憑かれた妹
夜の一一時に差しかかるころ、突如、庭の犬が勢いよく吠えだした。その直後廊下から叫び声が聞こえた。
「お兄ちゃん! お兄ちゃん! 助けて!」
二つ下の妹、流依の声だった。叫びながら、俺の部屋のドアをひっきりなしに叩いてくる。
「どうしたんだよ」
「いいから! 早く来て!」
ただごとではないと思い、慌ててドアを開けた。流依は全身を震わせ、涙を流している。
「あ……、あの窓見てよ」
流依は俺の部屋と壁を挟んで隣にある、自分の部屋の窓を震えながら指さす。一七年間同じ屋根の下で暮らしていて、こんな怯えきった妹の顔を見るのは初めてだった。
「あれ、あれ……」
だが、震える指の先を見ても何も見えない。
「何かいるのか?」
「えっ、見えないの? あの女の人……。頭から血を流してる……」
俺は怯える妹の肩に手を置き、もう一度目を凝らしてみた。だが、やはり何も見えない。
「大丈夫かよ。おまえ、もしかして危ない薬とかやってないよな?」
「や、やるわけないでしょ!」
さすがに流依がそんなことをやるとは思えない。
「疲れてるんだよ、おま――」
そこまで言いかけたとき、窓が突如、勢いよく揺れ出した。
「!」
「揺らしてる……、窓を揺らしてる……」
ガタガタと勢いよく上下に揺れる窓。風で揺れているとは思えなかった。
「い、いや……」
流依は腰を抜かし、後ろの壁にもたれながら横に逃げた。俺は肩を置いて言う。
「と、とりあえず、落ち着こう。俺の部屋に、布団もう一つあるから、今夜はそこで寝よう」
「う……、うん」
俺は流依を部屋に入れた。歯をガチガチさせてうずくまる妹に毛布を被せる。一〇月半ばで、部屋は少し肌寒かった。
震えが収まるのを確認し、俺は口を開く。
「流依、今日デートだったんだよな?」
流依は無言で頷く。
「どこ行ったんだ?」
「買い物のあと……、カラオケ……」
「途中で、心霊スポットとか、寄らなかったか?」
流依の首は動かなかった。
「寄ったんだろ? あの崖の近くの電話ボックスに」
「え……」
流依の顔が引きつった。
「やっぱりな。机の上に雑誌が置いてあったから」
「か、勝手に入らないでよ!」
「勝手に入ったことは謝るよ。でも、二度と遊び感覚で心霊スポット行くなよ」
流依は静かに頷いた。そこから先は、お互い口を開くこともなく、静かな空気が流れた。
俺は、今日の朝のことを思い出していた。今朝は、流依が家をドタドタと走り回る音で目が覚めた。まだ朝の八時で、いつもだったら休日はまだ寝ている時間帯だ。隣の妹の部屋からは、香水だろうか、グレープフルーツのような、柑橘系の甘ったるい匂いが漂ってくる。
二度寝はできないと判断し、終わっていない大学のレポートでもやろうかと、パソコンを開いた。少し文字を打ったところで、尿意をもよおし、俺は部屋を出た。そのときは気にしなかったが、妹の部屋のドアが開きっぱなしになっている。階段を下り、トイレに向かった。トイレの横の脱衣所から、先ほどのグレープフルーツの匂いが流れてくる。流依は洗面台に釘付けだった。どうやら、化粧をしているようだ。
俺は用を足すと、妹がいる洗面台に向かう。
「流依、手洗うから、ちょっとどいて」
「はーい」
「えっ!」
俺は流依の顔を見て足を止め、目を見開いてしまった。今まで見てきた妹とは、まるで別人だったからだ。
「化粧、濃っ!」
「うち、今日、彼氏と初デートなんだ。同じクラスの人なんだけどね」
俺は苦笑いをして言う。
「絶対、流依って分かんねーから」
「そんなことないよ、だいじょーぶ」
浮き足立った、明るい口調で言った。相変わらず、元気だなと思った。
「じゃあうち、そろそろ行くね。あと、手、さっさと洗いなよー」
「あっ、おう。行ってらっ……」
言い終わる前に、流依は玄関の方に走り出していった。俺は手を洗い、二階の部屋に戻ろうとした。
下りるときは気にとめなかったが、流依の部屋のドアが開けっ放しになっている。香水の匂いが溢れてくるため、閉めようとした。だが、すぐには閉められなかった。机の上に、気味の悪い雑誌が開いて置いてあったからだ。夜の道路が写っていて、赤く血が垂れたような気味の悪い文字が上に並んでいる。もしやと思い、部屋に入った。部屋はグレープフルーツの匂いが充満していて、鼻を塞ぎそうになった。
