非現実の一部
「はあっ、はあっ」
しつこい。『天使さん』の体力は底無しか?
疲労を滲ませながら駅前の噴水広場を抜けると、数本もの閃光が恭子の脇をかすめていった。邪気が不安定なことから大した奴ではないとわかっていたが、直撃をくらえば重傷を負うことは必至だ。
必要最低限の動きで『天使さん』の攻撃をかわしながら、大時計台を横手に改札へと向かい、人だかりの中を強行突破する。何も知らない駅員さんの制止の声が背中にぶつかったが、気にせずに走り抜けた。階段を駆け上がり群集を掻き分け、一気に下る。すぐに反対口の改札へ。ここも構わず突破して、活気溢れる商店街通りへ向かう。朝市はとっくに終わっているはずだが、案外混雑していた。
近道を思い出して途中の路地を右折する。電車が通過する轟音を耳にしながら、線路沿いを真っ直ぐ進んで−−
「……工場中、通行止め?」
足が止まってしまう。真後ろに邪悪な気配。
−−しまった。
そう思った瞬間、強く腕を引かれた。
「へっ……?」
倒れ込みそうになりながら振り向くと、霊剣を手にした恭也の姿があった。
「こんなことだろうと思ったよ。武器なしで廃工場まで来れるわけないだろ」
恭子の前に立って『天使さん』と対峙する。守られるのは初めてかもしれない。
先に動いたのは恭也だった。霊剣と『天使さん』の腕がぶつかり、その中心で光が弾ける。どちらかが吹き飛ぶことはない。力が均衡しているようだった。
霊剣の能力は、使い手の霊質に比例する。霊力が強いほど威力が増し、霊圧が強いほど結界の強度が上がるのだ。ちなみに結界とは、霊剣が生み出す青白い対邪障壁のことで、使い手の意思により発動させることが出来る。
恭也の霊力はそれなりに強いのだが、霊圧が不安定で弱い。そのため集中攻撃を受けると、簡単に結界を破られてしまう。
負荷に耐えかねて結界が軋み出した。
「走れっ!」
不利を悟って、恭也が叫ぶ前にその場を逃れる。
いまさらながら、自分自身に憤りを感じていた。いつもの挨拶だけでなく、武器まで忘れてくるなんて。注意力に欠けているのにもほどがある。
背後で斬り結ぶ恭也を気にしながらも、恭子は廃工場へと走った。
「それで……?」
二人は無事に廃工場まで辿り着いていた。どうにか『天使さん』を振りきった恭也とポカミスに沈む恭子。普通に考えれば、高校生が真剣を持ち歩くことの方がおかしいのだが。
「んっ?」
「時間……さっきから時計を気にしすぎ」
「……そうか?」
「現れてからどのくらい?」
恭子の問いに、気まずそうに恭也が答える。
「……もうすぐ二時間」
「…………」
「…………」
二人の視線の先に、姿形を崩しつつある『天使さん』が現れた。
「あれ、実体化するの?」
霊剣を持っているのは恭也ひとり。普段はペアで動いているのだから戦力は半分−−いや、それ以下だろう。恭子は唯一の法剣の所持者であるからして。
「……頑張って」
邪族は霊体のままであれば、それほど驚異ではない。視える人以外に攻撃をしない−−それなりの霊質にしか惹かれないからだ。しかし、いったん実体化すると話は違ってくる。生命力そのものを求めて、ところかまわず暴れ出すのだ。かわりといってはなんだが、一応物理攻撃が効くようにはなる。
恭子はかばんを木陰に置いて、細い鉄パイプを手にしていた。少々心許ないが、霊媒として使えば、なんとかなるだろう。
「来る!」
完全に実体化した『天使さん』は、羽もなく浮きもせず、地を這うただの化物だった。
邪族の突撃のタイミングを計って左右に散る二人。それを見ようともせず、邪族は全身から触手を伸ばしてきた。硬質な感じがするが、柔軟なそれは際限なく伸びる。
「くっ」
時間差のある攻撃を軽やかなステップでかわし、打ち払った。
恭也の方は霊剣の結界で弾きながら、次々と触手を斬り払っており、一見押しているように見えるが−−
「な……早い!?」
邪族の再生スピードの方が上だった。なおも触手の追撃は続く。
持ち前の動体視力を駆使して軌道を読みつつ避けながら、弱点を探す。無いものねだりなんかしていられない。どうにか霊剣一本で滅ぼす方法を見つけなければ。
邪族の動きは恭子も恭也も見切っている。触手も再生しているだけで、増殖はしていない。左右合わせて三十から四十くらいだ。それが物凄い速度で伸びているから無数に見えるのだ。
狙いは本体の中心にある核と呼ばれるもの。この核さえ破壊すれば邪族は自動的に消滅するが、迂闊には近づくことすらままならない。
「恭也……これ、どうやったら止まるの?」
絶望的に呟く。結局いい案は浮かばなかった。
「……わからない。すぐに祐里姉が来るはずだけど……」
その言葉に一筋の希望を見出だして、すぐに打ち消す。
祐里は御神三家の支部の副司令官だ。色々と忙しいだろうし、そうそう呼び出せるはずがない。たとえ増援が来るとしても、長時間持ちこたえるだけの体力もなかった。
一瞬足が止まったところに全方位から触手が襲いかかってくる。いつのまにか、ほとんどの触手が恭子の方を向いていた。
前後、左右、上下−−逃げ場はない。
そこに恭也が強引に割り込んできた。
「ぐっ……」
「恭也!?」
「早く出てくれ!」
