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竜崎、拾いました

何か適当な話でも書いてみるか、と思って書き上げた作品です。

長くなったので短編ではなく前後編+αに分けた構成となっています。

つまらないものですが、適当な評価を頂けたら幸いです。


 カレーにしよう。この漫然とした欲望はすぐさま実行された。まず調味料置き場にしている台所の引き出しを開けてカレールゥがないか確認する。一瞥してそっと引き出しを押し、冷蔵庫のドアを開ける。必要な野菜はなかったが、米だけは大量に置いてあったので三合ほど炊飯器に入れて炊いた。炊き上がりは四〇分後、近所のスーパーで買い物をしているうちに炊き上がるだろう。僕は財布の中身とスーパーのチラシをチェックして、家を出た。今日はスーパーは土曜市、肉も野菜も安く買える日だ。

 買い物に行くとき、近道だからと少し大きな運動公園のジョギングコースをよく通る。土曜日の午後というのに、トレーニングをするランナーや歩行者があまり見かけない。落ち葉が赤く黄色く色づきはじめる季節はスポーツに向いているのに、すれ違った人数は少なめだ。僕は冷たさと涼しさ混じりの風を受け、もうちょっと厚めの上着を着てくればよかったと後悔しながら歩いていた。

 そんな日の、スーパーでカレーの材料を買って家路についたときのことだ。ジョギングコースのスタート地点を少し過ぎたあたりで一人の女子を見つけた。スポーツウェアに身を包み、うなだれた様子でベンチに腰かけている。

 僕はこの女子を知っている。同じ高校の同級生、竜崎葉だ。

 こんなところで遭遇するとは珍しいことがあるものだ、と思い、竜崎に近づいて声をかけてみた。

「………」

 反応がない。

 もう一度声をかけようと近づいてみると、竜崎の様子が尋常ではないと気づいた。

 まず、呼吸が非常に乱れている。胸と肩が上下するだけでなく、ハアハアという呼吸の音が、声を出しているのではないかと思えるほどに高いのだ。まるでたった今、非常に長い距離を全力疾走したか、インターバル走を数十回連続で行った後のような息の切らし方だ。スポーツウェアは汗でぐっしょりと濡れて肌にぴったりとくっついている。竜崎にさらに近づいて顔色を窺うと、目は半開きで生気がまるで感じられず、顔色も真っ白に青ざめている。

 そして何より、いつもは活発なはずの竜崎が僕の声に反応しない。

「竜崎! おい竜崎!」

 呼びかけが届いたのか、竜崎の虚ろな目が僕の眼球を捉えた。

「……あ……羽生、かぁ……」

 竜崎は絞り出すように言葉を返す。

「どうし……いや」

 どうしたんだよ、と言おうとしたが喉の先で食い止めた。おそらく訊いてもまともな返事はこない。

 状況を整理しよう。僕はカレーの材料を買いにスーパーに―――いや、僕のことは今はどうでもいい。

 問題は竜崎だ。見た感じ酸欠を起こしているように見える。もしかしたら脱水症状かもしれないと考えた僕は、竜崎の手持ちの飲料水がないか調べた。見たところ、ベンチとその周りにそれらしき物体はない。

「ちょっと待ってろ!」

 買い物袋をベンチの裏の芝生に置き、すぐ近くにある自動販売機に向かう。ちゃらちゃら、がこん、とじれったく働く自動販売機からミネラルウォーターとスポーツドリンクを奪取し、すぐに竜崎が座っているベンチに戻る。スポーツドリンクを飲める程度に飲ませた後、僕の持っていたハンカチにミネラルウォーターを半分ほどぶちまけた。これを少し絞り、余計な水分を抜く。

