10
四月も半分が過ぎ去り、中学という新しい環境にも次第に慣れ始めた。
四時間目の授業が間もなく終わろうとしている。
だが、僕は未だに彼女の影に怯えていた。
僕はずっと観察し続けた。
水瀬奏はいつも笑っていた。
誰にでもわけ隔たりなく接し、優しい態度をみせる彼女を皆は「良い人」と言う。
それが何とも気持ち悪い。
彼女の綺麗な顔に浮かび上がるソレは全て嘘だ。
彼女の挙動の全てが計算だ。
彼女は周囲を見事に欺いていた。
見れば見るほど彼女は僕に似ていた。
僕もまた皆から「良い人」と呼ばれるようになっていた。
僕と水瀬奏は全く同じ様に周囲を欺いている。
本当の僕は惨めなほどに矮小な心の持ち主だ。
そのくせ自尊心が強い。
自覚はある。
だからこそ、僕はそんな惨めな自分を見られたくないのだ。
彼女は僕のそんな心に気づいてるに違いない。
だから僕の真似をしている。
彼女を見ていると「ほら、あなたの愚かな心は私にはお見通しよ」そう耳元で囁かれている気分だ。
被害妄想と思われても仕方ない。
だが、僕にはそう感ぜざるを得なかった。
やがて、終了のチャイムが教室に鳴り響く。
僕はその音が耳に滑り込んできた瞬間、机に顔を埋めながら今すぐにでも彼女という存在が消えてくれる事を願った。
「おい、昼飯にしようぜ」晃の声が僕の妄想を吹き飛ばしていく。
無意識のうちにため息がこぼれ、僕は顔を上げた。
目の前で無邪気に笑う晃の髪の毛には寝癖があった。
「授業、寝てただろ」
「おう、そして友達としてお願いがある!」
「おかず一品よこせば聞いてあげるよ」
僕はそう言いながらカバンに手を突っ込み、弁当箱を取り出す。
母さんが朝の忙しい時間に作ってくれた弁当箱の中身は案の定、おにぎりが一つだけの侘しいものであった。
「しば漬けやるよ」
晃は自分の弁当箱から萎びれたしば漬けを取り出し、僕の弁当箱の中に放り投げてくる。
僕はそんな彼を無視しておにぎりを頬張った。
しばしの間、黙々と食べ続けていると、晃が唐突に口を開いた。
「そういや、部活は何するか決めたのか?」
僕はその言葉で今日が部活申し込みの締め切りである事を思い出した。
申込用紙はどこにやってしまっただろう。思いだせない。
「俺は陸上にするけど、お前はやっぱ昔やってたし剣道とかにすんの?」
陽平の真似事など冗談ではない。
僕には才能がない。だが陽平には才能がある。
あの土俵で僕がアイツに勝るものなど何もない。
それがはっきりと理解させられてしまうほどに陽平は特別なのだ。
だから僕はもう陽平の背中など追わないと決めた。
そうしなければ、僕が惨めに見られてしまう気がした。
「やっぱり、陽平は違うな」
ふと父さんの言葉が脳裏を過った。
父さんは僕の事は何も言わない。
当たり前だ。
だって僕には才能がないのだから。
自分にそう言い聞かせても辛いのは変わらない。
思いだすと気分が悪くなってきたが、我慢して会話を続けた。
「僕は帰宅部でいいよ」
「それは許さん。お前と帰れなくなるだろ?」
別に晃と帰れなくなってもあまり問題ない気がしたが反論はしなかった。
とりあえず、もう少し考えてから決めると晃に告げ、会話はそこで終わった。