第5話 -喪失の雨だれ- ~デッドワールド・レインワールド~
あれは、そう、最初の世界線での出来事だ。
親父は、正義感が強く、優しい男だった。
実の姉と交わって、オレを作った罪悪感からか、
望まれない子どもたちの暮らす、養護施設を作ったり、
オフはボランティア活動の傍ら、オレと遊んだり、
毎日、寝る暇もないほど、人に尽くしていた。
オレは、親父の手が、大好きだった。
オレの頭をなでる、すこし骨ばった大きな掌。
そのあたたたさは、オレのちいさな心臓を燃やす炎だった。
でも、一番好きだったのは、親父の胸。
広い胸だった。
すべてを包み込む、強い男の証だった。
……そう、過去形だ。
――親父は死んだ。
どこぞの馬の骨ともしれない、少女をかばって。
その頃、東京府では、謎の通り魔が出没していた。
犠牲者は、年端もいかない少年少女で。
彼女も、そうだった。
それは、通り魔をみるなり、悲鳴をあげた。
抵抗するが、頬にぴたり、とナイフを当てられ、
とうとう、身じろぎもできなくなった。
男は、その頬をなめた。
少女は震えた。
男は、少女をレイプするため、物陰に連れ込もうとした。
第二の男が現れたのは、その時だった。
変質者に躍り掛かり、背負い投げ、少女を逃がした。
だが、その一瞬の隙を、殺人鬼は逃さなかった。
――ぶすり。
肉をうがつ嫌な音が聞こえ、正義の味方は崩れ落ちた。
……親父は死んだ。
その、知らない少女をかばって。
親父のつくった養護施設には、
双子坂遠馬という孤児がいた。
天才的な頭脳ゆえ、誰からも不気味がられ、親から捨てられたやつだった。
オレは、やつと協力し、かき集めた通り魔のデータを横流しし、
親父を殺したやつを、死刑へと追い込んだ。
これで解決、ではなかった。
オレの怒りの矛先は、ついに、少女へと向かった。
お前さえいなければ。
オレは、変装をして、少女に近づき、
持ち前のひとなっつこい言動で、その心を、無理やりこじあけた。
少女が泣けば、慰め、心にもないことを言った。
なのに、いつからだろう。
あいつの笑顔を、求めている自分に気づいた。
もう泣かせたくないと思った。
いつからか、目的を忘れていた。
……認めたくなかった。
こんなやつを、好きになるわけなんてない。
だからオレは、決めた。
こいつを裏切り、めちゃくちゃにして、殺してやろうと。
それは、季節外れの梅雨が降りしきる夜だった。
オレはとうとう、秘密を打ち明けた。
それは瞳を丸くして、嘘だ、といった。
頑ななその態度に、オレは、それの手を取り、自分の胸に押し当てた。
「な?」
ホントだろ、とオレは笑った。
「ウソ……」
それは真っ赤になると、ばっと手を振り払い、
「――あたし……!!」
と叫んで、逃げるように駆けて行った。
オレは、その姿を、がらんどうの瞳でみつめていた。
もうすぐ終わる。――すべてが。
それが再び姿を現したのは、それからきっかり一週間後だった。
思いつめた表情で、それは、拳を開いたり、閉じたりしていた。
オレは、遠くて近い距離に、ただひたすら、その時を待った。
「好きだ――チカ」
はあはあ、とそれは肩で息をしながら、言った。
そして、耳まで真っ赤に染めて、俯いた。
オレは、足を進めた。
この距離が、ひどくもどかしくて、
ポケットに入れた「それ」を、握りなおした。
あいつは、もう目の前だ。
オレは、口を開いた。
「オレも、好きだ」
ばっと、顔をあげたお前の、信じられないという表情をみつめながら、
オレは、ポケットから手をだし、それにぶつかった。
「――ち、か……?」
――ごぼり。
それの唇から、赤い雫が溢れ出し、その表情が、絶望に染まっていった。
「……なん……、」
その続きは言わせなかった。
オレは、ぐい、と「ナイフ」に力をこめ、それの胸に、深く差し込んだ。
「――好きだったよ、千夜」
オレは、崩れ落ちる“千夜”を抱きしめながら、そうつぶやいた。
――雨が降っていた。
――――冷たい雨が。
千夜の体温が、ゆっくりと奪われていくのを、止めようとするかのように、
オレはずっと、千夜を抱きしめたまま、動かなかった。
そしてオレは、千夜の胸から抜いたナイフで自分を――。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「――あは。千夏。偉い子ね」
顔を覆ったオレに話しかけるものがいた。
「そうよ。あなたは、殺すの。千夜を。
あなたの憎む、化け物を! 何度も、何度だってね!!」
「違う」
オレは、引き絞るように言った。
「オレは、もう、繰り返さない。
二度と、あんな、あんな真似は――」
「でも、何度世界を巡っても、何度同じ時間を繰り返しても、
千夜はあなたの前で死んだでしょう?」
「――それは……!」
「もう、あなたにだってわかっているはずよ。
これ以上のやり直しは無意味。
何度、時を巻き戻そうと、
何度、世界を捻じ曲げようと、千夜は死ぬ!!
