天使を探して
『ここにいるよー』
父は、幼き私に向けて人間というものは天使が家畜化したものなのだよ、とうそぶいた。
それは家族でのドライブの合間に見かけた豚舎に寄った帰りのことである。
私は片手にタッパーで守られたブランド豚の切り身をぶら下げながら、嫌だと感想を告げる母の隣でその嘘に納得を覚えたのだった。
進化論に天地創造の意匠を混ぜるのなんて、あまりにナンセンス。だが、その合わなさこそが幼い私には面白いと感じるものであった。
そして私は、未だにそんな嘘を引きずり飛べないままに生きている。
その日間近でぴぎぃぴぎぃと無秩序に餌に群れる豚を見て、私はこれはとても良く我々に似ていると考えた。
何せどれもが命のために歪んでいて無数で、他者の本質を介さない。そして管理に慣れきっている。
もっとも幼少期の思考において、それらは理屈でなく感想として表れていた。
そう、私は確かに口角泡立て貪りのためにときに輩を踏みつける彼らを見てこう口にしたのだった。
「豚さん、かわいいね」
ああ、未だに愛おしき肌色の弟妹たち。
そんなだから私は、あの日彼らの末路が食肉に加工され我々に饗されるものと知っても尚、かわいいとしか己の感想を表現出来なかったのだ。
実のところ、そんなのかわいそうの間違いでしかなかったというのに。
「豚さん、おいしいね」
故に、夕餉に頬張ったあの子らの先輩だろう肉の旨味に微笑んだ私はやはり、天使ではないのだろう。
「天使って、どこにも居ないんだね……」
私は翌日、学校から一人抜け出したことで教員に叱られたその理由を父に尋ねられ、こう答えた。
聞いた母はあなたの嘘のせいよと激怒したものだが、私は静かに嘘の迫真性に怯える。
震えは誰にも伝わらず、だが悔しさのための涙は勘違いされて母の父に対する怒気を増させた。
我々に許された限りの天である空を見上げてそれを続けても一向に姿がないならば、天使などどうしたって見つからないだろう。
そう、私達が確かに管理されているものであるならば、天使を探すことなど出来ないというのはその時になってようやく気付けたのだ。
何せ、豚を参考にするならば本質的に家畜は上位者の管理を察せるものでなければ、管理から逃れて原種に逢うことなどありえない。
なにせ再びの交雑は家畜化の苦労を無にする。私程度の考えであっても、せっかく丸々太った人間と飛び上がれるほど痩身の天使とを上位存在が会わせるなど普通はしないと思えた。
むしろ、その機会をすら上手に摘み取るのが当然。それどころか本来ならば思考すら許されなくて、おかしな行動を採った家畜など真っ先に処分されるもの。
涙の色を恐怖によるものに変化させながら私は温かい父の手のひらを感じつつ、こう結論をつけた。
「もう、こんなの、やめる、ね」
しゃくりあげることすら出来ない程の恐怖というものは、きっと酷く束縛に似ている。なるほどこの日の私は恐怖によって再び家畜らしく身を正すことが出来たのだろう。
そして私はその日、天使を探すことを早々と諦めたのだった。
戦争というものは、知っている。そして、それこそ我々が想像する天使というものと酷く乖離しているものであるとも判っていた。
なるほど鳥の羽ばたきが争いからの逃避のために慌ただしく空を搔く行為であるならば、或いは闘争から逃げ切っているのかもしれない天使というものは小競り合いをも知らないのだろうか。
だが、彼らとは交ざれずに観測すらも諦めた私には、争いというものが嫌に身近だった。学び舎というものは学びに学ぶのが主な場である筈なのに、多くが平たさを嫌うばかりに。
「どうして、点数というものがあるのですか?」
私は耐えきれずに、先生に向けて数値化について問ったことがある。
文字通り先に生きているばかりの尊敬だけすべき彼らは、それでも私の真意を知らない。
どうして百点を取った君がそんな簡単なことを聞くのかと、むしろ問い返してきた担任である老いた猿に良く似た教員に、私はこう返した。
「私はこれに満足したくないのです」
勘違いによってその言には、君は凄いなと感心を返される。先生のそんな不通によって、私は更に点数というものに尺度を頼る彼らが理解出来なくなった。
測りの値は優等の証明ではなく真にただの点で、そもそも描かれぬ全体の把握は不可能だ。たとえば答案の数字では知恵の深度は測れども、家畜の死後の美味を約束してくれるものでは勿論ないのだった。
私には、分からない。こんなに多分に溢れている闘争の結果が生むものが、人間の価値の本質であるかどうかを。
「私の幸せって、本当に良いことなの?」
故に、私は天使をそこに求めずとも、再びときに空を見上げるようになった。
倣うということは、生き物にとって酷く重要な得意である。
また愛というものは総じて轍の中にあり、その外にある暗がりは恐怖ばかりだ。
窮屈な先達たちの善き道程。悪しくもなれないそんなものばかりを追いかける同輩達を私は常にきょとんと見つめていた。
彼らには夢がある。が、故に暗澹を望まないのだ。栄達の頂きの光景と貧者が覚える蛆の痒みは並ばない。
恋が人を殺す可能性くらい知っていても、普通一般が視界の外のすべてを見殺しにしていることについては考えないのだった。
私には分からないが、きっとそんな彼らは天使ではないのだろう。
何せ、空を飛んでしまえば一体全体全てが明瞭に見えすぎてしまうもの。人が頭を上げただけで視界を広げて人間と自然を分けたのならば、天上に届く天使の視点はそれどころではない。
はためきに力をかけたところで賢しき人共よりも見えすぎていれば叡智には事足りる。なるほどだから彼らはここにないのだ。