「竜崎、横になれるか?」

 しばし、僕を見た後、

「……」

 沈黙ののち、頑張る、と一言言ってベンチに横になった。竜崎の顔つきは厳しくなり、呼吸はさっきとほぼ変わらず乱れたままだ。横たわる竜崎の頭を少し持ち上げ、先ほど濡らしたハンカチを二枚折にして下に敷く。竜崎が酸欠を起こしていて頭がフワフワした状態なら、冷えた布は適度に心地良いはずだ。竜崎が寝返りを打ってあおむけになると、少し腰を持ち上げてもらって、その下に僕の上着をくるんで置いた。これで少しは下半身に流れていた血が頭に上ってくれるだろう。

 とりあえずの応急処置は済ませた――適切な処置だったのかわからないが――以前、僕が酸欠に陥ったときにこの方法で体調を回復させたことがあったので効果がないわけじゃないはずだ。

 さて。

 「どうすっかなあ……」

 できればちゃんと手当てができる人の力を借りたい。たぶん体育館にでも行けばそういう事態に対応する人はいることだろう。が、この公園は無駄に広い。また残念ながらこのベンチと体育館までの距離は結構離れている。なら陸上競技場やテニスコートに、と言いたいところだがそこに管理者は常駐していない。運び込むだけならおそらく体育館よりも僕の家の方が近いぐらいだ。どちらにしても、竜崎を歩かせるには少し酷な距離になる。なら僕一人で体育館に向かい人を呼ぶという手もあるのだが、ここに弱った竜崎を置いていくのはかなり心配だ。

 最悪、救急を呼ぶことも視野に入れておくか――と考えていると、竜崎が僕を呼ぶ声が聞こえた。

「みずちょうらい。みず。アクエリゃないほう」

 と、少し呂律の回らない口で言われたので、もう一本のペットボトルを渡すと、キャップを開けて自分の頭にどぼどぼと中身をこぼした。

「ふーっ」

 息とともにお腹が大きく下に下がった。それからまた数回深呼吸をして、水をかぶった。竜崎はろれつがマシに回るようになった口で「……羽生。助かったわ、ありがと」と言った。

「どうだ、調子は。寒くないか」

「ちょっ、と、だけ。落ち着いた。寒さは……今は、大丈夫」

「誰か人呼ぶか?」

「……ううん、いい。このぐらい」

 青ざめた顔と細い声では説得力がないが。念のために携帯電話でいつでも連絡できる用意をしておいたほうがいいだろう。

「やばいと思ったら遠慮すんなよ」

「……うん」

 そう言って腕で顔を隠した。呼吸は相変わらず乱れているが、深呼吸を意識的に繰り返せる程度には落ち着いてきたようだ。

 しかしまあ、カレーの材料買って帰るはずが変なことになったな。

 いつも利用している近道を使っていると、同級生の女の子が酸欠でダウンして、気が付けば介抱してしまっているなんて。こういうシチェーション、確かこれなんて言ったか――。

 いや待て、当人の前でそんなことを考えるのは失礼だろ、僕。

 そんなことより気にかけるべきは竜崎のほうだ。いったい何をすればここまでダウンしてしまうのか皆目見当つかない。運動公園のジョギングコースのベンチでダウンしていたのを見る限り、こうなるほどに運動していたのはまず間違いない。竜崎の格好が学校指定のジャージではないちゃんとしたスポーツウェアとシューズを着用している点から、何かしら走り込みを行ったのだろう。

 その辺は後で聞きだせばいいとして、僕の関心は別にあった。

 竜崎が何故、このジョギングコースを利用していたのか、という件について。

 僕が買い物に出かけるときに使う近道がこの運動公園のジョギングコースなのだが、だからって何も買い物の時だけこの道を通っているわけじゃない。それ以外の用事でもここのジョギングコースは頻繁に利用している道だ。つまり、ここは僕の勝手知ったる場所とも言える。それに、この公園――藤柴運動公園は、僕と竜崎が通っている学校から歩いて三十分程かかる距離にある。だが、学校のすぐ近くに走り込みにより適した場所があるのだ。なのでこんな遠い藤柴公園で、知った顔がジョギングをしていたりなんかすれば僕が知らないはずがないのだ。無論、運の巡り会わせで何度も行き違いになっているかもしれないけど―――。

