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僕は人の顔を覚えることが苦手だ。
顔と名前が一致するのにどうしても時間がかかってしまう。
だが、その声を発した少女が水瀬奏であることを僕はすぐに理解できた。
今日初めて出会った人間をこうも早く覚えたのは僕の中では異例の事実だった。
同時にそれは彼女の存在が僕の中で大きな影響があることを証明しているわけでもある。
彼女は月の光を背に僕を見つめていた。
今すぐにでも彼女の視線から逃げ出したくて仕方ない。
それでも話しかけられてそれを無視するわけにもいかなかった。
「こんな時間に奇遇だね。水瀬さん……だっけ?」
だから僕はわざとうる覚えのフリをした。
どうしても水瀬奏という存在が僕の中では取るに足らないものだと彼女自身に思わせたかったからだ。
けれど、実際に目の前にいる水瀬奏は形だけの微笑を浮かべていた。
彼女の笑みはまるで僕の浅ましい思考を読み取り嘲笑っているようにしか思えなかった。
「ええ、今日は気分が良いから散歩でもしようと思ってね。それで此処まで足を運んでみたのよ」
「気分が良いから散歩ね……なら僕と一緒だ」
無論、嘘だ。
僕はむしろどうしようもなく不機嫌なときに散歩をする。
そしてその不機嫌の原因である彼女が目の前にいるだけで、先まで落ち着いていた心にまた黒く澱んだものが湧き上がってくる。
恐らく、彼女もまた僕に嘘をついている。
確証などないただの直感でしかないが僕には何故かそう思えて仕方なかった。
「そう、偶然もここまでくると必然に思えてくるわね。なら偶然ついでに少し話しましょうよ」
彼女自らそう持ちかけてくることは予想の範囲だった。
彼女は僕がこの誘いにのるに違いないという確信しているだろう。
布石はすでに置かれている。
現にあの発言が僕の心を束縛している。
全てが彼女の思惑通りなのだろう。
僕はそう思いながら了承した。
「なら、聞きたいことがあるんだ」
「あの時の会話でしょ?」彼女は笑みを崩さずに言う。
彼女は分かっていた。
否、それ以外の質問は有り得ないと確信していた。
腹立たしいが僕は否応なく彼女の思惑に従う。
「水瀬さん言ったよね。僕のことを分かった気がするって、あれはどういう意味?」
「どういう意味も何も、そのままよ。貴方という人間がどこまでも他人に興味のない人間だってこと」
彼女の言葉に僕自身が塗りつぶされていく。
彼女の思い描く色に僕が染められていくのだ。
僕はそれが耐えられなかった。
「君に何が分かるんだ。あの程度のことで僕を勘違いしないでくれ」僕の口調が少し荒くなる。
「なら、どうしてそんなに怒るの?どうでもいい発言なら笑って一蹴すればいいのに。図星をつかれて慌てているように見えるわよ」
確かにその通りだ。
いつもの『僕』ならばそうしているだろう。
だが、それが出来ないほどに彼女は僕の内包する思いに侵入してきた。
慌てているのは僕自身が一番よく分かっている。
「君は勘違いしているよ。あの時、僕は何も聞こえなかった、それだけのことじゃないか」
「聞こえなかったんじゃない。聞こえていたけど気にならなかったんでしょ?」
僕の言葉に自身の想像を重ねて言及してくる。
だが、その想像は彼女の妄想であると同時に僕の真実にほかならない。
僕はあの時、確かに騒音が聞こえていた。
それでも、僕自身に影響のあるものではないとすぐにそれを切り捨てた。
気にする必要はない。
僕には関係ない。
僕に関係ないのであればその騒音は聞こえなかったのと同義だ。
そう脳内で司令が起こり、彼女から聞くまでその記憶を忘却していた。
だからあの時、僕は正直に聞こえなかったと答えたのだ。
「そんなことないよ」それでも僕は嘘を上塗りした。
だが、その嘘を彼女は一瞬にして見透かし、一言「嘘つき」と僕に放った。
その言葉を最後に僕達は沈黙した。
木々がざわめく音がよく聞こえる。
本来の時間と体感している時間にヅレが生じてくる。
その沈黙はとても永久に続くのではないかと思うくらい長く息苦しい。
「……今日はもう遅いからそろそろ帰るわね」
彼女の言葉が沈黙を破る。
その瞬間、僕を縛っていた鎖が緩まる。
僕は心の底から安堵した。
「また明日ね白河君……」彼女はそのまま闇の中に溶けていく。
意地悪な彼女の言葉が僕の耳に侵入し、疑惑を確証に導く。
水瀬奏は僕の浅ましい考えなど手に取るように分かるのだ。
僕はただ震える。
ベンチの下にいた黒猫はいつの間にか姿を消していた。