「川島。お前って、変わってんのな」
「そう?」
私が何時ものようにそんな風に天使の不在を結論づけるための雑考を行っていたところ、隣から声がした。
疑問の声をあげ、凝り固まった首を横に動かすと、そこには二重まぶたが見て取れる。
その周りはどうにも曖昧だ。男であるし、若くもあるだろう。彼の整い具合が良いところがまた私の共感を損ねている気もした。
松山東。そんなたった三文字を己と頼りにして生きる自我。
番いやすいのだろう異なる形を折り目正しく学校制服に包み、松山君は私を見ている。
ぞっとしながら、私は努めて瞳柔らかにこう返した。
「松山君。私はそんなにおかしく見えるかな? 今も別に私は私からはみ出ていないよ?」
「そういうとこだ」
私は向けられた青年の指先に、歪みを見る。それが傷として割れた後の癒着のために出来たものであると知り、ついでになるほど生き物らしいと場違いな感心を覚えるのだった。
そして、松山君は天使ならぬ人である。ならば真剣に向かい合うのもつまらない。
確かに私が私を収めている皮でできたラインの範疇であることを頬に触れることで確認することを忘れずに、黙することで肯定を表すのである。
「……分かってないだろ」
だが、沈黙は金でなければ一息で飛ばされる紙一枚よりも脆いもの。この三年間隣り合うことが多かった松山君は私の中身を見るように二重の中のありきたりの色を凝らしている。
ようやく察した私は、こう言った。
「松山君。もし君が同類を探しているなら手伝ってあげるけれど、私とあなたは違うよ?」
「ん……まあ、そりゃあ……うん」
喉仏の動きに呑み込まれる唾の形を思いながら、私はついでのように青年のことを考える。
痛みと掻痒を別と知らず、ただ焦りに喉元を掻き毟ってばかりの、絶望。
そんなただ真面目なだけの松山君に対する私の考察の余地は殊の外少なかった。
これも焚けば煙として上がる程度のモノである。そして、匂いと音に興味もなければ味だって知れていた。
定型を格好良いと思えることさえ出来たのならば、ひょっとしたらこの男子に異なるものを期待できたのかもしれないが、それもなく。
まこと、変わっているどころではない壊れた私だ。だが鈍色に近い心に、記録だけが上滑りしていく。
私は想わず、ただ思い返すのだった。
松山東という男の子は、私も生じたこの町の中では闘争に向いた個体だったらしい。
運動能力という分かりやすい部分に秀でていて、駆ける脚は長くてあまりから回らず他よりよく地を掻いていた。
陸上競技というとても人間らしい名前の、太古と比べて上手になった這い回り方の比べ合いにおいて松山君は比較対象に町では困る程の記録を短く刻んでいたようだ。
性と年頃こそ私と同じである瑕疵なき子らにはそれが殊更魅力的に映っていたようで、しばしば隣り合う人を松山君は選んで変えていた。
だが、幾らそのようにして得意ばかり目に映ろうが松山東は歴とした子供である。
努めれば勝つのが当たり前なのかもしれないが、凄いねと撫でられなければ幸せになれない厄介な生き物に違いなかった。
しかし、松山の両親はそれを忘れてしまったのだろう。松山東はしっかりもののお兄さんとしての役割ばかりをおし着せられる。
不満そうな、顔。荒れた行動。隣からそんなものの経緯を察しながらも私は空を見上げることで、無視をしていた。
二次性徴と反抗期。それと心よりの悲鳴を重ねられてしまったのが少年の悲劇だっただろうか。観覧すらせずただ識っていたばかりの私には判断はつかない。
だが、ある日社会科の先生に松山君は授業の流れで、もし刑罰を終えて檻から出てきた人殺しが隣人になったら怖くないか、と問われた。
私にはそれではあまりに刑に対する信頼がなさすぎるものだと思ったが、彼は案の定こう答える。
「むしろそれ、安全じゃないですか?」
私には松山君の回答の理由は即座に察せたけれども、しかし先生やその他生徒達には不明だった様子。
けれども童子だろうが他者を殺傷するに足る手段を容易く持てることを片時も忘れていない臆病者は、故にこう続けるしかなかった。
「どこに他の隣人が殺人者より悪くないっていう保証があるんです?」
この発言以降、彼は少し人と違った人間であると思われるようになったというのは、周りを見ない察したがりな私でも分かること。
それは私には理解できない数多の情動によるものであるのだろうけれども、しかし彼と他とに不通が起きているのは違いなかった。
故に、変わらない私を変わっているとこの人は判断したのだろう。興味は特にないけれども、それは当たっているのだろうなと鈍感な私はようやく理解するのだった。
だが、私が彼に言えるのはただ一つ。
「松山君」
「何だよ……」
「私は他人だよ?」
「っ、ああ。そうだよなっ」
利用するつもりもない相手からかけられた期待なんて、問題になる前に潰した方がいい。そんなことくらいは十五年程生きていれば学べる。
赤いニキビの浮いた額を手の甲でごしごしと擦る癖を私は悪くは思わないが、しかしそれが青年の悲鳴代わりだとは知っていた。
「そうだよ。君は私なんかに期待をしてはいけない」
だが、そんな知見なんてきっと殺人者より人を想っていない私には至極どうでもよいものでしかない。
故にこそ、赤くなった青年の膿みを見逃して微笑んで前を向く。
「クソ……」
そして、このところ傷んでばかりいる松山君は、制服の中の身に帯びたテーピングを掴むようにして爪を立て、そんな食の末路の形態をばかり呟くのだった。
天使の羽根とは飛行のために用いる天を掴むための方法かと私は考える。