 しかしその相手があの竜崎葉となれば、なおのこと僕の目や耳に入ってこないとは思えない。

 竜崎葉。

 僕と同じ高校の同じクラスメイトであり、手芸部であり、クラス一の有名人だ。どれほど有名かと言われれば、一年の男子に「竜崎葉って知ってる?」と尋ねたら高い確率で「当たり前だろ」と帰ってくるレベルの有名人だ。

 竜崎がその名を轟かせたのはつい最近行われた文化祭でのこと。毎年恒例らしい校内ミスコンがあるのだが、先輩達曰く「大激戦にして接戦」と言わしめた激戦が繰り広げられたミスコンだったという。竜崎はこの激戦の渦中に知らず知らずのうちに身を置いていた一人だ。その人気はミスコン以前からファンクラブが存在しているのではないかとさえ噂されれるほど。実際、小さな顔に二重瞼の大きな瞳、少し茶色のかかった髪はどこか小動物を思わせる雰囲気がある。竜崎が人気を博すだけの理由はある。

 一年男子中の羨望――ある種欲望に満ちた―――を受けている一人である竜崎の、非常に無防備でダウンしている姿を見るのは、僕自身の感情として嬉しくないとは言えない。現に今、竜崎が横たわるベンチのそばの地べたに座り込んでいるわけだが、竜崎は汗でくっついたスポーツウェアに身を包み、呼吸によって胸を上下させている姿は妙な艶めかしささえ感じる。それを独り占めしているに等しい状態を誰かに見られたらあらぬ誤解を受けるのは必至であり、最悪その場でゴングが鳴る。

 なんて考えていると竜崎がこっちを見ていたのに気付いた。

「……ありがと。羽生……」

 考えを見透かされていなさそうでほっとした僕は、今の状態について確認した。

「しゃべって大丈夫なのか、竜崎」

「話してるほうが……ちょっとは楽になるから」

「無理すんなよ」

「……吐いたらゴメンネ」

 竜崎は息を切らしながらふふっと笑った。

 しゃべっていると楽と本人が言うので、さっきから気になっていたことを単刀直入に聞いてみた。

「竜崎、いつもここで走ってんの?」

 少し遅れて。

「……たまに……。羽生こそ、もしかしてここ、ご近所、だったりする?」

「ああ。もう少し進んだ先が僕ん家だ。その反対側、僕がさっき歩いてきたとこなんだけど、公園を抜けた先にスーパーがあるんだよ。今はその買い物帰りだ」

「おつかい?」


「まあ。ちょっとご飯作ろうかと思って」

「……料理、できるんだ……以外だ」

「簡単なカレーだよ。野菜斬って、煮込んで、ルゥ入れて煮込むだけだから簡単だぞ」

「へえ」

 若干、竜崎の声のトーンが上がった。話題に切り込めそうだ。

「竜崎、カレー好きなの?」

「甘口が。……何? 私が甘口、好きなのって、変なわけ?」

「う、うん? 意外って訳じゃないけど。僕が買ったのが甘口だったからびっくりしただけだ」

「ふうん……。まあ、いいけど……。じゃあそこに、置いて、ある袋、カレー、の材料、入ってんだ。けど、にしては、量、多くない?」

「カレー以外の材料も買ったから、ちょっと重いかな」

「あっ、そっか。だよね」

「……」

「………」

 この沈黙。

 話題が続かない。なんということだ。

 だが当然の状態だろう。何せ入学して約半年、この竜崎葉という女子と交わした言葉は少ない。クラスこそ同じだが、連絡やクラス行事で少しだけ話す程度で世間話などしたことはないし、話せばその瞬間一部男子から「お前も竜崎狙いか」なんてはた迷惑な嫌疑をかけられてしまう。人気者とは困ったものだ。そもそも女子と話すのは苦手だ。共有できる話題をほぼ持たない僕なので、女子と仲の良い男子の話術には尊敬の念さえ覚えてしまう。共通の話題になりそうだったランニングと、カレーもあっという間に打ち止めになってしまった。これは困った。竜崎は言葉を交わしている方が楽だと言ったのに。

