昔より和泉守は切れものでながい命をたった一うち の謎
『徳川実紀』では、事件が起きたのは六月二十六日であり、和泉守は二十七日に「西大久保清龍寺にて死を賜う」となっていますが、「葉隠」の文章では五月二十四日、一日の出来事となっております。ここでは「葉隠」の話に合わせて小説を書いています。
延宝八年と言えば庚申、四代将軍家綱公が不惑にてお亡くなりになった年である。
その事件が起きたのは、五月二十四日、徳川家菩提寺である増上寺で厳有院様と尊号を贈られた家綱様の大法会の途中であった。
増上寺の大広敷に、もうもうと抹香の煙が立ち込め、大勢の僧が声を限りにする読経が室内どころか境内全体に木魂する中、幕府諸役人、大名の大勢が整然と座っている。
その列座の前、怒りで顔が青ざめた内藤和泉守忠勝が、す、す、す、すと音もたてず滑るように渡っていき、永井信濃守尚長の前に来て
「信濃守、覚えたるか!」と一声叫ぶと、その首を丁と斬り落とした。
信濃守は、その時、傍目には眠りたるように見えたが、因縁ある者が「何かを言いにやって来た」と感じとって用心をしていたのであろう、脇差に左手をかけ、右手を添えて、首から棒のように血を噴き出しつつも座った姿勢を崩さずに、そのままお亡くなりになったということだ。
そのとき、傍らにいた遠山主殿頭政亮が、抜き打ちに内藤和泉守の腕を峯打ちして、脇差を叩き落とした。
また、関東代官頭伊奈兵右衛門忠易が同時に立ち上り
「二番目をつかまつる」
と、和泉守の後ろから、顎に手をかけて投げ伏せ、和泉守の長袴の裾を引き、俯せに引き倒し、懐中にした捕縄にて、たちまちに縛り上げ、勝手の方へと引き立てる。さすがは関八州の幕府直轄領約30万石を管轄する代官頭、取縄術の名手である。
さて、その騒動の最中、読経の声が止むどころか、振り返る僧など一人もなく、経奉行を務める出家がするすると屏風を持ってきて、その場所を囲い、控えていた役人が畳を持ってきて取替え、信濃守の亡骸を裏門より送り出す、と、このように法事は少しも滞りなく行われたという。
その説明が必要かのように、後日談が伝わっている。
伊奈兵右衛門が内藤和泉守を取り押さえようとしている最中、遠山主殿頭が急ぎ山門へ走り出でて、幕府ご番衆に、
「和泉守ご乱心、永井信濃守に刃傷に及ぶ。おのおの方、両名の供の者たちを直ちに抑えとどめ下され」と告げて、永井、内藤の両人のお供衆を少しも騒がせなかったという。
事件は直ぐに将軍の耳に達し、その日のうちに和泉守は青松寺で切腹を仰せつかったという。
昔より 和泉守は切れもので ながい命を たった一うち
その落首は内藤和泉守と美濃の刀匠和泉守兼定をかけ、一太刀で三十代の命を絶たれた永井信濃守をもかけている。
しかし、突発的事件が発生した時、そんなに上手に騒ぎを治めることができるだろうか。
そこには幕府にいた異能の官吏が書いた筋書きがあるに違いない。
法会の当日、老中筆頭酒井雅楽頭忠清は和泉守と信濃守を呼び、両名に
「和泉守は僧侶の世話役、信濃守は大名たちの世話役をたのむぞ、
双方ともに、専ら受け持ちの僧侶、大名の出入り口門を警固せよ」
という沙汰をした。
内藤和泉守が
「仰せの通りに」
と僧侶の世話に向かったところ、雅楽頭、永井信濃守のみを呼び止め
「おお、危うく忘れるところであった、信濃守、食事の用意も忘れるでないぞ。急ぎ和泉守にも伝えよ」
と食事の手配をも、両名に命じる旨を申し渡した。
信濃守は和泉守と、年も近く、吉原の花魁をめぐってその寵を争っていたことは有名だ。また、江戸の屋敷も隣同士という事もあり、なにかとお互い意地の張り合いをしている。
例えば、庭に植える木やその植栽、築山の高さや池の大きさや形、例えば、灯篭の意匠や大きさ、それらを整える庭師や石工の取り合い、云々云々といったこと、その細々とした全てを家来や腰元ぐるみで争っていた。
老中筆頭酒井雅楽頭忠清は、それらを知ったうえで、信濃守にだけ食事の手配を言いつけ、和泉守に伝えるようにと付け加えで言ったのだった。
雅楽頭の悪意は、念の言ったものであった。信濃守のみに書状で
「両名の世話役は、お世話する者の食事を供するように、この旨失念するなかれ」
と伝えたことである。
信濃守はこれを握りつぶしたのか、「両名の世話役」という文字に気付かなかったか、書状は和泉守にも届いていると考えたのか分からぬが、結果として食事の用意ができなかった和泉守は万座の中で面目を潰し、その怨嗟は信濃守に向けられた。
雅楽頭のような能才の吏に、戦国の風儀を残す大名家の面目と意地を利用し、幕府の威光と権力を伸張せんとして、キリシタン大名の疑いがある内藤和泉守と、相手の面目に無頓着で意地を張る永井信濃守を操り、その滅亡を密かに図ることは、たいして難しくなかったことであろう。
うたのかみ 首斬りさせて 踊らせて 腹を召させて老中筆頭




