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竜崎、背負います。


 

「ぶぇ―――っくしょい!! うぅ、さみいさみぃ……」


 ……やってしまった。

 かなりオーバーになってしまったくしゃみを放ったとたん、ジャージ男三人の目線がこちらに向いた。黒の二人は『ちっもう来やがったか』と毒づきそうなばつの悪い顔を浮かべ、新藤先輩は目を大きく見開き、あっちゃー、と言いたそうに右手で前髪をかきあげて頭を抱えて、やれやれといったあきらめの表情で僕を見ていた。しかし口元は今の状況を待っていたのではといわんばかりに不敵ににやりと笑っていた。

 ここにもうひとつ視線が加わる。ベンチであおむけに倒れている竜崎の視線だ。壁となっていた二人が僕に向いたことで道が開けたのだ。

「遅い、ばか羽生」

「悪い悪い、袋の中身を物色してた」

「はあっ!? 見るな、って、言ったのに、見たわけ? ……変態! 羽生の変態!」

「た、大したもん入ってなかっただろ!? 着替えぐらい普通に持ってくもんだ!」

「わ、私の着替え、見たわけ? 下着入って、いたのに!」

「何それマジかよ見つからなかったからもっかい探してみる!」

「っ、なんてこと、言わせてんの……! 探さないで、この、変態羽生! 早くこっち、来てそれ、返しなさい」

 言葉だけは一丁前に敵意剥き出しだが、まだ貧血気味なのか言葉に音量が伴っていない。

 ぼーっとしていると目の前の黒い二人に袋を奪われそうだと思ったので、そそくさと黒壁を迂回して竜崎のもとに向かった。竜崎はまだ力のない眼で僕を見て、ふーっと一息漏らした。

 すると、少し悩んだような顔をして、両手を上に突き上げて、

「ん」

 と、今度は困惑の色が見える眼で僕を見て、ぷい、と顔をそらした。

「……何?」

「いつまでも、その、横になりっぱなしだと、身体に悪いし……」

 つまりその突き上げた手を取って体を起こせ、と………。

「え、あ」

「『え、あ』じゃなくて、起こしてってば。自力じゃ、起き上がってもだるくなる」

 ……どうしよう、この状況。

 誰も見ていなければうんともすんとも言わずに手を取っているだろうが、ここには三人、竜崎を知る人が居る。うち二人は竜崎の事が好きだという二人だ。まだ新藤先輩だけなら少し恥ずかしいだけで手を取って体を起こしているが、あの二人の前で手を取ってもいいのだろうか。もしここで手を取ったら、翌日校舎裏に呼び出されて噂のファンクラブの面々に囲まれて凄惨な制裁を受けるのでは……。

 なんて思っていると、ぐっ、と、竜崎の右手が僕の左手を掴んだ。

「ん」

 ……早くしろ、と目が言っている。僕ははぁ、と小さくため息をついてもう片方の手を取った。

「しょっ……と」

 リクライニングシートを戻すような動きで、ゆっくり、ゆっくりと体を起き上がらせる。竜崎は先ほどと同じようにくらりと体を倒そうとする。が、今回は僕が両手をとって体をピンと支えているので倒れることはない。気分が悪いのか、眉間にしわを寄せて険しい表情だ。

「大丈夫か?」

「……うん、なんとか。もうちょっと支えてて、シーブリーズ取るから」

 体をベンチの背もたれに預け、覚束ない手つきで袋の中を探る。スプレーを一本取りだして、スポーツウェアの中に直接吹きかけた。正面、背中、脇に吹きかけ、袋の中に戻す。

「座って、後ろ向いて」

 いわれたままにベンチに座り、竜崎に背を向ける。どこからか「あっ」という声が聞こえて

 ぷしゅー!