 もう少しカレーの話題を引っ張れないだろうか。

「竜崎ってさ、カレーに入ってたら嬉しいモノってある?」

「……肉……。豚肉……が入ってたら、いいな」

「そ、そりゃカレーだから肉入れなきゃいけないけどさ……」

 聞きたいのはそういうことじゃなくて、一般的なカレーの具材以外にも欲しい具はないのかってことなんだけど……。

「牛肉、より、豚肉の方が、おいしいもん……。それに、牛肉より、安いし、作りやすいから……」

「まあ確かに油に臭みがないから使いやすいかなあ。豚肉は他の料理にも使いやすいしな」

「カレーの、他にも、作れるの?」

 おお、これは思わぬ助け舟だ。ひょっとしたらここからトークにつながるかもしれん。

「シチューとか、肉じゃがとかは使う材料同じだし、応用で。あとひき肉も買ったから、ハンバーグとロールキャベツも作れるな」

「……おお、女子力高ぇ」

「生活力って言ってくれよ。そういう竜崎こそ、何か特異な料理とかないの?」

「私か……野菜炒めとか、しゃぶしゃぶとか」

「……うお、女子力低っ」

 なんだよしゃぶしゃぶって。それこそ材料さえあれば料理を習っていない子供でもできるものじゃないか。

「ぅるさい」 

 そう言うと竜崎はくすと笑った。まだ息が苦しいのか、すぅはぁと時折大きく呼吸をしている。しばらくして空気を吸う音が小さくなり、竜崎が体を起こそうとした途端、ばたんとベンチに体を預けた。

「お、おいホントに大丈夫か?」

「……ちっと、きつい。頭、ふらっとする。貧血かな」

「やっぱ誰か呼ぶか?」

「う、ううん。そんな、大げさな。だって、これ……。私の、自爆、みたいなものだし。それに、あんま、動きたく、ない。動くと、吐くわ。羽生がどっか、行っちゃうのは、嫌だし」

 ……これは、いかん。

 竜崎が弱り切っているのに……いや弱り切っているからか、この状態から発せられた最後の一言に余計な感情を抱いてしまった。ああ、ばかか僕は。深読みするな。僕だって道端でぶっ倒れて知り合いに介抱してもらったなら、短時間とはいえ一人にされるのは嫌だろう。と必死に思っていても視線は完全に竜崎から泳いでしまう。

 気取られないうちに勢いで話を続けてしまおう。正直今の体で話させたくない話題なのだが、なるべく早いうちに訊いていた方が何かあったときのためだ。

「なあ。こんなになるまで何してたんだ? ただ走っただけじゃないよな」

 深呼吸を繰り返しながら竜崎は答える。

「笑わないで、聞いてね」

「ああ、わかった」

 ほう、笑うような理由なんだな。

「……私、あまり、体力なくって。……で。体力つけ、ようかな、って。けど、体力ないの、みんなに、バレるの、嫌だったから……」

「そんな恥ずかしいことか?」

「ううん。……ほら、あるじゃん。来月の、頭に。体育祭の、マラソン大会」

「ああ……そういえばそんなのあるなぁ……。まったく誰が考えたんだろうな。体育祭の二日目にマラソン大会を企画したのは」

「それ言うなら、学園祭から、一か月後に、体育祭、なんて、やろうとする、学校が、問題よ」

 ウチの学校の体育祭は異色だ。他の高校なら体育祭は一日で開会から閉会まで終わらせるものだと聞いているが、ウチは期間が二日も設けてある。一日目は他の学校がやっているような運動会的な内容なのだが、二日目は学校周辺約20㎞を全校生徒で走るマラソン大会が行われることになっている。休日を利用して行われるため、平日の二日間は学校が休みになるのだが、生徒にとっては体をさんざん動かした翌日のマラソン大会は死人に鞭打つ、もしくはとどめの一撃のようなものだ。一説によれば、一日目の疲れが取れない先生達が、合法的に平日の二日間に休暇をとるために考え出されたものと言われている。