だが、信仰に留まる程度の確認不足であればそれが平衡のための重しである可能性もあるだろうし、サンショウウオの襞のように臓物を空気に晒していることだって有り得た。
どちらにせよ、私は一度天使という未知を目視確認をしておきたかったのだ。
観察によって堕する信仰なんてどうでもいい。そんなものよりありのままを。それを今も私は蟻のおしりの酸っぱさよりも求めているのである。
私には友達が多くはなかった。むしろ一般から見ると少ないのかもしれない。
それは私の付き合いの悪さに起因するものではあるが、それだけでなく去る者を追わない気質も関係していた。
そんな私の友人に熊谷もみじという同級生がある。
彼女は性格を炎に変えたら途端に焼失してしまいそうな、やけに気持ちの強い人間だ。また、友達甲斐のない私を見捨てられない哀れな博愛主義者でもあった。
私はそんな彼女の中心をお下げとして把握している。
艶やかな一房を組み替えてお洒落とするその様ばかりを気にしている私に、爪の先まで染色しきっているもみじはこう呟くように言った。
「ねえ。あんた、お酒飲んだことある?」
「お酒は二十歳になってからだよ」
「そりゃ、そうだけど。でも、どこか祝いの席で無理に呑まされたりとかさ……あんたに限ってそりゃないか」
「うん。全部綺麗に断れてる」
「だよねー。そこんとこはあんたもあたしと一緒か……」
鳶色の視線は私を天辺から撫でるようにしてから再び前へと向く。
一つに寄り掛かれない、潔癖。もみじはそういう自認を持っている。
誰だって思う、丸に至れない扁平な自己に拠る痛み。だが、そんな自然にすら傷つかない愚かな私は言いたいことを理解できずに首を傾げた。
何もない中空を見定めようとしているもみじに私は問う。
「で、どうして私に飲酒について聞いたの?」
「いやさ……彼氏候補居たじゃん、私」
「うん。川西の先輩と仲良くしてるとかは聞いてた」
「昨日その人の家に行ったのよ、あたし」
「へぇ」
一つ年上の先輩。
高校生という知性よりもどちらかといえば金銭と経過に拠って得られる立場を、もみじは妙に大事にしていた。
同級生より、年上。そんな愚にも付かない発言こそが彼女の価値観の中心であるからには、やはり私と彼女は別個人である。
「……あんたらしい淡泊な反応ね。まあ、あたしもちょっと緊張して向かったのよ? これはどんないやらしいことされちゃうんだろうって不安に思いながらさ」
「そこで、お酒ね」
「うん……多分気分を盛り上げようとか、何かあの人なりの気遣いがあったのかもしんないけどさ……あたし、それ出されたらなんだか気持ち萎えちゃってさー……」
「なるほどね」
「そもそもふじゅんいせーこーゆーって自体結構ワルじゃん? なら気にせず呑んじゃえとも思ったけどさ……」
「同時には飲み込めなかったんだ」
「そう! そーゆーことよっ!」
合点がいったと、私を指さして肯定のためがくがくと頭を揺するもみじ。
極端に大きくなった声に休み時間に散らばる蜘蛛の巣のようだった視線は一様に流れる。
多くに見つめられた少女はしかしそれを気にも留めずに、腕を組んで満足そうな面を私に見せるのだった。
「あー……あんたに話して良かったわ。大分すっきりした」
「それは良かったね」
「なんかあんたって人の気持ち説明するとか、そういうの得意よね。将来カウンセラーとか目指してみたら?」
「残念。私の未来はきっと、檻の中」
「あんた、一体何しでかす気なのよ……」
「ふふふ」
繋がるべき要素を気にも留めずにバラバラにしてしまう私は本来説明下手で、心もろくに知らない。
だが、下手な鉄砲でも投じ続ければ回中となる場合だってあるだろう。
私の脳裏には常に、言葉のバラバラ死体を浮かせているのだから。そこから定めて拾う言葉に意味があってくれているのはただの奇跡。
故に私の末路は檻である。
異なる動物。私がこの人界という動物園の中でも常ならぬ様態の観賞用生物であるのは、流石に自認しているのだった。
「ま、悪いことしなければ応援してやるわよ。これでも、あんたとは……腐れ縁なんだから」
「ありがとう」
熟れて腐れて汚れるばかりの他人同士の結び。それを友情と騙るのはあまりにおこがましいのだが、私の感謝にもみじの頬は紅潮した。
勘違いの友誼。属性違いの隣人に心繋がるところなどないのに、しかし人はそこに意味を感じたがる。
沈黙こそが金属。冷たい冷たい合理に背かず黙認という金で私達は心を継ぐばかり。
「ったく……」
「ふふ」
だからこそ、私が彼女をこれっぽっちも大切にしていないことは伝わらずに、故にこそ笑顔の花は咲くのだろう。
人体に毒はあるのか。それはプリオンの病を思わずとも皆無とは考えがたい。
そもそも、食と人体を結びつけることすらタブーであれば、内臓に人体を容れた際の反応などろくに考えられたことなどないだろう。
人の舌先を毒とたとえどもその肉はただ舐め震えるばかりが役割で、もし放置に腐らなければ焼かれて灰になるのが終い。
輩の最期のために行うのは腑分け程度で味見もしない、そんな我々が手本と思うのはどうにも不自然。
「好き……ね」
私は私が畜獣の一つであることを幼きあの日から疑ったことはなかった。
察するに言葉に似たものを交わして不通を繰り返す自分勝手が私と隣人の本質なのだろう。
故に、人が人の食感すら知らないままに人を好きになることがよく分からない。
愛と恋、その他諸々の感情は混乱と根本を一つにしている。きっと、それは縊られるための整列とは異なるものなのだ。
「だから、理解できないかな」
故に、私は私の机の中にあった年齢と出生地にて近似とラベリングされた人舎のお仲間からのお手紙の意図を呑み込みきれない。