「うわああ冷てええっ!! なな何すんだああっ!」

「けっけっけ、人の荷物、を、勝手に、探ったから、その、罰。うえ気持ち悪っ」

「うえっ、じゃねえ!ああ冷たい!」

 竜崎の右手はエアーサロンパスが構えられていた。後ろに向いた途端首筋にエアーサロンパスを吹き付けられ、ひりひりと日に焼けたような感触と氷のような冷たさが首筋に走ったのだ。

「こ、こういうのは用法容量守って正しく使うもんだ……!」

「はいはい……。ほら、もう、吹きかけないから。体勢戻して」

「ああ、もう……」

 今度は服をめくられて背中に吹き付けられないか警戒しながら後ろを向く。すると今度は背中全体に不思議な感触と、重量がのしかかった。この感覚の正体を確認しに振り返ろうとするが、今度は肩の上から腕がにょきっと伸びてきた。右手には見覚えのある袋が握られている。

「おぶれ」

 耳元でささやかれた声により、この腕と感覚の正体が竜崎のものだとわかるまでおよそ三秒かかった。

 この体勢、この感触。僕は―――竜崎に後ろから抱きつかれている!

「ちょっ、お前、こんなところで何やって」

「私を医務室まで運ぶんでしょ? おんぶして連れてけって言ってんの」

 何を考えているんだこいつ!

 この状況でおんぶだと? この竜崎葉は僕の立場を考えずにこんな凶行に及んでいるのか!? この場にはお前に告白せんとやってきた人が約二名、その二名のために二日かけて場を整えた尊敬すべき先輩が一人、ここにいるんだぞ!? この黒い二人から感じる嫉妬と殺意の、新藤先輩から感じられる喜々とした視線を竜崎は感じないのか? うわあ、逃げたい! 普段の僕ならこんなオーラを前にしたら土下座しながら全力で後ずさりして逃げるレベルだ! てかさっきまで汗臭いから嫌だと逃げていた竜崎葉はどこ行った?

「やっぱり羽生。行先、変更。羽生の家、連れてって。シャワー貸して」

 やーん。竜崎さんダイターン。

 じゃ、ねえ!

 この瞬間、状況をこらえきれなくなった黒部ダムが決壊した。

「おい! ちょっと待てよそこのお前!」

「そうだそうだ、ちょっと待てよてめぇ!」

 こ、怖い。

 ばか竜崎、おまえのせいだぞ。どうしてこうなった。

「てめえさっきからなんなんだよ! 竜崎さんから離れやがれ!」

「竜崎、気分悪かったらオレが医務室から人呼んでくるから! だからてめえは自分の袋持って一人で帰れ!」

 怖い、マジ怖い。

 これが野球部独特の迫力というものか。野球部が怖いのはあの白で統一されたユニと、金属バットの異様さにあると思っていたが撤回せねばならないようだ。何かの格闘技を経験したかのように強靭そうな肉体と、檄を飛ばし続けて酷使した喉から発せられるどすの利いた声が、この連中を怖いと思わせる最大の要因なのか。

「おい岸部、こいつ確か見覚えあるぞ。竜崎さんと同じクラスにいたヤツだ」

「おいテメェ待てよゴラァ。名前教えろ、名前。何テメェ竜崎と同じクラスだからって調子乗ってんじゃねーぞ、あぁ!?」

「……羽生、吐きそう。吐いて良い?」

「ちょっ竜崎タンマ! 今吐いたら服が台無しになるからやめろ!」

「でも気持ち悪い」

「よよよ横になった方がいいか?」

「ううん、このままでいい」

 竜崎はもぞもぞと僕の背中で動きさらに密着する。両腕は首にがっちりホールドされてしまい、完全に体を背中に預けられている。傍から見れば、抱きついている竜崎がますます体を密着させたように見えるだろう。

「てめえ! いい加減にしろやゴラァ! オレを無視して勝手に竜崎さんと話してんじゃねえよクソが!」

「新藤先輩! どういうことッスかこれは! 先輩からもこのクソ野郎に何か言ってやってくださいよ!」

「えーっと……だってさ、羽生くん。どうする?」

「早く羽生ん家行ってシャワー浴びたい……」

 お前が代弁するな。

 しかも誤解を招くしかない台詞をこの状況下で選択するな!