「私も、その説、あってる、と思ってる。先生達って、どっかで、椅子でも、拵えるか、車かバイクに、座って、誘導すると、思うし」

「これって先生たちは実質三日も体を休ませてることになると思わないか? 誘導監視もそれなりに体力使うだろうけど、二〇キロ走ってきた生徒よりマシだよ」

 先輩から聞いた話だと、運動していない生徒にとってはこの二日間は強烈に足に来るようだ。人によっては二日間の療養期間では足の疲れが取れないのではとまで言われている。しかし先生たちは一日目の疲れをその日の夜から四日かけて癒すことができる。これが本当なら企画者は実に狡猾だ。

「だから練習、してるの。ここ、マラソンのコースじゃ、ないし」

「まあ、遠いもんな藤柴は。でも学校から歩いて三〇分だし、別に悪い位置にあるってわけじゃないと思うけど」

「……だって、そりゃ、公園なんか、コースに使うわけ、ないじゃん」

「え?」

「たくさんの生徒、こんな公園、通ってたら、他の人、迷惑じゃない。だから公園って、基本的に、マラソンのコースに、含まないのよ」

「ああ、なるほど」

「だから私、練習、できてたんだけどね。無茶、したけど」

「無茶?」

「野球部の男子が、休日に、自主的にやる、メニュー借りて。それ、参考にして、やったんだけど………見る?」

 スポーツウェアから引っ張り出された小さな紙をぴっと見る。おおよそ女子には向かないメニューだとすぐにわかった。なぜ水分補給用のペットボトルさえ用意せずに行ったのか。

「そら倒れるって……なんでこんなのやったんだよ」

「やれそうと思った」

「だからって内容考えようよ……。そう思ったってことは竜崎って体力に自信があるのか?」

「ううん、その逆。だって、私。400m走、一回で、ぶっ倒れて、吐くぐらい、体力ないから……。練習しても、体力がつくには、二ヶ月から三ヶ月は、必要だって。けど、二、三か月の分、何週間でやらなくちゃって、思ったら……つい」

「んな簡単に体力つくなら野球部は何者だよ……。400mで吐くならこの練習メニューは無理だ」

「えぇー……。適度に休憩、取っちゃえば、どうにかなるって、思って。軽くストレッチ、して、メニューの最初の、ランニング、八キロから始めたん、だけど……」

「無茶しすぎだ!」

 ストレッチをした後に、八キロ走り出す前に、どうして自分の体力のなさを考慮しない!

「で、五キロぐらいがんばって、羽生に、捕まった」

 完走さえしてねえ。

 本番の四分の一でこれでは先が思いやられる。

「……つってもまあ、僕も人の事笑えないんだけどな。運動なんかさっぱりやってないし」

 一応学校までは二〇分も歩けば到着するのだが、これは運動と言えるのだろうか。他にもずっと長い距離を自転車や徒歩で通学していそうな生徒はいそうだし。中学も運動系の部活に所属していなかったので、基礎体力は平均以下だろう。僕は勿論、竜崎も。

「すごいな」

「何、が……?」

「運動部でもないのに、ぶっ倒れるまで体を動かすところがさ。マラソンなんかのために一か月前から体力つけるなんて、僕なら絶対やらない」

 たかだか一日二日の体育祭、適当に走るどころか歩いていて文句を言う奴もいなければ、特に記録に残るほどのものでもない行事に向けてエネルギーを蓄えておく発想は、あるにはあるが実行する気はない。僕なんかが全力で走ったところで運動部ひしめくトップランナーに食い込む余地はないだろう。そんな考えを見透かしてか、竜崎は腕の下からちらりと顔を窺わせ、落ち着きつつある呼吸と共にゆっくり言葉を返した。

「羽生って、手抜きする、タイプ?」

「手抜きっていうか……やる気が起きないんだ。確かに体力があればマラソン大会でバテにくくなると思うけど、それでも疲れるものは疲れる。部活動やってる連中がみんなマラソンを真面目に走るわけないし。どうせ疲れることをするなら本番の一回だけで済ましたいんだ。竜崎には悪いけどぶっ倒れるまで練習するほどの意義があるようには思えないんだよ」