雑誌を見てみると、予想した通りの心霊記事。今はもう壊れていて使えない電話ボックスの明かりが、なぜかついているという記事だった。昼間の壊れた電話ボックスと、明かりがついていない夜の電話ボックスも比較として下に小さく載っている。たしかに、少し不気味だった。ここで頭が血だらけの女の人を見たとの証言もあると書かれている。
あいつ、怖い話が好きなんだよな、と思いつつ、そこを立ち去ろうとした。だが、俺はとある文字を見つけ、離れられなくなった。
「ふ、沸和崎!?」
まさしく俺達が今住んでいる町だった。たしかに、この場所に見覚えはある。家からみて、南沸和崎駅の向こう側にある、山のふもとの道だった。
「まさか、そこに行ったりとかしてないよな?」
メールで忠告しようと思った。だが、文を作りはしたが、結局送らなかった。勝手に部屋に入ったことで怒られると思ったからだ。
思い出しているうちに、いつの間にか流依は寝息を立てて寝ていた。明日が月曜日なのを思い出し、俺も布団を被って横になった。
「お兄ちゃん、七時だよ」
俺は、頬を叩かれて起こされた。昨日、怯えていたのが嘘だと思うほど、妹は朝から元気だった。
「今日、二限からでしょ」
「なんで知ってんだよ」
まだ視界がはっきりしない中、目をこすりながら言った。
「だって机の上に時間割表が乗ってたんだもん」「あー、そういや乗ってたな」
俺は上半身を起こした。
「お前、大丈夫なのか?」
「うん。――でも、部屋に戻りたくない」
流依は笑顔を崩し、下を向きながらそう言った。
「分かった。俺が必要なの取ってくる。バッグの他に何かある?」
「あと、制服いいかな。クローゼット開けていいから、取ってきて」
「分かった」
俺は流依の部屋に入った。グレープフルーツの匂いがまだかすかに残っている。怖くなりそうだったので、窓を視界に入れないように、部屋の奥のクローゼットを開いた。
「うっ」
開けた瞬間、何種類もの香水が混じったような、強烈な匂いが鼻を襲う。俺は顔を反らしながら、制服を取った。机の横のバッグも取ると、それを持って部屋に戻った。
「ありがとう」
流依は俺が取ってきたバッグを背負うと、制服を抱えて脱衣所へ向かった。俺も二限からなので大学に行く準備を進める。妹が着替えを終え、家を出るころには、俺の準備も完了し、流依が家を出た五分後くらいに家を出た。自転車を漕ぎ、南沸和崎駅へ向かう。そこから電車に乗り、大学へ向かった。
四〇分間揺られ、ようやく、俺が通う総寺大学の最寄りである大鋸菜駅に着いた。ドアが開いたのを確認し、ホームに降りる。
「よう。西園」
ぶっきらぼうに俺に話しかけてきたのは、同じ文学部で、同じフットサルサークルの渋谷道明だった。中一の後半に転校したのだが、偶然大学が同じで、再会できたのだった。
「顔色、悪くないか?」
「ああ、昨日色々あってな」
俺達は改札を出て駐輪場の自転車に乗り、一五分かかる大学を目指した。その最中に、昨日の話をする。
「そんなことがあったのか。東先輩がそういうの詳しいみたいだから、そっちに聞いてみたらどうだ?」
「そうだね。でも、最近あまりサークルに来ないよね。あの人」
「派遣のバイト忙しいみたいだからな。けど先輩と、今日の四限一緒だから、いたらおまえのこと言っとくわ。ま、いたらだけどな」
「あ、ありがとう」
「とりあえず四限終わったら、六号館の第二学食の前に集合な」
話しているうちに、前方にドーム状の建物が見えてくる。プラネタリウムだ。大学はこの向こう側なので、もうすぐだ。大学に着くと、二限は別の授業だったので、駐輪場に自転車を置いたあと、俺達は別れた。
四限が終わると、言われた通り六号館に向かった。道明は、東徳大先輩と一緒に入り口に立っていた。
「よう、旬。道明から話は聞いたぜ。妹が家に幽霊を連れてきちゃったんだってな」
「どうにかできるんですか?」
「ああ、多分どうにかなる。おまえ、たしか水曜日、授業なかったよな?」
「はい」
「なら、水曜の一〇時に、大学の傍のプラネタリウムの駐車場に来いよ。俺が車出すから」
「分かりました」
「それより、今日暇か? 暇だったら、飲み会行かないか? 俺が全部奢ってやる」
「いや、今日はいいです」
俺が断ると、道明も断った。俺としては、妹が心配だったので、早めに家に帰りたかった。電車に揺られながら、道明と話をしていた。
「最近、東先輩の金の回り、よくなったな」
「俺も思ってた。バイト変えてから、よく奢ってくれるようになったし」