「えっと、あの、竜崎さん? 何故に僕の家のシャワーを借りたいと…?」

「……シャワーも、洗濯も、気兼ねなく使えると思った」

「あの。男の家でシャワー浴びるの怖くない? こっそり僕覗き見するとか考えないの?」

 竜崎はしばし沈黙して

「……羽生だし……いいよ……」

 と、今回最大の爆弾発言を投下した。

「あえっ……その……うん……」

 ……僕もいよいよ反応に困ってきた。

 今のは嬉しがればいいのか、突っ込めばいいのか。背中に竜崎の顔があるので振り向いて何かしら言いたいところだが言葉が出ない。

 さっきから思っていたが、竜崎は人の誤解を招く発言が多すぎる。そういう気があって言ったんじゃない、と言ったのがまるで嘘のようだ。一体どうしたんだ竜崎。頭が回らなさすぎておかしくなったのか。それとも、頭に血を上げるためにわざとそんな誘うようなこっ恥ずかしい言動を連発しているのか。

 黒部ダムから流れ出る水の勢いはこの発言を受けてさらに強さを増しているのだがまるで耳に入ってこないほどに、僕の頭の中も混乱している。

 竜崎が何を考えていたのか、知りたい。

 一連の騒動の中で、僕はどうやらずっとそのことばかり考えていたようだ。

「……あのさ、盛り上がっているところ悪いんだけど」

 様子を見かねたのか、とうとう新藤先輩が介入してきた。これ以上僕が言っても場を混乱させるだけなので、あとはもうこのコミュニケーション能力抜群の先輩に事の顛末を任せよう。

「一柳君、屋島君。悪いけどこれ無理だよ。もう」

 そう言うと、黒ジャージの二人―――一柳と屋島は言葉を失った。申し訳なさそうに先輩は二人に話しかける。

「こうなったのも、全部場所ミスった俺が悪い。だからその、ごめんな、二人とも。まさかこんなところに伏兵がいるとは思わなかったんだ。いやあ、大穴以上のノーマークだったよ、羽生くんは。だからもうあきらめな」

「待ってください先輩! オレらは別に先輩が悪いって言いたいわけじゃないッスよ! 悪いのはこのクソ野郎なんスから!」

「一柳の野郎の言うとおりだ先輩! むしろ先輩ももっと怒ってやってくださいよ! 先輩のおかげでここまでこれたのに台無しにされんだぜ? こいつにな!」

 もうかれこれ数分間はぼろくそに言われている。あの、僕はただの通行人Aです。ドラクエで道端で行き倒れていたオルテガを助けたムオルの村人と同じなんです。だからぼろくそ言われても困る……。

 しかし、この二人が置かれた境遇は正直不憫だ。昨日突然好きな人が被っていたのが判明して喧嘩する羽目になって、先輩に仲介役を買ってもらったものの、その意中の相手が全く知らない男と(一見)楽しそうに談笑して、おまけに(一見)抱きついていたら、そりゃ癇癪の一つや二つ起こすしかない。まだ実力行使に出ていないだけマシだろう。この状況、もし先輩が居なくて僕と竜崎と、この二人だけだったら間違いなく引っぺがされてボコボコにされるか、最悪の場合はエロ同人みたいな展開に―――は考え過ぎか。遅かれ早かれどのみち僕は無事でいられないだろう。

「おーい竜崎さーん。起きてるー?」

 先輩に名字を呼ばれた、僕の背中の女子高生はのっそりと三人のいる方を見て、「……何すか、先輩」と言った。吐きそうだ、と言っていたので声を出すのもつらそうだ。

「悪いね、引き止めちゃって。それで、この二人が君に一言言っておきたいみたいなんだけど、聞いてあげてくれないか?」

 ぐもった声で、「はい」という声が聞こえた。先輩はその小さな声を聞きもらさずに「だってさ。もうこの際だから二人ともぶちまけたら?」と促した。

 二人とも僕に向かって人を殺しそうな鋭い視線を幾重にも浴びせた後、今度は真剣な―――若干やけっぱちになった眼差しで竜崎を見た。

「竜崎さん! ずっと好きでした! 付き合ってください!」

「あっテメェ! っ竜崎! 俺はこの中では一番お前のことが好きだ! 俺と付き合ってくれ!」

 ……うわあ。

 これが告白かあ。

 僕は今、青春の一ページが刻まれる瞬間を目撃している。この一言が人生を大きく変えるかもしれない、変えたかもしれない、変わったかもしれない人が大勢いるのだろう。この数十秒でこの二人が人生のどの分岐路を往くのか決まるのだ。

 なのだが!

