一分前に
飛ばされる。
まさにそうとしか言いようのない感覚で、俺はきっちり一分前の世界に戻ってきた。
一分前と全く同じ、雀荘で高レートの賭け麻雀をしている世界にだ。
「悪いね。何かついてるわ、今日の俺」
この新しい一分後に、俺は隠し切れない笑みを浮かべる。
それは買い換えた電球のような、新しいぴかぴかの一分後だ。そしてあつらえた背広のような、俺にぴったり合った一分後だ。
「当たってたな、俺。悪いね、皆さん」
俺は麻雀卓を囲む連中に、もう一度言ってやる。少々饒舌なのは、やはり多少は悪いことをしていると自覚があるからだろうか。
何せ頭にガツンと一つ衝撃を与えれば、俺はそれだけで一分前の世界に戻ってこられる。
ガツンと言うのは大げさかな。自分で頭に掌をぶつける程度でそれはいい。
弱すぎるのはダメなようだが、強い分には幾らでもいいようだ。どんなに強くぶつけても、きっちり一分前にしか戻らないので、いつも適度に頭を叩いている。
そう、きっちり一分前にしか戻れない。
戻った一分前で、もう一度ガツンとやって、更にもう一つ一分前に戻る。とは何度か試してみたが、それは上手くいかなかった。
だから一分前の世界に戻れるからといって、世界を大きく変えられる訳ではない。
これが一時間前に戻れるとかなら、もっと別のギャンブルなどで大儲けだっただろう。
だが一分前では、できることと言えば精々麻雀の捨て牌を変えるぐらいだ。
まあ、小銭を稼ぐには、それで十分だ。
「……」
俺に小銭を稼がれた連中は、納得がいかないという顔でこちらを見ている。
そりゃ、腑に落ちないだろう。
これは賭け麻雀だ。大なり小なり、皆が一か八かの元に戻れぬ勝負をしていた。
そんな中で、俺だけが上手くいかないとなれば、こっそりとやり直しをしている。「ついてる」だの「当たってた」だの言われても、連中からすれば釈然としないだろう。
「じゃあ、この辺で」
イカサマだ仕込みだ何だと言われる前に、俺は雀荘を後にすることにした。
しまったな。後ろから迫りくる気配に、俺は素直にそう思った。
ここは雀荘を出てすぐの、夜の繁華街。
人ごみに紛れて、明らかに俺の後をつけてくる人影がある。
レートが高い卓を囲んでいる連中の中には、たまに危ない奴もいる。
シノギだシマだ何処のもんだ何だと言う連中も、これまで何度か相手をしたことがある。
たいていこの手の連中は、追いつくや否や襟首を掴まえていきり立つのだ。
まあ、頭ぐらいは殴らせてやることはある。そうすりゃ、俺は一分前の世界だからだ。
後は一分前の世界に戻って、選択をやりなおせばいい。それはきっちり一分前だから、殴られた怪我すら元よりない。
一度で上手くいかない場合も、新たに一分稼げば、また一分前の世界に戻れる。俺の方がどう考えても有利だ。
俺は歩道を急いだ。俺の脇を車のヘッドライトが、車道の底をさらうように流れていく。
脇道。その向こうの物陰。裏口のありそうな店舗。あるいは通り過ぎる空車のタクシー。
俺は未来の一分前の世界を観察する。
選択肢は多そうだ。何とかなるだろう。
さあ、くるならこい。
俺は連中の出方を見て、それから一分前の世界に戻ろうと相手の気配をうかがった。
その瞬間、俺の体は宙を舞っていた。
問答無用で車道に突き飛ばされたのだ。宙を舞ったのは、乗用車にはねられたからだ。
自分ではどうすることもできずに、俺は宙を舞う。衝撃にまるで四肢が動かない。
気がつけば、背中から地面だ。
背中を跳ねられたせいか、宙を舞ってから、全く身動きが取れない。
そう、全くだ。腕も足も、頭も動かない。
幸いにも、頭は何処にも打たなかった。
幸いにも? いや違う。
俺の体の上を、幾つものヘッドライトがかすめた。何台もの車が、俺をとっさに避ける。
動けないままに時間が過ぎる。そう、一分が過ぎる。誰も助けにこない。俺は動けない。
車高の低い車が一台、クラクションを鳴らしながら迫ってくる。よりにもよって、前面のバンパーが、道路をこする様に走る車だ。
そう、その車に俺は頭をガツンと――
飛ばされる。
まさにそうとしか言いようのない感覚で、俺はきっちり一分前の世界に戻ってきた。
その瞬間、俺の体は宙を舞っていた。