 僕からすればたかが体育祭のマラソン、一生懸命にやって何を得るというのだろう。

 マラソンとは孤独との戦いだ。走るときは大勢でも、次第にたった一人で走るようになる。仲良しの集団をつくって走るのもアリだと思うけどそれは一時的なもの。ハーフマラソンに匹敵する距離を仲良しこよしで走り切るのは難しく、結局一人で最後のゴールテープを切るのだ。

 しかし竜崎の考え方は違っていた。

「……私、その考え、あんまり好きじゃない……。せっかくの学校行事だし、私は、楽しみたい。だから、ちょっとでも体力付けて、くるしかった、疲れた、って思うだけの、マラソンにしたくないんだ。ほら、ウチの学校、体育祭の、後夜祭みたいなの、ないから、その、マラソンがさ、体育祭の締めになるわよね。だから、途中で嫌なことがあっても、苦しいことがあっても、終わりよければ、全てよし、ってね。羽生みたいに、ただ疲れるものだって、思って、体育祭、終わっちゃうのは、もったいない、気がするの」

 絞り出すように言葉を送る。

「あと、体力がないの、なんとかしようって、前々から、思ってたから……。いい機会だなあ、って。羽生も、そんなこと言ってないで、近くに、こんな良い公園、あるんだし、どう?」

 走ってみたら?

 という、言葉に出さない提案。

 竜崎の考えていることは一理ある。いや、むしろ感銘を受けたとさえ言っていいかもしれない。僕の意見とは正反対のはずなのに、反対意見が出ないのだ。

 少しだけイメージする。学校のグラウンドを少しだけ走って、校門を出る。ここから先の通学路としてよく知る公道は、これから約20kmを走るためのレーンとなる。市街地を駆け抜け、大通りをひた走り、幹線道路を沿って行く。学校を始点として円を描くように走るので折り返し地点はない。ぐるり、と回るだけの平坦な道。そこを気怠そうに進んでいく僕と、体育祭の思い出とともに突き進む竜崎。

 その時、僕と竜崎の見る景色は違っているのだろう。

「……けど、単純に時間がないんだよ、僕は。一人暮らしだから」

「一人暮らしなら、時間、余ってるんじゃ……ないの?」

「思った以上にないんだよ、これが。学校から帰ったら炊事、洗濯、掃除、買い物、一個一個やって勉強してたら真夜中ぐらいしか走れないし、生活費稼ぎにバイトも入れてるから」

「なら真夜中か、休みの日に、走ればいいじゃない」

「……暗いトコ苦手なんだよ。僕の住んでるとこって夜になったら電灯少ないし、人の往来も少ないから真夜中の外出はすげえ怖いんだよ。お化け屋敷とか行きたくないし……っておいこら笑うな!」

「ゴ、ゴメン。まさか高校生にもなって、暗い場所が苦手だなんて。思わなくて……」

「……さっき笑わないでやったのに」

「だから悪かった、ってば。休みの日は?」

「時間はあるけど、洗濯物が増えるだけだと思って運動してない」

「一人暮らし、だもんね……。って、一人暮らし? えぇっ?」

 やっと食いついたか。あまりのスルーっぷりに、高校生の一人暮らしは最早スタンダードなものになってしまったのかと一瞬思ったぞ。

 驚く竜崎にその事情を話す。時は中三、現在通っている高校への進学を考えていたときのことだ。そこは実家から通うには通学距離的に問題があり、通学には一人暮らしをすることを強いられる。どうしてもその高校に行きたかった僕は一人暮らしをさせてくれと親にゴネにゴネまくった。合格できたら認めてやるという両親の承諾を得てギリギリの点数で見事合格した結果、半ば勘当された形で家から追い出され一人暮らしを送ることになったのだ。高校無償化の恩恵で学費が浮いたことで、携帯電話代と家賃の七割を親に負担してもらっている。まあ、いつでも電話も住まいも契約切ることができるぞ、という脅しを含めた援助だろう。後は自分で生活できるだけのお金を稼がなければならない。