 公園のベンチで、他の男に抱きついている女子に二人の男がマジ告白する構図、どうよ。

「………」

 驚いているのか、困惑しているのか、ただ気分が悪くてうなだれているのか。抱きついたままの乙姫は沈黙を続ける。ああこら竜崎、背中に顔を埋めるな。痛いんだよ、男の視線が!

 新藤先輩……笑ってやがる……! 僕らを尻目に爆笑をこらえてやがる……! おいそこの二人よ。僕たちの尊敬する先輩は、この妙なシチェーションを提供しておいて自分が一番楽しんでいるっていうとんだ劇場作家だぞ。演じてる僕らは全然楽しくないぞ!

 はあ、と心の中でため息をつく。―――いろんな意味で事の元凶は僕の背中にもたれかかっている、竜のつく名字の女子高生だ。告白されてまだ十秒しか経っていないのに、既に一分以上時間が経過している気がする。竜崎の沈黙と、二人の視線と、先輩の爆笑が感覚を麻痺させているのだろうか。

「……羽生」

 沈黙を破ったのは僕の名前だった。

「……返事は?」

「……」

 再び沈黙―――

「おっぷ」

 ―――が、僕の全神経が全速力で警告ブザーを鳴らした。

「待て待て待て待て竜崎! 吐くのはまだ早い! おいい! そこの二人下がれ! 下がれ! ゲロのおでましだ!」

 叫んだ僕は目の前の二人を退避させる。爆笑をこらえていた先輩もいきなりの警告に一瞬笑いが止まった。

「おぇっぷ」

 竜崎の顔を見ると、頬が膨らんでしまっている。マズイ、もうそんなところまで這い上がっているのか!

 頼むからもう少し待ってくれ! せめて首に回してる腕を外して―――もう外れてる―――竜崎の体は僕から離れてベンチの背もたれに胸を押し当て顔を出して―――

「うおおおおお!? そ、そこで吐くな食材に当たる! バカやめ―――」

 防波堤が決壊したまさにその瞬間だった。一秒あるかないかギリギリの時間に、僕は火事場の馬鹿力としか呼べないような力と速度でビニール袋を回収した。ビニール袋の置いてあった場所にピンポイントで吐瀉物がかかるのを見て、さーっと肝が冷えた。

「うげえぇぇぇっ……」

 すぐに竜崎の様子を見る。すると、

「げっ」

 間髪入れず、第二波、到達。

 ビニール袋置き場跡地、被害甚大!

 ―――なんて言ってる場合か!

「新藤先輩!そこの自販機で水買って持ってきてください、今すぐ!」

「おおおう、わかった!」

「大丈夫か、竜崎。竜崎!」

「うう~……。ちょっと、無理。羽生、水持ってない?」

「新藤先輩が買ってる。……あ、ありがとうございます先輩。ほら竜崎、これで漱げ」

 ペットボトルを奪い取り、水を大量に口に含む。頬にたっぷりと水を含ませた後に吐き出す。これと嗽を数回繰り返し、しばらくの間横になっているとようやく容体が安定した。気分はどうだと聞いてみると、吐く前よりはだいぶマシになった、と応えた。残った水でハンカチを濡らして口を拭いてもらう。

「後始末どうしようか。やったほうがいいのかな、私」

「って言ったって、拭き取るほどの量を吐いたわけじゃないしなあ。ほとんど胃液だったし、吐いたとこ芝生だし。その辺に落ちてる落ち葉を集めて上に掛けたらあとは自然がなんとかしてくれるさ」

