邪なる者たちの血族
「ふわぁぁぁ……眠い」
春の陽射しは暖かく、風は心地良い……花粉症が曲者だが。
少し遠くに駅前の大時計台が見える。家を出てから既に三十分近く経っていた。少し考え事をしていただけで、このありさまだ。家とこの丘は、ほんの数分の距離なのに。
星降りの丘と呼ばれるここは、恭子のお気に入りだった。昼寝をするにも、天体観測をするのにも絶好の場所だ。そして、南側には広大な海が見える……はずなのだが、残念ながら海沿いが曇っているらしく、水平線を臨むことは出来なかった。ちなみに、北側には街の双峰がそびえている。名前は忘れたが、霊山だということだけは覚えていた。
「…………」
ご利益があるのか分からないが、とりあえず手を合わせて拝んでみる。願い事は湧いて溢れるほどあるが、それは欲張りというものだ。信じてはいないが、罰が当たるかもしれない。
「……今日も生きていられますように。それから……蒼司と巡り逢えますように」
無意識に瞑っていた目を開けて、辺りを見まわす。
特に異常はない。誰かに見られていた気がしたのだが−−
「気のせい……かな?」
一人納得して、恭子は丘を下っていった。
* * *
「んっ?」
手元で着メロが鳴った。聴き慣れたメロディーだが、曲名は知らない。
かばんをごそごそと漁ると、細い指先がバイブの振動を感知した。その物体を取り出して、液晶画面を見る。
着信。発信者、風見恭也。
「…………」
出ようか出まいか逡巡したが、仕方がなく通話ボタンを押す。
たとえ相手がどんな人でも−−『恭子と恭也で恭つながり』とかいう訳のわからない理由で組まされたペアの相方だったとしても、一応は組織の人間だ。出なければなるまい。
「……もしもし」
『あ、恭ちゃん?電話出るの、遅かったな。どうかした?』
「別に……なんでもない」
この『恭ちゃん』というのは恭子のことだ。恭也には『恭くん』と呼んでほしいなどと昔に言われた記憶もあるが、一度として呼んだことはない。子供っぽくて恥ずかしいし。
「それで……なんの用?」
ぶっきらぼうに聞くと、不満そうな嘆息が届いたが、無視した。
恭也と話すのは不快ではあるが、苦痛ではない。ただ自分ではわからない、もやもやとした感情が心の奥に住みつこうとするのが嫌なのだ。
『いま、どこにいる?』
「……学校」
『その辺で天使さん、見かけなかったか?』
「……だから、学校……」
『この時間は授業中だろ。それに騒音が聞こえてる』
「…………」
完璧にばれてる。それに一方的だし。
「はあ。とりあえず市内にはいるけど?天使さんって……何?」
厄介ごとはなるべく避けたかったが、諦めて話を聞いてあげることにする。
『人間と同じくらいのサイズで、光ってる奴。駅のほうに逃げたはずなんだけど』
「……逃げた?」
精神を集中させながら、駅前へ歩いていく。特に目的もなかったから、暇つぶしにはなるだろう。恭也一人ってことは、研究部のモルモットかなんかだろうし。
『いや、逃げたっていっても逃がしたわけじゃなくて。ホントもう少しだったんだけど』
「ふぅん」
『……信じてないな。事実だけを述べるとだな−−』
「待って」
恭也の弁解を制して、足を止めた。
歩き始めてすぐ、大通りへ出るところの曲がり角にそれはいた。確かに光ってるし、浮いてるし、羽も生えてるけど−−
『いたか?』
「いたけど……お願いだから、邪族って言って」
正式名称は『邪なる者たちの血族』とかいう長ったらしい名前なのだが、言いにくいので略して呼ぶのが普通だ。
姿形こそ天使だが、それはひどい邪気を周囲に放出していた。
『気にするな。それで……そいつ滅ぼしてくれない?』
「……街中で?」
『うっ……』
「つまりは任務に失敗したと?」
『ち、違うんだ!本当にもうちょいだったんだけど』 邪族の前だというのに、恭子は思わず苦笑してしまった。『だけど……』は恭也の口グセだった。自信のないときは、いつもそういう言い方をする。
「ま、そこはどうでもいいけど。要は私を後始末に巻き込もうって訳ね?」
『うぐっ……ごめん』
「菓子パン十個」
問答無用で処分を下す。いつもだったら平気で百個とか言うのだが、なんとなく気分が良かったので今回は軽くしてあげた。
『えっ?』
しかしそこで素直に頷けばいいものを、人の好意を無駄にするバカがいた。そんなに意外だったろうか。
「……不満なの?」
『い、いや。そんなことないけど−−』
なんかムカついてきた。
「百個に決定」
『え、ちょっと……!』
「…………」
『…………』
「…………」
『……了解』
まるで返事を待っていたかのように『天使さん』は動いた。
武器は−−ない。
「逃げるしかないか……」
どこか人のいない広い場所へと誘き寄せなければいけない。けど、丘は汚したくないから、他に−−
「−−恭也、聞こえる?」
走り出しながら、携帯電話に呼びかける。
『聞こえてるよ、どうした?』
邪族は一般人には視えない。だから、この光景を外から見たら何事かと思うだろう。近所の高校の制服を着た少女が、飛んだり跳ねたりしながら携帯片手に全力疾走しているのだ。自分がそれを見かけたら、きっとこう思う。ああ、もう季節の変わり目かぁ、と。
「私、いま武器がなくて……邪族を郊外の廃工場まで誘導するから、恭也も向かって」
『わかった』
返事を聞いて、恭子は電話を切った。片手が塞がっている状態はさすがにつらい。
肩越しに『天使さん』の姿を確認して、恭子は盛大に溜め息をついた。
「なんで、朝から追いかけっこしなきゃならないのよ」
その疑問に答えてくれる人はいなかった。