本当によ」
「……何? 」
あたしは聞き取れなくて、チカをみた。
秘密、とチカは言って、立ち上がった。
「――帰るぞ、暴走娘」
後ろ手を組みつつ、チカは振り向いた。
こちらへと半回転した足が、くるりと踊るようで、さらりとおどけるようで、あたしはそのしぐさに見惚れた。
あんたが言う? と返すと、チカは、「そうだ、このオレ様が命名する!!」といつもの<暗黒微笑のポーズ>を取った。
あたしは笑った。けらけらと笑った。
胸が、晴天の日に吹き抜ける風みたいにすいて、無性にチョコミントが食べたくなった。
あたし達は一緒の道を、仲良く、まっすぐ帰った。
あたしはクソオヤジの住む我が家へ、チカは施設へ。
そして、それが、チカをみた最後になった。
――あたしの夏に、もうチカはいない。
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いずれ、あたしは知る。
なんでチカが、あたしの前からいなくなったか、なんであたしに嘘をついて、だまして、めちゃくちゃにするのか。
それはすべて決まっていたことだ。
あたしがチカに惹かれるのも、チカがあたしを壊して、喰らおうとするのも。
<輝ける悪魔の愛し仔>
あるいは、<運命への反逆者>。
それでも、あたしはいつも、失ってから、すべてを知るのだ――。