「うん、そだね……でも羽生ひどいよ。何が「ゲロのおでましだー!」なのよ。私が吐いたのはゲロじゃなくて胃液だよ。い・え・き」

「僕にとってはゲロも胃液も"吐く"から同じゲロ扱いだ。てか竜崎、二度目のゲロはあれ自分のゲロにもらいゲロしただろう。正直二発目のゲロはびっくりしたんだからな」

「ゲロゲロうるさい! カエルか! このはにゅガエル!」

「なんだその新種の萌えキャラみたいな名前は! てかお前まだあと一つゲロっとくべきことがあるだろ。忘れたとは言わさないからな」

「ああ、カレーに入れる具材のこと? 豚肉もいいけど鳥肉も惜しいなー。そうそう市販の切り出しゴボウを半分に切って煮込むのって意外とイケるよ」

「ゴボウ? 確かに人参みたいに根っこを食べるタイプの食材だからカレーには合うのかも―――って、違ぇ! どんだけ時間遡ってんだよ! 僕も言われるまで忘れてたよ!」

「言われてみればカレーもゲロっぽいよね。色的に」

「今インド人にいちばん言ってはいけないこと言ったぞ! 今すぐインド人に謝れ! あと今から帰ってカレー作る僕にも謝れ!」

「げろげろげろげろぐわっぐわっぐわっ」

「誤魔化すなっ! ……てか竜崎、吐く前と後じゃ別人みたいだな……」

「だから言ったじゃない。そこまで大変じゃないから連れて行かなくていい、って」

 もう呼吸の合間に声を振り絞って出していたのがウソのようだ。顔色は先ほどよりも明らかに色がついてきており、今のように冗談をすらすら言えるようになっている。確かに、少し休んで吐いただけで相当回復したみたいだ。けどまだ気持ち悪さが残るのか、体勢を崩して背もたれに全身を預けている。

「はいはい、漫才はそこまで。竜崎さん、羽生くんの言うとおり、一柳君と屋島君の二人に言っておくことがあるんじゃないかな」

 漫才はしていないが、先輩の言うとおりだ。ここまでくれば僕も無関係ではいられない。……というより僕が事態をややこしくした原因なんだけど……あの二人、一柳と屋島と呼ばれた二人のダメージは如何ほどのものか。さっきまでの威勢の良さは何処へやら、一言も発さずに呆然と立ち尽くしている。

「あと羽生くんはこっち」

 ちょいちょい、と、指をふって僕を呼び寄せる。まあ、この場面では邪魔な役者だ。出番を終えた役者は退場させていただこう。

「すぐ戻る」

「うん、いってらっしゃい」

 ベンチから立ち上がり、棒立ちの二人の脇を通り過ぎる。僕は先輩に連れられて自動販売機の近くに移動した。この位置だと、僕は三人の姿を確認することができない。

「何だかその、先輩。すいません。こんなことになるなんて」

「いいさ、羽生くんは何も悪くない。むしろよくやったと言いたいぐらいさ。弱ってた竜崎くんを助けたんだろ? 何も責めるべき点はない。―――まあ、まさかこんなタイミングに重なったことにはびっくりしたけどね」

「僕もびっくりの連続です。竜崎って普段からああでしたっけ?」

 先輩は両手を掲げ、「そんなの羽生くんの方がよく知ってるだろう、クラスメイトなんだから」と言う。しかし、僕と竜崎は今日までまともに会話したことがない。ひょっとしたらこの日を最期に会話数が激減するかもしれない。クラスの人気者として竜崎葉の様子は目にしてきたつもりだが、少なくとも、あれほど誤解を招くような発言を素で連発できるのか? 特にこの辺に関して竜崎を疑っている。このことを先輩に言ってみた。どう思う? と。

「素に決まってる。人間、思考に余裕がないときは最低限の言動でものを伝えるんだ。竜崎さんのように切れ切れの呼吸でモノを言うなら尚更ね。自然発生していく自分の言葉を頭で反芻する余裕がない分、純度が高いんだよ。だから極限状態ではよく名言が生まれるじゃないか。

 それと同じだよ。竜崎さんの場合は名言より迷い言だけど……。だからこそ羽生くんに対して話したことは一言一句、言動すべてが飾りっ気のない等身大の竜崎葉だ。まあいいじゃないか。これから君は竜崎さんにせがまれて部屋に案内することになるんだから、彼女の迷言をネタに弄ればいい」

 新藤先輩は先輩らしい回答で僕の疑問を解消し、話を締めた。

 今までのすべてが飾り気のない竜崎、か……。だとしたら、竜崎はクラスでもあまり話したことのない僕に心を開いたことになるのかな……。いくら弱っていたとしても、それはいいことだったのか……?