貴女に好かれたいという言葉を一枚にびっしりと広げきったこの一枚は受け取り方次第で気持ち悪いとも思えるだろう。
だが、私にとってこれは内面に障るほどの悪とは感じ取れない。
しかし幾ら考えようとも持ち前の不感によって、愛も何も返してあげられないことに無力感はあった。
「恋の存在を信じて、踊らずに求愛を認める。古風にも紙の表面にそれを落とし込んだのは私の好みではあるけれど……」
感情に実体はない。故に恋には味がなくて、悟りたくても舌先は空を軽くなぞるばかり。
この恋文だろう紙をしゃぶってもきっとその存在を信じることは難しく、私にはきっと分からないのだろう。
「そこまで、一様には思えないよ」
好き。それは私の中であまりに茫洋としている。嫌い以外全てをそれと評するに迷いのない私に、恋だの愛だのは少し暑苦しすぎた。
たとえ恋しくなくても身体は合わせられるというのに、そんなものは果たして要るのだろうか。
そう思ってしまう私は、恐らく分泌物の効きが悪すぎるのだろう。
「でも、じゃぶじゃぶと幸福物質に浸かることだけが良いとも思えないのが、私を恋から遠ざけているのかな」
一人、自室で空に向けて喋る私は己が有毒生物であれば楽だったのにと思わずにはいられない。
食卓に並べられること、愛おしく頂かれることなんて私に似合うものではきっとないのだから。
地に汚れた、見分けの付かないありきたり。何れ間引かれ亡くなる己が私。
空気にすら毒され傷つく、そんな私が長々在ろうとして何の意味があるだろう。
「うん。やっぱり無理だ」
だから私は受け付けられないとして、私を天使のようだと結論づけた、錯誤に困惑が酷い彼の告白を真っ二つに破り捨てるのだった。
天使とは果たして人体が主体なのか、それとも翼が本体なのだろうか。
そもそも、人とて意識の生き物なのか性の動物なのかよく分からなければ、断じるのはきっと難しい。
けれども私は時に思うのである。出来れば高みにうろつく彼らが羽ばたきに懸命でありそればかりが意味だとは考えたくないな、と。
人でなしの本懐は理解の外であって欲しいというのはロマンか勝手か。
ただ、何もかもに想像を膨らませる私とて一度たりも彼らの刺身の味など考えたくもないのだった。
「お前、誰かに恋してんの?」
「え?」
そんなひょっとしたら人間らしいのかもしれない贔屓を胸に秘めながら生という蠕動を繰り返していると、松山君が隣の私にそう問う。
そもそも合致しない生き物の低音の鳴き声なんて聞き取り辛いものだったが、心当たりすらない文言であれば首を傾げても仕方ないことだった。
私にとって恋とは、天使よりも彼方に感じるものである。どうにも異物を腹に収めたいという欲求が薄いために、自発的にそれが起きるとは考えにくかった。
この世の人間の大凡半分程度が異性として番うに問題のない機能を持ち合わせていると考えれば、恋はそれらに対する篩いもしくは選り好みとなるのだろう。
辺りを見回すにそれは一極化を妨げる要素として充分働いているのだろうが、個に対しては少し効果が強すぎるきらいもある。
恋は闇。そんな言葉を知っているだけの私であるが、好きを一人に選ぶことが、どれだけ危ういかは理解していた。
私は少し考えてから、松山君にこう返す。
「えっと、多分私は恋をしていないと思うよ」
「そっか……なんか、最近落ち着かないみたいだから、ついさ」
「ふうん……」
少し見つけようとしている様を見られていたかと、私は反省する。スターターの煙を音より早く認めて駆け出すという短距離選手の瞳は、伊達ではないのだろう。
とはいえ、受け取った松山君の心が人なりに丸いために情報は歪んで妥当な受け取り方をされたのだった。
まさか年頃の女が、地に足も付いていない想像上の生き物を日夜探そうとしているなんて思う筈もない。私は恋より愚かな変である。
「松山君は、私に恋していて欲しかったの?」
「そんなことはない、かな」
「なら、問題なしというところだろうね」
「……まあ、川島がそう思ってるならそうじゃないか?」
別段誰かの望ましい者になる気はないが、変を知られて除かれるというのもまた困るものだ。
故に、私は私が恋もしていない平温の女の子であることばかりの理解を良しとするのだが、どうにも目の前の筋張った男子は反応が悪い。
私は恋に限らず同化欲求に乏しいけれども、かといって不足にあえぎたいわけでもないので、流石にこの程度の不通は気になってしまう。
思わず、私は少し何時もより腫れぼったい顔をした彼に正直にこう問った。
「ひょっとしたら、私は変をしているようにも見えているのかな?」
「変って……いや、まあ川島が何か気にしていたら気になるってだけでさ……プラスの意味で」
「なるほど、良かろうがブレはあまり歓迎したくないな……うーん」
「……川島?」
聞くに、松山君はどうやら私に好意的に気にしているようだ。これはどうにも悩ましい。
私の中身は至って、屑である。ならば、外見で男子に好ましいところがあるのだろう。
先に貰った恐怖の手紙を参考にすると、比較するに面構えが上等のようだ。
私は、面の皮のミリ単位の浅薄に興奮の度合いを変えられる程の器用さが理解できない。
だが、それがありふれてこの世に存在するのならば、多少の対策が必要となるだろう。
番の決め方は、もう少し自由であって良いと私は思うところだ。
「こっち……うーんそれともこっちの方が痛くないかな」
「何考えてんだよ、川島……」
試しに顔に線を描くように指を動かしたり、目玉の近くに指先を持っていったりしてみた私に、どうしてか松山君は苦い顔をする。
まあ、彼にとって好ましいものを毀損しようとする動きがあればそれを見咎めようとするのも当然か。