「危ない仕事してる可能性もあるかもな。なんか今日の話も胡散臭かった気がした。西園、水曜行って大丈夫なのか?」
「とりあえず行ってみる。妹を救える可能性が少しでもあるなら」
家に帰って八時頃に夕食を食べ終え、俺は立ち上がって部屋に戻ろうとした。隣では、流依が空いた食器を見つめながら、溜め息をついている。
「今日も、俺の部屋で寝るか?」
「……うん」
流依は小さな声で頷き、立ち上がった。廊下に出て、階段を上る。
「お兄ちゃん、待って」
流依は、俺の腰に手を置き、体を震わせながら後ろを歩いた。幸い、何事もなく俺の部屋に入れた。
俺は一息つくと、自分の椅子に腰をかけた。
「大丈夫か?」
流依は静かに頷いた。
「幽霊って、本当にいるんだね」
「な、なんだよ突然」
「うち、怖い話とかは好きだけど、昨日まで実際にこの目で見たことがなかったから、実感持てなかったんだ。人間って、死んだら本当に、霊になるんだね。もしかしたら……」
俺に視線を送ってきた。言いたいことは分かった。
「中野も霊になってるんじゃないかって?」
「うん。あ、ごめん、変なこと聞いて」
「いや、別に大丈夫だよ」
中野尊は、小学生の頃からの友達で、サッカー部でも一緒だった。チームメイトとはもちろん、二人だけで遊ぶことも多く、よく俺の家にも泊まりに来た。今、流依が寝ている布団は、中野が寝ていた布団だ。中学生になってからも同じ学校だった俺達は、変わらずに遊び続けた。けれど、大喧嘩をしてしまった。当時付き合っていた彼女が、別れ話もせずに俺を裏切り、中野と付き合い始めたのだ。俺は中野に、泣きながら怒鳴り散らしたのを覚えている。向こうもはじめは我慢していたが、俺があまりにもしつこかったので、怒らせてしまい、殴り合いになった。友情は、崩れ去ってしまった。中学校を卒業する頃には、未練も消えていたので、謝ろうかと思ったが、結局謝れなかった。高校に入り、離れてからも、会う機会を探し、謝ろうかと思った。だが、それは二度と叶わなかった。交通事故で死んでしまったのだ。トラックに轢かれ、即死だったらしい。
何度も事故現場やお墓に行き、謝罪と冥福を込め、手を合わせた。けれど、中野に届いていたのかどうかは分からない。本当に霊になったのなら、俺の気持ちは届いていたのだろうか。
俺は中野の顔が見たくなって、机の棚から中学校の卒業アルバムを取り出した。
「あ、それ見せて」
流依が寄ってくると、俺からアルバムを取りあげ、ページをめくり始めた。
「お兄ちゃんは、二組だよね。この人が中野先輩で……、それでこっちが、お兄ちゃんの元カノ」
「おいっ」
からかわれたので、アルバムを取り返そうとした。だが、ひらりとかわされる。でもよかった。いつも通りとまではいかないけれど、元気な流依に戻りつつある。
「お兄ちゃんは、大学で好きな人とか、いないの?」
俺は首を横に振った。
「そうなんだ。お兄ちゃん、恋愛に執着するイメージあった。小学生のときとか、好きな人の名前を寝言で言ったりしてたし。うちの部屋まで聞こえてきたよ」
「うるせぇ」
俺は苦笑いをした。流依も笑っていたので、なんだか微笑ましくなった。
「昔みたいに、恋バナ聞かせてね」
「できたらな。ん?」
突如、庭の犬が吠えだした。そして、隣の部屋からは、ガタガタという、窓を揺らす音。
「え、うそ……。また……?」
流依はうずくまり、耳を塞いだ。体が小刻みに揺れている。こんな夜がずっと続いたら、流依はともかく、俺まで精神的に持たない。俺は一刻も早く、こんな状況から抜け出したかった。今は、水曜日に会う東先輩だけが頼りだった。
「お前、目にクマできてるぞ」
翌日、大学で会った道明に指摘された。当たり前だ。昨日、満足に眠れていないのだから。
「昨日話した、あの霊か?」
「ああ、そんな感じだ」
「大変だな、お前も。ちょっとこっち来いよ」
道明に言われ、あとをついていった。普段は裏口を使う以外ではあまり来ない敷地の奥の方へと進んでいく。道明は、自販機の前で立ち止まった。お金を入れ、缶コーヒーのボタンを押す。
「ほらよ」
下から取り出したコーヒー缶を、俺に向けて差し出してきた。
「いいのか?」
「ああ。おまえ、色々大変みたいだからな。それに三限の基礎ゼミ、寝たらあとで困るだろ?」
「そうだな。ありがとう」
「それより、今日の昼はどうする?」
「うーん、ここまで来たから、たまには一二号館の方の学食行ってみる?」