「それにしても羽生くん、俺も「ゲロのおでましだ」はないと思ったよ。いくらなんでも咄嗟に出るか? しかも下がれ、下がれって言った後のおでましだよ? あれはもう緊急事態でも笑うしかなかった」

 思い出したのかツボに入ったのか、手で口を押えてふふふふっと笑っていた。

「極限状態だったから迷言が出たんでしょう。竜崎と同じですよ」

「違いない」

 ふはははははは、と二人そろって爆笑する。一方が告白中という重いムードの中、なんと和やかな空気か。ちらりと竜崎のいる方向を見て、ふと気になったことがあったので聞いてみた。

「先輩、彼女とかいますか?」

「は?」

「い、いや! 気に障ったらすいません! ただ交友関係広くて、今回も告白―――というより、竜崎とそこの二人がお近づきになる機会? を設けたりとかしていたから恋愛事には強いのかなーって」

「気に障ってないから大丈夫だ。―――うん、いるよ。二年C組の立花蓬。俺の彼女だ」 

「え!? 立花蓬ってまさか」

 聞き覚えがある、いや、つい最近聞いた名だ。先月行われた文化祭の校内ミスコン、新藤先輩曰く山王戦レベルの激戦で頂点に立った人の名前だ。立花先輩は司会としてミスコンの進行を担当していた。先輩にはあらかじめ偽の優勝者が伝えられていた。それを知らない先輩が優勝者を発表しようとしたとたん、優勝者だと思っていた人がマイクを手に取り、真の優勝者を発表するというサプライズ演出によって、この年のミスコン優勝者となったのだ。「え? え? 何それ、え? 私?」と狼狽えていた姿は記憶に新しい。

 だがその演出以上に、立花先輩が新藤先輩の彼女という事実に稲妻が落ちたような衝撃が走った。

「……先輩、ミスコンの時は彼氏いないって言ってたのに……よりによって、新藤先輩か……勝ち目ねえ……」

 僕の懸想はあっけなく砕け散った。

 この先輩相手では僕程度の男が太刀打ちできようはずがない。

「は、羽生くん蓬のこと好きだったのか……! ―――あ、ああ。なるほど。だから竜崎さんに対してあんな感じに接することができていたのか! こんな特殊な状況で、竜崎さんレベルの女子にドギマギさせられても靡いた様子がほとんどなかったわけだ」

 そのとおり。竜崎から感じる誘惑じみた誤解の数々、それに対抗できた原動力が立花蓬先輩への意識があったからだ。もしこれがなかったら、今もまだ竜崎に対してドキドキが止まらない状態になっていただろう。

「……差支えなければいつ、どのような経緯でお付き合いするようになったか聞いてもいいですか?」

「期待するようなドラマはないぞ? 去年の生徒会の仕事で蓬と仲良くなって、その後に登下校で同じ道を使ってたことがわかって、一緒に帰る機会があって、それを何回か繰り返しているうちに好きになって、何回もアタックしてようやく今年の春に―――って、お前何を言わせてるんだ恥ずかしい!」

「ふん! ……ところで今年の春って、それって僕たち一年が入学する前……?」

「詳しく言えば、去年の終業式の後かな」

「先輩の嘘つきー! もう半年も彼氏いるじゃないですかー!」

 勝負にさえならなかった。勝負の前から勝敗がついていたとは。もうショックを受けて項垂れる気にもならない。

「羽生くんそりゃーあんな場で「彼氏います!」って言ったら追及されて俺の名前が出る羽目になるじゃないか。第一ミスコン優勝者が彼氏持ちってシラけるぞ。蓬はその辺判ってて彼氏いない宣言したのさ。……あの日以降、告白してくる奴が増えたのは腹立つけど」

 てか先輩ぐらいの有名人カップルならすぐさま広がりそうなものなのに、よくもまあ……。告白してくる人たちの考えはわかる、この彼氏いない宣言で先輩たちが破局したものだと思って攻勢をかけたのだろう。実際は破局しておらず、死屍累々の山を築くことになったようだが。