だが、それでもこの面は私のものでもあって、溝に棄てようが自由。
とはいえ、意見は大事と私も少し聞いてみるのだった。
「ねえ。松山君は顔に大きなひっかき傷のついた女の子と片目玉をくり抜いた後の女の子と、どっちが嫌い?」
「っ! 川島!」
「……うん?」
男子的にどんなスカーフェイスが苦手なのかの問いに、何故か松山君は怒したようだ。
まあ、キュクロープスの怪物やお岩さんなど有名な人でなしには視野が欠けている者も散見するし、片目を抜いてみた方が愛されないのだろうとは思うけれども、ちょっと痛みに怖じ気づいただけなのに。
休み時間に大きな音を立てながら椅子から立ち上がった男子に向く視線を知らず、彼は私に一歩寄ってからこう言った。
「頼むから、俺のことが嫌いだとしても、そんなことを言うのは止めてくれ……」
「そう。分かった」
どうしてか分からないけれども悲しそうな松山君。それはよくないからと言を引っ込め私は思うばかりに留めることにした。
それにしても、彼は私が嫌いな見目になるのが嫌われるよりもよっぽど嫌みたいだ。しかし、ゴミを毀損することの無意味に感慨を抱く他人なんて、少し面白いかもしれない。
「ふふ」
ああ、こんな天使になれない私なんてどうなったっていいというのにね。
人は青空に宇宙を見つめない。
それは視力に限界があるということは勿論だけれども、なにより本質的に空の青こそ人間の生存域だと気付いているからだと私は思う。
大気に歪曲されて散らばった光は、煌々と辺りを照らす。結果として多くの生き物がそのためにぶつかり合い過ぎずにひしめき合った。
粘菌の経路選択に類する、最適な居場所の置き方。それの一つが進化というのであれば、なるほど天使でなくなった人も或いは家畜化という進化を知らず望んでいたのかもしれない。
「勿論、お父さんの話は嘘」
とはいえ、実際のところ人は単身では跳び上がることが精々で、そもそも持ち合わせていない羽根にて空気を持ち上げる苦労を感じることすら不可能。
天使と人間は似通ったヒトガタであるが相互するものなど欠片も無い。
物語の一節、役割でしかない古びたインク臭い天使と、動物の一種、群体を大事にし過ぎる生き汚い人間。
そんな両者を一緒にするのは無知故の嘘である。最初から、そんなことを理解しながらも騙し欺し生きている私だ。
「それでも、私は天使を信じる」
ハンバーグを捏ねる際の挽肉の合唱内容を理解する必要はないとはいえ、人語を解さねば不都合。とはいえ、私は人の言葉を本質的に容れていない。
生にしか意味のない教訓に、死にたがりはどうして生まれて直ぐに死んでおかなかったのだろうと嘆くばかり。
生きるだけで場所を取ってしまう罪深い命に、唯一の希望は家畜であることの証明だった。
「誰が、私を食べてくれるの?」
きっと数多の顎に砕かれることこそ、こんな私の末路に相応しい。生きていてごめんなさいとよく思っているのに、それでも死を恐れて白線の向こう側に落ちることすらためらう人間に正解はきっと欠片もないのだろうから。
それに私は、出来れば善いものに美味しく食べて欲しいと望んでさえいてしまう。
さて、豚舎を発った彼らが果たしてバラバラになった身体を何に食まれるか選べたか。
そんなのあり得ないのであれば、私は何もかもを高く望んでいるのだろう。
「進化とは環境に対する妥当化が本意であるとしたら……地べたをつい羽ばたいて逃げたくなるくらいの地獄にでもしたら、天使を生み出せたりするのかな?」
それは帰宅にばかり努める者の、独り言。
つまらない私の妄言なんて、誰に拾われることなく黄昏から宵に向かうばかりの青い空に消えるばかりが当然である。
『あはは。そんなこと考えても口にしちゃ駄目だよ、イナちゃん。そもそも前に、逃避での羽ばたきは天使らしくないって思ってたのに』
だが、私の耳朶にいやに高い声色でこんな応えが返ってくる。
上方からの子供の声に思わず仰ぐ私の視界に、それはそれは酷く薄く見えた。
陽炎のようであろうと見目は、逆しまの羽根を持っただけの少女。重力に従わない真白い髪の毛が殊更が異常だろうか。
いや、そもそもにして人が逆さで外を歩む私と真っ直ぐ視線を合わせていることが普通ではない。
羽ばたかぬ人外に思わず眉根を寄せる私に、彼女はこう言った。
『あたしは天使のユリって言うんだ。よろしくね!』
「そう」
正しく天使の笑みを体現したユリに対して、私の反応は非常に淡泊。
しかし、それも当然だろう。自問自答に興奮するほど外れていなければ、私は私で然るべきもの。
故に、このような空に天使を浮かべてしまった心の多少の錯誤だって私のもの。
そんなことで泣きわめくなんて、あまりに情けない。
『あれ? 反応薄いね。イナちゃんって天使を探してたんじゃなかったっけ? 今見つけたんだよ?』
しかし、目の前の自称天使ユリとやらは私らしからぬ不明をさえずる。
不通。なるほどこれは自分の外と見紛うほどに病んだ私の心の結晶。
だがやはり、私の視界に差し込まれた透けて見えるほど薄い一枚レイヤを天使とは思えない。
霊長の突端。人の鳥に似た収斂進化をそもそも私は求めていたのに、目の前にある者はきっと私の瞳にしか入らない程度の薄弱な情報でしかなかった。
落胆、というほどでもないが別段この子が面白いとも思えないのだ。
私は、私の過分な期待を鎮めるために生まれたのだろう天使型の幻に、こう呟く。
「他者と共有できない発見なんて、幻妄と同じだから」
『むぅっ。あたしを妄想扱いするなんてー』
少女は怒りにひっくり返って私と正対する。
だがそれでも地に足が付いていないのは、この子の矮躯のためか、或いはそれが常態なのか。
