第8話 ‐夜の帝国‐ ~ミッドナイト・ネバーランド~
僕は、痛む体を起こした。
そして、目を見開いた。
そこには、美しい女が立っていた。
黒瑪瑙のように、しゃらり、と光を反射する、
腰まで届く黒髪。
たたえた微笑みは、幼な子を縊り殺す、
破滅の慈愛に満ちていた。
「りん……どう……」
僕は、目をこすった。
それは、まるでいつもの彼女とは違っていて。
リンドウが、近づく。
ひたひた、と、素足のまま。
リンドウは、ふわり、と僕を抱きしめた。
「みつけた。僕の命。もう、二度と離さないよ……」
言って、その柔らかな手を、するりと僕の首に回す。
「……ッ!!」
ぎりぎり、と首を締め上げられ、僕はうめいた。
足が浮き、呼吸ができなくなる。
(リンドウ……なんで……)
そこで、はた、と気づく。
リンドウの力の流れがおかしい。
急いで、彼女の手を通し、
高度精神体<スキュラ>を侵入<ハック>させて、
胎内を探索<サーチ>すると、
信じられないことに、聖なる力の源、純潔の結界が破られていた。
そういうことか、と僕は内心舌打ちした。
あのクソ魔女、リンドウの弱みにつけこんで、
聖処女の力を根こそぎ奪い、
その胎に、鵺<バケモノ>の仔を、
寄生させたのだ。
闇堕ち<メイク・タナトス>。
純粋な人の子の、心の闇を喰らい、
いずれ、鵺は、宿主の胎を食い破って出てくる。
僕は、あえぎながら、リンドウの頬に手を伸ばした。
やれるか。
いや、やるしかない。
僕は、最期の力を振り絞り、
リンドウの唇を奪った。
「…………ッ」
驚いたリンドウの拘束が、緩む。
合わせた唇から、その呪言を注ぎ込む。
<<律法如律令、伍の段>>
<< ……呪い返し――!! >>
ごほっ!!
僕は、咳き込み、血を吐いた。
離された手。
拘束を失った躰が、地面に叩きつけられる衝撃。
リンドウに宿った、鵺の呪いが逆流し、僕の体内をはい回る。
「命……?」
リンドウの瞳に、生気が戻り、慌てたように、僕を抱き上げた。
「命……命!! どうしたの!!」
どうしたもこうしたもないよ、と思ったが、
あいにく、暴れまわる鵺を、抑え込むのに必死で、
しゃべることも、ままならなかった。
「命……やだ、返事をして……!!」
リンドウの声が、かぼそくなり、僕を揺さぶる。
「やだ……いや……お願い……目を開けて……」
ぽつり、と僕の頬に、生温かいものが降ってきた。
ああ。やだな、君の涙なんて、みたくないんだけど。
薄れゆく意識で、僕は、一度だけ、薄眼を開けた。
リンドウは、顔を真っ赤にして、泣きじゃくっていた。
……あは。大の大人が、なんて顔してんの。
ちゃんとしなよ。
僕は、リンドウの頬をなぜた。
びくり、とリンドウが震える。
……可愛いね、リンドウ。
ねえ、僕は、君のことが……。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
((やれやれ、千夜の次はそなたか。
われらの心労を、よほど増やしたいとみえる))
『君は?』
僕は、問いかけた。
声の主は、におい立つほど、美しい男だった。
なんともいえない、色香をはなつ、魅惑的なたれ目。
女がほっておかないだろう、貴族らしからぬ、無駄な肉のない、
引き締まった、それでいて、鍛え上げられた胸板。
それらを引き立てる、一枚はおっただけの、薄絹の寝間着。
『われは、そなた、じゃ。日の昇るところの主よ。
そなたが、あまりにもはがいなく、乳臭いので、
このわれ、自らのおでましだ』
『その、上から目線の傲慢な物言い。
まさに僕だね、暁』
『ほう、自覚はあったのか』
暁はにやりと笑った。
『それで、僕本人がどうかした?
別に、助けてなんて、頼んでないけど』
『そう申すな。このたびは、そなたと、取引をしたく参った。
聞いてくれるな? われよ』
『取引? そういうプレイは求めてないけど』
『天邪鬼も、たいがいにせい。
そなたは、因果から外れた身。
その体に、鵺が寄生すれば、まちがいなく、
そなたは、この遊戯<ゲーム>から外される』
『なにそれ、どういうこと』
『そなたが、この鬼女の戯れ<ゲーム>に参加できたのは、
ひとえに、99回、チカと娘が生きた証であろう。
何度も力を行使するうち、ふたりの遺伝子は高度に進化し、
今や、これまでとは比べ物にならないくらい、強化され、
創世の彼らに限りなく近いレベルに、
回帰しておる』
暁は続ける。
『そなたが、今回、運命にはじめて交わったのも、その影響じゃ。
だが、そなたが魔女に対抗できるのは、
その身に、穢れを宿してないがゆえ。
一旦鵺に、蹂躙されれば、
間違いなくそなたも、あの鬼女の駒となろう』
『そんなバカな話を……』
『信じないと申すか?
もちろん、信ずるも信じまいも、そなたの勝手じゃ。
だが、迷っておる時間はない。
そなたには、守りたいものが、あるはずではなかったか』
『別に、もうどうでもいいし』
僕は、投げやりに言った。
どうせ、リンドウは、僕を愛していない。
千夜だって、チカだって、僕を必要としていない。
だったら、僕が存在する理由なんて、もうどこにもないのだ。
『そなたは、よほど、こらしめられたいとみえる。
よかろう。ならば、われが解いてやろう。
そなたがそなた自身に封じ込めた、“都合の悪い”記憶を』
『なにを……』
『思い出せ。さすれば、開かれん。
なんじが、楽園に至る扉は、すぐそこにあるのだから……』
焼け付くような光に、僕は目をかばった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
あれはそう、計画のリベンジを企てていた時だった。
ちょうど、一年と半年前。
半年前に起こった、クソ年増による、
妨害のおかげで、僕は、すっかりヤケになっていた。
<チェンジリングネクロマンサー計画>は、僕の野望だ。
姫を殺し、これまで死んだ者達で、地上を制覇し、
子ども達は、鵺の生け贄に、大人達は奴隷にし、
夜の帝国、永遠の遊園地<ミッドナイト・ネバーランド>を、
この僕が支配する。
一度は、おじゃんになった、建設計画だが、
天津家の全財力を使って、ここまで復建できた。
完成まで、残すところ、あと一か月だろう。
僕は、高台にたち、にまにま、と頬を緩ませた。
ふと、ごおん、と鐘が鳴った。
――おかしい。まだ、三時のおやつの時間ではない。
僕は、嫌な予感がして、高台から、飛び降りた。
錫杖から風を噴射し、ふわり、と地面に降り立つ。
その不法侵入者は、僕に気づくと、
さらりと、美しい黒髪を躍らせ、振り向いた。
「やあ、命。久しぶりだね」