「羽生くんも、あの二人と同じように新しい恋を始めることを勧めるよ。ほら、ちょうど気になりそうな相手が近くにいるんだから」

 返事を聞く前からもう振られた扱いになっている一柳と屋島。つくづく不憫だ。

「いきなり竜崎をそんな目で見れませんよ。第一、恋愛ってそんな狩りじみた感覚でやるもんじゃないでしょ」

「へーえ。まあ、どうあがいても気になってしまう相手がそのうち出てくるさ。ほら、向こうも終わったようだ」

 先輩が自動販売機の向こうを見る。僕も脇から覗き込む。竜崎と、その前の二人と目があった。竜崎は先ほどと変わらぬ顔だが、前の二人は諦めと、僕に対する明確な悪意を持った顔をしていた。先輩は何もなかった様子で声をかける。

「竜崎さん、終わった?」

「……うん」

「返事は?」

 竜崎は先輩をじーっと見て、

「……羽生、早く帰ろう。もう寒いよ」

 実に残酷な応答を返したのだった。

「だ、そうだ」と先輩。殺されそうな形相の二人をはさんで会話したくないのを察したのか、先輩が二人を引きあげて去って行った。すれ違いざまに屋島から「覚えとけよ」と言われて背中に冷たいものが走るが、僕は気にしないで竜崎が座るベンチに向かい、隣に腰かけた。

「……ほんとに僕ん家行くの?」

「羽生ん家のほうが、医務室より便利そうだもん……ご飯も出るし」

「療養だけじゃなくて飯まで食ってくつもりだったのか! 決めた、お前のシャワー絶対覗くからな! 風呂場に鍵ないから覚悟しとけ!」

「だから、羽生なら……いいよ……」

「……」

 え、マジで? そんなこと言っちゃったらマジで覗くよ? いいの? ひょっとしたらルパンダイブだよ?

 竜崎はくすくすと笑う。

「羽生、チョロい」

「なぁっ!?」

 やっぱり今までの行動は全部計算だったのかと思わせるに足る一言だ。くすくす笑いが爆笑に変わり、僕は肩を落とした。竜崎は自分の袋を肩にかけ、「ん」と酔う手を伸ばした。

「おんぶして」

「嫌だ歩け。おんぶしたら食材を持てないだろ」

「私が持つからいい。あと、また気分が悪くなって吐くかもしれないし」

 ゲロるぞ、と言われてはどうしようもない。僕は竜崎に背を向けた。

「……言っておくが、衛生上の観点からお前がゲロったら困るからおぶるからな。他意はないぞ」

「何それ、ツンデレ?」

「好きで言ってんだよ、竜崎」

「えっ……?」

 おお、困ってる困ってる。

 ツンデレって言う言葉の意味も、僕の言葉の意味も違うんだぞ。冷静に考えれば読み取れる言葉だが、さあ悩め、混乱しろ。僕が味わったものを少し返してやる。

「……じゃあ、甘えさせてもらいます……」

 想定通りの言葉。最後の方はごにょごにょとして聞き取れなかったが、それでも十分勝利した気分だ。どうだ、恥ずかしいだろう。僕は後ろを向いているので表情が見えない。しかし、さっきまで僕が味わった感覚だ、ある程度予想できる。

 でも振り向きたい。

 振り向いて、なんて顔しているのか見て見たい。

 竜崎の腕が僕の肩に回され、背中全体にやわらかな感触を感じる。竜崎の手が食材を入れたビニール袋をつかんだ。竜崎の脚が僕の腰の部分に密着していたので、太ももに手を当て、そのまま立ち上がる。うわあと背後から声が聞こえた。

「久しぶりに人におんぶされた……」

「僕も久しぶりに人をおんぶしたよ。大丈夫か?」

「うん。羽生は大丈夫?」

「きつくなったら言うよ。じゃあ、いくぞ」

 背中に一つ荷物を増やして、今日は腕によりをかけて料理をしよう。図らずもこの日は週に1度のセールの日だったのだ、少し余分に作るより余分に作ろう、そう決めた。


前後編じゃなくて前中後編の構成になってしまいました……。

これにて完結です。

最後まで読んでいただいた方、ありがとうございました。

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