「あそこ、俺達文学部からしたら、アウェーじゃないか?」
たしかに、文学部が主に授業を行う六号館から一二号館に行くまで、普段は六、七分ほど歩く必要がある。なので、文学部の学生は滅多に奥の学食へは行かない。だが、この自販機からなら、六号館に行くのも、一二号館に行くのも、大して変わらない。
「一二号館の学食のサラダ、評判いいし、一度食べてみたいたんだよね」
「分かった。じゃあ、一二号館の方行くか」
俺達は、一二号館の方に歩いていった。昼時なので人の移動が激しい。人混みをすり抜け、ようやく着いた。
「それにしても、この一二号館は、面白い形をしてるよな」
道明の言うとおり、一二号館は独特な造りをしている。建物がコの字状をしており、その中に中庭がある。学生が自然を感じられるようにと作られた。木が十数本も植えてあり、中央には溜め池がある。溜め池からは、水の流れる音が聞こえ、なんとも心地がいいとの話だ。この建物の近くに裏道があるのだが、そこに行くときに何度か水音を聞いたことがある。ウッドデッキがあり、木でできた丸テーブルが六、七台置かれ、椅子が並べられているのだが、冬が近付いているせいか、ここに座る人はいなかった。ここの学食は、室内から中庭が見られることで評判だった。
「Aランチセット、Aランチセット……」
なかなかボタンが見つからず、券売機の上で人差し指が泳いだ。
「あった!」
「ピーッ」という音とともに、食券とお釣りが下から吐き出された。それを手に取り、列に並ぶ。道明も俺の後ろに並んだ。人が多く、厨房の前は人の熱気と話し声で埋め尽くされていた。
やっと、順番が回ってくる。
「はい、おまちどお」
ランチセットを上に乗せたお盆を持ちながら、二人分空いている席を探す。見つけた。
「じゃ、先に席取っとくわ」
「ああ」
俺は、お盆がすれ違う人に当たらないように気をつけながら、空いている席に向かった。
少ししてから道明も俺の向かいに座り、話をしながら食べ始めた。すると、
「ん?」
ふと、人混みの中に、見覚えのあるような人を見かけた。「誰だ……?」頭の中の整理に時間がかかった。
「どうした?」
「いや、なんでもない」
結局、誰なのかは分からなかった。俺は考えるのをやめ、視線を道明の方に戻した。だが、見覚えのある顔の人は、こちらの方に向かって歩いてくる。俺は近付いてくるにつれ、頭の整理が整ってきた。この人は……。
「えっ? 旬くん?」
向こうが先に口を開いた。その言葉とともに、道明も後ろを向く。
「道明くんまでいるの? なんで?」
「俺のことも覚えてたのか。あの中学、一年もいなかったのに」
「うん。だって一年生のとき、同じクラスだったじゃない」
髪は明るい茶色に変わっていたが、かつての面影はあった。吉井祥香。俺が中学生のときに付き合っていた人だ。俺の方から告白をし、一年近く付き合った。だが、予期せぬ心変わりで、中野と付き合い出してから、大きなショックを受け、ずっと話せなかったのを覚えている。けれど、それは遠い過去の話だった。今は、未練は感じない。
「ところで、どうして君たち、ここにいるの?」
「俺らもここの大学だから」
道明が返すと、二人は俺を置いて話し始めた。
「でも、今まで見かけなかった。入学してから半年経つのに」
「ま、俺ら文学部で、滅多にこっちの学食来ないしな」
道明がアイコンタクトを送ってきたので、軽く頷いた。
「ここをよく使うってことは、農学部か?」
「うん。そうだよ。うちは農家だしね」
二人の会話が弾んでくると、居づらくなったので、席を立とうとした。椅子を引こうとして、「ガッ」という音が鳴る。
「もう行くのか?」
「あ、先行くだけ」
俺はお盆を持ってその場を立ち去った。おそらく、昔の俺だったら、激しく嫉妬していたのだろう。同時に、自分の嫉妬深さが中野との友情を壊したことを思い出し、過去の自分を殴りたくなった。どんなに謝りたくても、中野にはもう会えない。
「なんで先行ったんだよ」
三限のゼミが終わった帰り道、隣の道明が聞いてきた。
「いや、なんか会話に入れなさそうだったから。別に未練はないし、気まずかったわけじゃないよ」
「やっぱそっちだったのか。アイツの方も、おまえに未練はないって分かってたらしい」
「あ、ならよかった」
「明日、本当に行くのか?」
俺は、ためらわずに頷いた。道明も、それ以上は何も言わなかった。