結界の発動とともに包囲から外れ、後ろに跳んだ。そこでやっと隙を見つける。
いくら触手が高速でも、邪族自身は恭子たちよりも遅いのだ。そのため離れた相手に攻撃をするときには、触手を長く伸ばさなければならない。そうすると必然的に本体との間に空間ができる。そこを上手く利用できれば、あるいは−−
問題は、触手を戻されるのと恭子が核を破壊するのと、どちらが早いかということだが。それは恭也におとりになってもらうしかないだろう。
「恭也、霊剣貸して」
距離を取って手短に説明する。かなり無茶な作戦だが、すぐに頷いてくれた。
「……わかった。でも相当早いぞ、あれ」
「けど、やるしかないでしょ」
威嚇のためか、数本の触手が伸びてくる。恭子も恭也も動かない。
「ふうっ……」
ゆっくりと息を吐き出して、霊剣を突き出す。
「対邪障壁、発動」
意思に反応して青白い輝きが生まれる。恭也のそれよりも遥かに強大なエネルギーは、襲いかかってくる触手のことごとくを焼き払った。
呻き声を発して邪族が無数の触手を伸ばす。そのすべてが結界の一点に集中し負荷が強くなるが、わざと押し返されるように後退する。準備は整った。
「行くよ」
背後の恭也に宣言して、横へ跳ぶと同時に結界を解除する。行き場を失った触手はそのまま前方の恭也へと殺到した。
恭子は身をかがめて本体へ走る。数十メートルの距離。
霊剣に付加されている能力は二つしかない。それが対邪障壁と霊圧力波で、一般に結界や衝撃波と呼ばれているものだ。
核の位置を確認して衝撃波を打ち出す。わずかに狙いが逸れて肩口を傷つけたが、邪族も動く様子がない。恭也が頑張っているようで触手はまだ戻ってきていなかったが、何かがおかしかった。しかし、直感に確信を持ったときにはもう手遅れだった。
眼前に深い黒色のエネルギーが収束する。中位以上の邪族にしか使えない能力だ。
「なっ……アークエネミー!?」
振り抜いた霊剣と黒球がまともにぶつかる。結界を発動する余裕はなかった。
白と黒の光が弾けて吹き飛ばされる。大樹に身体が叩きつけられ、全身−−特に下腹部に強い衝撃が走った。
「くっ……はふっ」
「恭ちゃんっ!」
「はあ、はあ……女の子の身体に……なんてことするのよ」
人の言葉を理解できない相手だとわかっていながら、つい口に出ていた。
「あうっ……」
すぐに立ち上がろうとして、強烈な痛みと眩暈にその場で崩れ落ちてしまう。
視界を揺らしながら、這うようにして触手を避ける。霊剣は手の届かないところに飛ばされていた。恭也も避けるのが精一杯で助けには来れそうもない。
「やだ……」
−−こんなところで終わるのは嫌だ!
気力を振り絞ってなんとか立ち上がったとき、目の前で金色の長髪が揺れた。
「あ−−」
「鳳凰二刀流−−桜花乱舞」
女性の左右に構えられた二本の霊剣が、凄まじい速さで振るわれる。周囲の触手をことごとく薙ぎ払い、ついで腰に差していた長剣を恭子に向けて放り投げた。
痛みは残っていたが身体は反射的に動いていた。
鞘を左手で掴み、右手を柄にかけたままで、邪族のふところに飛びこむ。
抜きざまの一撃。本体を斬り上げ、核を叩く。紙一重でかわされるが、足元を薙いで体勢を崩すと、さらに手首を返して横に一閃した。
核に亀裂が刻まれ邪族が地に伏せる。それでも最期の抵抗とばかりに、再生しかけの触手を伸ばしてきた。
「うーん、惜しい。もうちょいだったわね」
透き通った呟きとともに後方からナイフが飛来する。それは狙い違わずに邪族の核に突き刺さった。粉々に割れた核は一瞬で塵と化す。
「……祐里さん」
「珍しいわね、恭子ちゃんが恭也と一緒にいるなんて。任務中って訳でもないのに」
恭子と恭也と崩れ滅びゆく邪族を見ながら、祐里は笑った。
金髪のよく似合う女性で、恭子とは真逆のタイプ−−美人系のお姉さんだ。二十四歳だというから、恭也とは七つも離れた姉弟ということになる。
「わざわざ、ありがとうございます−−助かりました」
自宅に置き忘れたはずの法剣を手にして、恭子は頭を下げた。
「いいのよ、別に……どうせ暇だったしね」
本当のところ暇なはずがないのだが、素直に感謝した。恭也に事情を聞いて、家から持ち出してきてくれたらしい。元々自宅の鍵は預けてあるから問題はないが−−
「法剣、忘れないようにしなさいよ?誰が狙ってるかなんて、わからないんだから」
真面目な表情で祐里は恭子をたしなめた。
「……はい」
「恭ちゃん!祐里姉!……大丈夫か?」
恭也が駆け寄ってきて、心配そうに顔を覗きこんでくる。思わず赤面してしまい、よくわからない感情を抱きながら、恭子は顔を背けて目を逸らした。
「まったく、大丈夫か……じゃないわよ。単独任務だったのに、結局恭子ちゃんを巻き込んでるじゃない。実力が足りない証拠よ!」
「言われなくてもわかってるよ、それくらい!自分でも自覚してんだから……」
「だいたいね−−」
姉弟の口ゲンカを聞きながら、大樹の根元に座りこむ。痛みとともに急に疲労感が押し寄せてきて、景色がかすみ始めた。昨日も夜に任務があって寝不足気味だったから、疲れが取れていないのかもしれない。
恭子は太い幹を背もたれにすると、しばしの平穏に身を委ねた。