ぷんぷんと頬を膨らませる過去の私になかった稚気に対して、私は努めて冷静に断ずる。
「もっと言うと、求めすぎた私の病の発露ね」
『病気? あたしは天使だよ?』
「幻視に幻聴。私が知っているだけで統合失調症など、該当する病態はきっとお医者様達の頭の中にあるのだろうけれど……」
人は一様でなければ、各々の現実にだって差異がある。きっと誰かには天使どころか神だって見えるのだ。だが、他者理解を損ねる共有できぬ認知は揃って病。
そんなことばかりは看護師だったお婆さんから聞いてよく知っている私だった。
ならば、私は私の中の錯誤に首を振って背中を向けなければならないのかもしれない。
そして天使なんて、いないと認めるのだ。
「でもユリ。私だけは貴女を否定しないわ」
だが、私の口はそんな風に逆しまな言葉ばかりを紡ぎ出す。
あまのじゃくな言を受けてぽかんとしているこれは、私の妄想に違いない。
だがそもそも、私は私で本当か。立脚点に疑問符を付ける愚かに、しかしこの目の前の何かが救われるのならば、私なんてどうでもいい存在はなかったことになったっていい。
『えっと……よく分からないけど、ありがとー』
そして、天使ユリは私が絶対にしない、はにかむような笑みを見せた。
見たくもない、異形の柔和。どれもこれもが私が組み立てた幻想と認めたくはないけれども、病を認めないのは流石に重篤すぎた。
でも、それだって真実求めるものと異なるならば、首を横に振るのは勝手だろう。
「ただ、やはり貴女は私の求める天使とは違う」
『そんなことないんだけどなあ……』
これは居る。だが、異なるのだ。そんな結論に、しかし眼前の映像はいっさいぶれることもない。
とぼけた面の上に光輪すら掲げずに、食えない空想は口をとがらせぼやくのだった。
さて、羽根がある少女の映像と甘ったるい気安さを声音として発する、そんな私の中のユリは病だからこそ通常は表れない。
私の心に負荷がかかった時などにはよく表れるが、そうでもなければユリが発生することは中々なかった。
そして、今目の前にそれが現の如くに表れて主張しているからには、つまり私は苦しんでいると言うこと。
まるで物語の天使のように、白の羽織一枚から色のない羽根を広げながら彼女は私を酷く気にした。
『ねえ、イナちゃん。そんなに人の言葉を気にしちゃダメだよ?』
「そう……かもね」
私は現実の間に多少の空想を重ね着したところで処理落ちする程能力が低いという自覚はないのだが、しかし苛立たしい心地に寄り添うように表れる無垢は中々うざったいものだ。
この天使は自愛を強請る。私は私なんてどうでも良いはずなのに、私の病はどうも私を愛してくれているようだった。
たとえ自慰だろうが私が何かに愛されているなんて認めたくはなくとも、事実ユリは心配をま白い面に存分に表す。
何にもない空間に浮かぶ彼女は、独りぼっちの私にこう続けた。
『それにしてもあの子たち、イナちゃんに調子に乗っているって……どこ見てそう思ったんだろうね』
「私の軌跡とこの表面が発する印象から。本質とは無関係なところかな」
『そうだよね! あたしイナちゃんほど自分のこと嫌いな子、他に知らないもん!』
だからあたしが付いていてあげなきゃダメなんだけれど、と続けてのたまう天使様。
いかにも上位者らしいお節介に、私は愛想笑いすることもなくただ生真面目に頷くのだった。
「そうね。私は私が嫌い。でも、それが調子に乗っていない理由にもならないかな」
『えっと?』
「自力を忘れて下位を装って無関係を気取る。それだって、普通一般から見れば距離を感じて当然ね。上か下かは関係なく突き放されているように……そう、スカしてるとでも思うのではないかしら?」
『あはは、イナちゃんはスカしちゃってるんだー。でもそうだね! イナちゃんすっごいちゅうにびょうだもの』
「私は思春期の病よりも本格的なものに疾患している気もするけれど……まあ、結局私はダメよね」
一人の女子に嫌だと突き飛ばされて、そのままお尻から無様に落ちた。
天使でなければこんなものなのだろうが、私の口は勝手にきゃと鳴いて手の平はありもしない救いを中空にまさぐる。
無為は愚行で、だがおかげで彼女たちの瞳の侮蔑は愉悦に切り替わり、去った。
こんな理想的でない、無私に殉じることも出来ない生き物の私。
その上で一人で今もストレスによる妄想と会話しているのだから救えない。
あの子達の髪尻尾のイメージが消え去ってからしばらく。ようやく起き上がった私にユリは首を振った。
『んー? ダメなことはないよ?』
「天使になれず、見つけも出来ない私が?」
『それはそうだよ! つまりユリちゃんは人でなしじゃないし……それにあたしを見つけてくれた』
「……ユリ?」
私はきっと自己よりもっと天使を信じていない。だが、手一杯にそれに縋っている。
反して私の妄想のユリは天使の己を信じていて、その上で私に向けて手を広げた。
この子の瞳の色は赤で、現にあまりにそぐわない。故に焦点の欠けたそれが発する雰囲気を神秘と捉えて、私はユリの言葉に聞き入る。
天使は、妄想は、彼女は、私は、上から下にこう告げた。
『だってあたしと目が合うって、とっても珍しいんだよ?』
翼。それは持たないものと行路の違いを感じさせるに充分な異なり。
そんな翼膜に風を孕ませることすらなく浮かぶ私の妄想の発言は、しかしあまりに当然至極。
地べたですら一向に合わない視線を空で沿わせるのはきっと難で、ならば私と彼女がこうして向かい合うのは奇跡的なのかもしれない。
「そう」
と考察してから、私はきっとただ一人で中空に向けて頷いたのだった。
