12
「良かった、今年は新入部員いないんじゃないかってひやひやしてたんだ」
目を細めながら女生徒は僕の手を引っ張りだす。
室内の奥まで連れていくと彼女はホコリを被った椅子を取りだし、僕を無理やり座らされた。
「私は二年生の雨宮。よろしく、ああ、白河君は自己紹介しなくていいよ、さっき名前見たから」
早口のまま自己紹介をされる。僅かながらその顔には興奮の色が見えた。
彼女の発言から今年の新入部員は僕以外まだいないのが分かった。
だがそれは当たり前だな、と感じた。
異臭が漂う室内に長らく放置されてきた画材がそれを物語っている。
部屋の照明も薄暗く、とても寄り付きたくなるような空間ではない。
「白河君は経験とかある?」
「まったくないです」僕は即答した。もちろん嘘だ。
「そうかそうか、別に経験なくても大丈夫だよ。描きたいって気持ちさえあれば技術なんて二の次でいいんだよ」
雨宮さんはそう言うと乱雑していた画材の中から画用紙と鉛筆を取り出した。
僕の真横にある横長の机の上にそれらを置き、今度は小さな木材をどこからともなく持ちだしてくる。
「じゃあ、ちょっと書いてみるから見てて」
僕は黙って頷き、彼女の動きを見守った。
彼女の鉛筆をもった手は滑らかに紙の上を踊っていた。
時折、親指を立てては物体の対比を測る。
あっという間に形を把握し、大まかな影を塗り始める。
スムーズに進んでいく工程に僕は目を奪われてしまった。
何度も繰り返し練習しなければ、ここまで早くは出来ない。
彼女の努力がこんな些細な事でも分かってしまう。
絵とはそういう存在なのだ。
「影ってのが何を描くにおいても重要なんだよね、全体が同じ色だとまるで立体感が生まれてこないの。だからモチーフのどこに光が当たっていて、どこに影が出来るのか最初におおまかにとってあげると描きやすくなる」
僕の事など一瞥もせず彼女は話し始める。
その間も鉛筆が止まる事はなかった。
僕はそんな彼女の動きに熱中していた。
やがて、木目まで綺麗に書き上げると彼女は初めて一息ついた。
出来上がった絵は素晴らしいほどにリアルで、写実的であった。
「ごめんね、退屈だったでしょ」
苦笑いを浮かべながら机の上に絵を置く。
僕は本心からその言葉を否定した。
「いえ、見ていて楽しかったです」
そう言うと彼女は嬉しそうに頭を掻いた。
ふと気がつけば夕陽のオレンジは深い青色に変わっている。
「今日は随分と長く付き合わせちゃったね。いやはや、明日から楽しみだな」
「僕、上手くないですよ?」
「だから、上手いか下手かなんて、そんなのはプロと批評家だけが気にすればいいの。私らが気にするのは描いていて楽しいか、それだけでいいんだよ」
僕はその言葉にとても好感が持てた。
彼女の言葉がゆっくりと心に浸透していく。
僕の悩みとは彼女にとってはその程度の話しなのだ。
「さあさあ、帰ろ。早くしないと先生に怒られちゃうよ」
僕は黙って頷き、彼女と共に美術室を出る。
僕はその時、少しだけその空間から出ることに名残惜しさを感じていた。