そう、不可能なのよ、“もう一度”なんて。
この世のすべては決まっていて、物語の結末なんて決まっていて、
ハッピーエンドなんて、永遠に来ない。
千夜は、何度だって、あなたを裏切る!!
そして、あなたは、そんな千夜を殺すのよ!
笑いながら、泣きながら、怒りながら、嘆きながらね!!」
「うるさい!!」
オレは、手に持ったナイフで、その女に踊りかかった。
「あら。あなたは、殺すのね? あたしを。
――あなたの、大事な、大事なママを」
「……くっ……」
ナイフを持つ手が震える。
足が、動かない。
冷たい汗が、頬を流れ落ちた。
「それでも……千夜だけは、けっして渡さない……!!」
オレは、歯を食いしばり、震える手と足に、力をこめた。
「“チカ”……」
暗黒に、光が射した。
そう思った時には、扉は開かれていた。
「……千夜……」
オレは、信じられない顔で、つぶやいた。
「……みつけた。――助けに来たぞ、チカ」
オレは、怯えたように、後ずさった。
掌から、カラン、とナイフが落ちる。
ちかちか、とちらつく光。
頭がくらくらと、酸欠を起こす。
「やめろ。チカ。そいつは、あんたのママをのっとった、ただの亡霊だ。
それでも、お前は、殺すな。
あんたのママを、その体を、傷つけるな」
千夜は、はあはあ、と肩で息をしながら、オレに近づいてくる。
その姿に、あの時の、あの光景がフラッシュバックし、
オレは、じくじくと痛む目を押さえた。
「――役者は揃ったわね」
千冬が、ぺろりと唇をなめ、叫んだ。
「……さあ、お殺しなさい、誓炎<チカ>!! その女を!
そして、また物語を繰り返すのよ!!」
「……いやだ」
オレは、割れそうに痛む頭を押さえ、抗った。
「殺しなさい? ねえチカ、そうすれば、楽になれるわよ」
「――いやだ!!」
――体内がぼこぼこと泡立つ!
――――血液が沸騰する!!
――――――心臓が脈打つ!
――ドス黒い怪物が、オレの腹を引き裂き、生まれ出てくる!!――
それでも、オレは、耐えた。
……殺さない。
もう、二度と、オレは千夜を、死なせない!!
「チカ……!!」
ああ。千夜が、駆け寄ってくる。
眉を寄せ、泣きそうな顔で。
やめろ。
「――千夜ぁあああああ!!」
オレは、体をかきむしり、吠えた。
「――チカ!!」
ああ。お前が、もう、こんな近くにいる。
オレを助けようと。
オレに、殺されようと。
オレに。
オレに。
オレに。
「うあぁぁァァああア゛!!」
オレは、手を伸ばした。
――千夜に!!
オレの愛する、殺したくてたまらない、
うまそうなにおいをした、千夜に!!
「ち……」
千夜は、オレの名前を呼ぼうとしたのだったか。
気が付くとオレは、千夜の衣服を切り裂いていた。
オレの爪は長く鋭く、その奥の肌をも切り裂いた。
「……ッッ……!?」
千夜が一歩引いてくれなかったら、
きっと、心臓ごと、抉り取っていただろう。
「……ち……や……」
オレは、自分のしたことが信じられず、
茫然と、自らの手をみつめた。
鋭い爪には、赤い赤い液体がしたたっていた。
オレは、なんてことを。
でも、この香り。
この色。
……なんて美しい。
――なんて、うまそうなんだ。
……もっと、みたい。
――すすりたい。
……――この液体を飲みほし、あの胸の奥に咲く、
真っ赤な果実に、かぶりつきたい。
「ちや……」
オレはゆらりと、千夜に一歩進み出た。
千夜の顔が、みたことのない感情で染まっていく。
……ああ。千夜。
――オレは、今すぐに、お前を、殺したい。
“DeadWorld,RainWorld”
~デッドワールド・レインワールド~
「死んだ世界、雨の世界」