家は人の巣である。
とはいえ保存や衛生などを含んだ多機能である箱に、郭公が間違って卵を産み落として去ることはないだろう。
駆除のために煙で燻す必要すらもうなくなった、人間空間。
熊谷家の子供部屋とされた蜂で言うところの巣房、セルにて私の前で少女が怒りに藻掻く。
でもこの子は多少の相似があっても蜂の子とは違ってとても食べられる味ではなさそうだと、私はつと思うのだった。
熊谷もみじは、自室でだらしなく足を投げ出したまま、テーブルに力なく額を乗っけてからこう零す。
「あー、ダルいわ。どうしてあたし、休みに教科書と睨めっこしなきゃなんないわけ?」
「それは、貴女が普段から勉強をしていないから」
「はー……じごーじとくってやつ? でもあたし、やんなきゃったって、あんたみたいに教科書見ないで宿題解くよな勉強マシーンにだけはなりたくないわ」
「ふふ。この程度じゃ機械なんてほど遠いし、そもそも私の心はマシュマロだよ?」
「ぜってー、嘘だ。あんたがそんな甘かないってのは知ってる……いや、もうちょっと甘く見てくんない? 宿題とかやんなくてもいいっしょ?」
「ダメ。頼まれちゃったから」
「せんせーとあたし、どっちが大事かっての……あ、あんたはせんせーか」
「そうね……私は真面目な方の味方」
教科書データの入ったタブレットを指で突きながら、彼女は口を尖らせる。
微笑むばかりの私に、やはり彼女は少し上等過ぎて大事にし辛かった。
熊谷もみじは、人である。他者を大事に、そしてそれ以上に大切を守ることが出来る女の子だった。
言にした通り、私は真面目な生き物が好きである。
犬が賢しくもお手をするよりは、彼らが人のバッグを噛みつく際にこそ私の心は動けた。
動物が動物から外れない有り様には安心すら覚える。それでいながら、天使なんていう天まで外れた人間を夢に見るのであるから、救いようがないのだが。
「はー……メンド」
そんな風に溢したところで、止まらぬ指の先。彼女はバツとされるだろう回答を円かに画く。
いくら悪態をつこうが決して投げ出さないという、美点を眼の前の子供崩れは持っていた。
そう、私の心は今もみじという真面目な人間のために快く動いているのを感じている。
私は私を虐めようとした彼女たちが幾ら叩かれようとも救われはしない。
でも、それならばと勘違いして私の救いを願って自らの顔に引っかき傷を沢山作って帰ってきたのが、熊谷もみじ。
やっつけらんなかったわ、と数の暴力に負けた筈の彼女ばかりが生真面目に登校してきていたのが私には酷くおかしく思えてならなかった。
だから笑って、それに怒りを向けた彼女がでも良しとしてしまえばもう、何もかもがどうでも好い。
神どころか天使すらない世が地獄であったとしても、しばらく私は生きることが出来そうだった。
「そう。私にはそうでもないけど」
「だったら代われっての。てきざいてきしょって言うじゃんかー」
「なら、本当にやってあげようか?」
「……それは、あー……やっぱ止めとく。なんもしないってのもオモロくないわ」
「ふふ、そうなんだ」
雉も鳴かずば撃たれまい。だが、天若日子は愛に打たれて自業に死んだものだ。
そんな昔話に塗れなくても、私はこの子の逆巻く鱗だらけの身体を柔らかな言葉で挑発するのを楽しんでいる。
つまるところ、私は久方ぶりに、心浮つかせているというのを自覚していたのだった。
三日月にでもなりたいのか勝手に弧を作らんとする口元を抑えるばかりの私。
『この子、悪い子だね』
だが二人の空間に、空からぽつりと冷たいもの一つ。
私は相変わらず逆しまに出現した百合に対して反駁の言葉も出せず、むしろこの妄想の的外れがもみじに届きはしないかと冷や冷やしていた。
いくら天使が美しく潔癖だろうとも、それでも偽悪を謗るのは違う。いや、違って欲しいと私は理想を思うのだ。
故に、私からはみ出た少女の侮蔑の瞳が胸に痛い。だからこそ、つい私は百合の言葉をオウム返しするように問った。
「もみじは、悪い子?」
「あー? そりゃあ、あたしが良い子なわけないんだから、悪い子でしょ」
「そう」
そして、見知らぬ数列に戸惑う彼女の漫ろな言葉に、私はむしろ救われる。
もみじが思い込んだは三つ子の魂に対する母の罵り。それを真に受けた少女はどこまでも愚かで。やはり人は信じたがりなのだ、と思い出せたから。
『嘘つき』
しばらく、私は天井付近に頭を地に向けてばかりの天使を飾りとして、教科書を開けながら他人の勉強ばかりを望んでいた。
間違いばかりの計算に飽いた少女は回答をバツで埋めてから、シャープペンシルを違う科目に向けている。
私が得意で好きな教科、国語で現代文というニッチ。筆者の考えを妄想するのを好んでばかりいた幼少期を引きずりながら私は勝手にも、もみじの眉の緊張が解かれることを期待していた。
だが、眼の前にいるのは思っているばかりの他人。
故に、彼女は私が考えたこともないようなことを平気で音にする。
声色は懊悩に若干低く、少し飾り過ぎな色の唇から紡がれた。
「なんていうかさー。こういう本の中の人って、難しく考えすぎよね? ありえなくない?」
「そう……かもね」
もみじが口にしたのは、彼女にとっての真実。きっと、この少女の世界には音と文字が空を埋めずに、それが正しいのだろう。
反して、私達はなんだ。
隣り合うは文字の塊にになる程度の思索によって己を表すキャラクターたち。私はいっそ哀れなそれらに親しみを覚えるくらいに言葉に溺れていた。
論理のためのボビンと論理に縋る実体。上等なのは前者であり、後者にはろくな意味などない。
『でも、イナちゃんも多分白紙に写った染みの一つだよ?』