「ひでえ親もいたもんだ。二人とも公務員なんだから金の心配はないだろうに」

「い、いやあ、親と揉めたのは、お金の問題じゃなくて、羽生が、心配だったのよ。きっと」

「いーや、心配なら夏休みの一日ぐらいウチにやってきてたはずだ。なのに学校の行事連絡ぐらいしか通話しないんだぜ、この家族。きっと移動費をケチっているに違いない」

「どんな親よ。ああ、笑ったら少し気分がよくなった」

「起き上がれそうか?」

 やってみる、と言って体を起こしてベンチに座った体勢に移った。が、まだ気分が悪いのかすぐにくらりと横になる。それから数分ごとに起き上がっては横になる行動を続けていた竜崎は、やっぱり体育館あたりで係の人に手当をしてもらうべきだ。秋の中ごろとはいえ冷たい風が横切る公園で、ひんやりとしたベンチに寝かせ続けるわけにはいかない。なので、竜崎と交渉に入らねばならないのだが………。

「やだ」

 さっきからずっとこの一点張りだ。

「だから、私は大丈夫だってば。ちょっと体勢を立て直すと、頭くらっとするけど……それ以外は」

「竜崎見てたら心配になるんだよ。今はまだマシかもしれないけど、これ以上ここにいたら必要以上に体温奪われるぞ。つーか僕もいい加減寒いから中にいたい」

「何言ってんの、羽生。そんなシャツ一枚じゃ、寒いに決まってるじゃない」

「誰のために上着を脱いだと思ってる」

「え」

 僕が指をさしたことで、ベンチに挟まれていた布の存在をようやく認識したようだ。竜崎は慌てて布の塊を抜き取り、うわぁごめんと一言言って差し出した。受け取った上着は一部が汗でかなり濡れていて、着るとなると少し問題があるかもしれない。

「臭いとか、嗅いだら、コロスから」

「僕にそんな趣味はねえ!」

 噂のファンクラブとやらの会員がいるなら、汗で濡れた部分を切り取って売れば高く買い取ってくれそうだ。もとは僕の上着とはいえ野口さんか守礼門一枚ぐらい出してくれるかもしれない。一瞬どうしようかと悩んだが、よれよれになった上着をぱたぱたとはたいて汗と臭いを飛ばし、竜崎の体に被せた。

「とにかく! 僕ももう寒いし、人呼んでなんとかしてもらうから!」

「だからそれが、嫌だって……言ってる、のに……。察してよバカ」

「えっ」

 これは……その。へっ?

 何だこの展開。さっきも思ったがこれなんて―――ああ、エロゲだっけ? これなんてエロゲ? そうそう、これなんてエロゲ?

「あっ……いや、その、そういう気があって言ったんじゃなくて、その」

 向こうも自分が放った言葉がどんなニュアンスを持っていたか察したようだ。青ざめた顔に少し朱が戻る。気分が悪いのか、気まずいのか、たどたどしく言葉を探している。リアクションこそ小さいものの、慌てているのは一目瞭然だ。

 ところでこれ、遠回しに眼中にありませんって言われてない?

「そう、じゃなくて、この、汗よ汗! 羽生はもう仕方ないけど、こんな、汗ぐっしょりで、誰かに介抱、されたくない……」

 なんだ、そんなことか。僕には理解できないが、きっと女子にとっては大問題なのだろう。

「羽生。ジョギングコース、ここから、逆走したとこに、ある、自販機の、裏。テニスコート入り口の、そばに。ミズノの、袋があるん、だけど。あれ、私のだから、取ってきて」 

「おいおい、荷物放置したままなんて不用心だな。盗られたらどうするんだ」

 竜崎はスポーツウェアのポケットから小さな鍵を取り出した。「コインロッカー、あるから」と言って僕に鍵を渡す。

「中、見ないでね」



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