31 家の用事
今日の放課後は勉強会がなかった。椎子が「家の用事がある」と言うからだ。
……それにしても、最近やけに「家の用事」が多い気がする。
前はお兄さんと会っていたみたいだけど、今日もそうなんだろうか。気になって、ついメッセージを送ってしまった。
周平『家の用事ってまたお兄さんか?』
椎子『いえ、違います』
周平『じゃあ何?』
椎子『気になります?』
周平『まあ少しは』
椎子『前みたいに誤解を招くのも嫌ですしね。分かりました。今日時間ありますか? 一緒に帰りましょう』
周平『わかった』
放課後、いつものバスセンターの二階テラスに向かうと、椎子はすでに座っていた。俺に気づくと、すっと立ち上がって言う。
「周平君、では行きましょうか」
「行くってどこに?」
「私の家です」
「え?」
「と言っても近所までですけど。まだ家に連れて行く勇気はありませんので」
「そ、そうか」
「でも、そこまで来てもらえれば、家の用事が何か分かると思います。来てくれますか?」
「うん、いいよ」
「行きも帰りも一時間ぐらいかかるかも知れませんけど」
「かまわないよ」
「ありがとうございます。では行きましょう」
二人で椎子がいつも乗るバス乗り場へ向かう。俺も初めてそのバスに乗った。
椎子は後ろから二つ目の席に座る。俺も隣に腰を下ろした。
「いつもは一人なので……一緒に乗るのは新鮮です」
「そうだな」
「でも普段はバスの中で寝てるんですよね」
「だったら寝てていいよ」
「……肩を借りてもいいですか?」
「肩?」
「はい、こんな感じで」
ふわりと椎子の頭が俺の肩にもたれかかる。椎子の香りが急に近づき、全身を包みこむ。
「う、うん……もちろん」
「すみません。では少しだけ」
椎子はそのまま目を閉じた。バスは静かに走り出し、座席のわずかな振動と椎子の体温が伝わってくる。
理性との戦いが始まった。
それは、思った以上に長い戦いだった。30分ほど経ち、ようやく椎子は目を覚ました。
「……まだここですか」
「もう少し乗るの?」
「はい、もうちょっとです」
さらに20分ほど揺られ、ようやく俺たちはバスを降りた。
「温泉街か……」
目の前に広がるのは、古い街並みの温泉街だった。
「この近くが私の家です。今から家に寄ってくるので、その間ここで待っていてください」
「わかった」
椎子が去ると俺はスマホを見て時間をつぶした。
しばらくして戻ってきた椎子は、制服から私服に着替えていた。Tシャツにジーンズというラフな格好。動物園に行ったときと同じ雰囲気だ。でも、違うのは一人じゃないということだ。
一人と一匹だった。
「周平君、おまたせしました」
「もしかして、それが家の用事?」
「はい。庄一さんのお散歩です」
「バウ!!」
呼ばれたのが分かったのか、庄一さんと呼ばれた犬が小さく吠えた。
それにしてもこの犬、かなり大きい。全身茶色い毛並みで、たぶんゴールデンレトリバーってやつだろう。小さい子ならたぶん乗れる。
「庄一さんの散歩は、誰でもできるものじゃないんです。人がいないときは私が行くしかなくて」
「そんなに大変なの?」
俺が首をかしげると、椎子は俺にリードを手渡してきた。
「……持ってみます?」
「いいよ」
その瞬間だった。リードを握った途端、庄一さんが勢いよく走り出した。
「うわ!」
俺はリードに引っ張られて必死に追いかける。止めようと踏ん張るが、とんでもない力だ。
「これは……確かに誰でもできない……!」
「代わりますね」
椎子がリードを持つと、庄一さんはすぐに大人しくなった。態度が全然違う。
「こんな感じなんです」
「なるほど、そりゃ大変だ」
「はい。私は小さい頃から庄一さんと暮らしてきたので、気心が知れてるんです」
「そうみたいだね」
「では行ってきますね。周平君、また明日……」
そう言って椎子は庄一さんの散歩に歩き出した。俺は慌てて言う。
「俺も一緒に行っていいかな?」
椎子と一緒にいたくてつい言ってしまった。
「もちろん歓迎です。一緒に行きましょうか」
そこからは椎子と俺と庄一さんで歩き出した。
庄一さんの散歩コースはだいたい決まっているらしく、川沿いの道を進んだ。田舎らしい風景が広がる。畑が一面に続き、夕日がそれを照らす。
そこをときどき庄一さんが走ったり止まったりしながら、それに合わせて椎子さんも走っていた。
「さっきは庄一さんのパワーが凄かったけど、大丈夫?」
「はい、私は慣れていますので。それに庄一さんのおかげでインドア派の私も体力が付きました。おかげで足腰だけは強いんです」
なるほど。椎子は学業だけじゃなく運動もできると言われているが、実はこの散歩が秘訣だったのか。
だんだんと日が落ちていく中、俺たちは川沿いを歩き続けた。橋の手前で折り返し、戻ってくる。もう日が落ちてくる時間だ。夕焼けの中、俺たちは元の場所まで戻ってきた。
「では、周平君はここまでですね」
「そうだな。バスで帰るよ」
「すみません、わざわざ来てもらって。でも、庄一さんのことは口で説明してもなかなか分かってもらえないと思ったので。犬の散歩で帰るなんて言ったら嘘をついてるんじゃないかって思われそうで……」
なるほどな。実際に見ると納得せざるをえない。庄一さんの散歩はする人を選ぶ大変なものだから仕方ないのだ。
「いや、俺も庄一さんに会えてよかったよ」
そう言って庄一さんの頭を撫でると、大きな尻尾を嬉しそうに振った。
「じゃあな、庄一さん」
「バウ!」
「椎子、また明日学校で」
「はい、周平君も気を付けて」
俺は椎子に手を振り、バスを待った。
それにしても初めて椎子の家の近くに来て、今日は椎子の暮らしに、ほんの少し触れた気がした。