そうだろうか。しかしもしそうだとしても、私は私のためでしかないためにつまらない。
よって、面白みを探して彷徨う誰かの瞳がここに定まることはきっとないだろう。
『今も読まれているのにねえ』
降ってきた訳知り顔に、私は知らん顔。
たとえ天使が第四の壁の中にて私を鑑賞していようとも、そんなことは知りもしないで生きている。
正気とは無知そのものであり、知ってしまったなら知らないようにし続けることこそが正解であると願うばかり。
故に、私を庇った行為を基にして誰と彼が恋を始めたなんて噂、至極どうでもよいことで。
誰かのために格好つけたいからと背伸びする少女の微笑ましさにだって目を瞑り。
「やっぱ、分かんないわ」
「そうね」
私はどこにも天使なんていないと、首を縦に下ろすのだった。
『綺麗だねー』
光芒、ジェイコブズ・ラダー、天使の梯子。それらは殆ど同様な現象のために使われるもの。
その陽光は眩しさに睨まれることなく、望まれる。こちらに届かんばかりの大いなるものの軌跡こそ、美しい。
多くの人が、それを神秘と採ったのだ。それこそ、私以外の数多は。
「そう、なのかな……」
物事は多面であって然るべきで、ならば少数派が光散らばる美しいばかりが光線の本意でないと妄想したっていい。
そう当たり前のように述べる、私はそんなピカソを夢見た嘘つきだった。
私の中の天使様は、そんな私の心を代弁する。
『そうだよー。もう、手が届きそうなくらい、輝いてる!』
何もかもを一眼に容れようとすれば、歪みも覗いて然り。私は何もかもを勿体ないとしようとして、その実何もかもを見捨てていた。
ああ、全てを平等に見捨てるばかりを仕事にしているのであれば、それは或いは神にも似るのだろうか。
しかし私はただの悪である。
『遺書……書かないの?』
「もっともらしく綴ろうとも、触れない理屈に意味はないから」
『誰も貴女を愛していないから?』
「違うわ。誰の愛も私が触れようとしなかっただけ。愛の実存は、私以外の全てが知っていればそれいい」
『なら……もうちょっと頑張れない?』
「これがもうちょっとの、結果」
極論のホットサンドは熱を持った力による圧着によって焦げ歪みもするが、決して吐き出すばかりの無味ではない。
毒にもなりうる人の意見を飲み込んで、誰かが死んでも知らんぷり。そんな、現実が私の隣りにあっただけ。
『そんなに、彼が彼女を殺してしまったのが、嫌なの?』
「うん」
『あの子はきっと、生きていたかったよ?』
「そうかもね」
私は、これまで天使を探すにあたって、一度も神に願ったことはなかった。また、そのために身を正すことだって、していない。
或いは蛆の襞を眺めることのみが功徳であるならば、こぞって彼らは汚れた死体を拝むのだろうか。それは、違うだろう。
皆それぞれ美しいと思うものがある。そして、私以外のそれらこそが正しく、何もかもからそっぽを向いてばかりの私が愛されるのは、むしろあってはならない。
畢竟、松山東は熊谷もみじに私を見ていた。しかし彼女と私は大違いであれば、臆病者の彼がそれに怖じてしまうのも仕方がない。
だが、何より他人の隠したナイフを恐れてばかりいた彼が、大きなその手のひらをもみじの首を括るために用いてしまうとは、思わなかった。
そして、青年は罪の味を知り、それに負けて建物に火を放つ。だから、発覚直後は痴情のもつれだの何だの散々に噂されたものだったっけ。
「実際私は、ルッキズムに安堵してばかりの子供だった。見て見ぬふりをし続けていたのは私」
『イナちゃん……』
これまで口吻すら許さなかった男子に、今宵は性交を迫るのだと送信してきた少女の悲劇。
私はあくまで第三者であって、ましてや観客のような百合に分かるものではないのだけれど、我々はそれがどうしておかしいと思えなかったのか。
どうして私はあれがもみじの追い詰められたがためのひと噛みと理解できなかったのだろう。
それが、私が天使を探して空を見上げるために、何もかもを見捨てていたがための結末だとしたら、流石に私も辛かった。
それこそ、死に入りたいと心より思う程には。私の強張りは事件のケアの名目で訪れた心療内科医だって見抜けはしなかったけれども、でも確かにあって。
「あんなに、どうでもいい奴らだったのに、ね」
『そんなこと、ないよ』
「うん。むしろ嫌いだったかな。私に強く擦れたと思えば去っていく。そんな大嫌いなあいつらのために……私は死んであげたいんだ」
『イナちゃん……っ!』
この世に愛以外に何もないとは思わないが、私は愛以外を欲しいとは思わない。本当はだから、天使を探した。
翼持つ、大いなるものに至る階。天使をそうだと錯誤して、異常な私を何時か何かが受け入れて貰えはしないと手を伸ばして。
「よし」
その手は空を掻いた。そして、勢い余った挙げ句に誰かを傷つけてしまったのだ。
それは、あまりに本意ではない。だから、私は天使になることにする。
『ああっ!』
近頃ずっと籠もっていた私の四角形の部屋は、満遍なく裂けた何かで出来ていて、しかし私が首を通したその丸だけは太くて確か。
やがて羽根はなくとも私の身体は間違いなく空に浮かぶ。
痛み、潰れて身体は勝手にもがく。
しかし自重に呼吸は殺され、いずれ大ぶりなネックレスに引っ張られた死体はきぃ、きいと揺れる。その筈だ。
「……ぐっ」
630nmの電磁波。私の脳裏で明滅するのはそれがもたらす色と実際ほぼ同じものだった。
レッドアラートに、空の青はあまりに遠く、心臓の音のうるささといったらこれまでにない。
死にたいのに死にたくないともがく手は首元の縄紐を皮ごと裂いて、でも掴まれずに私はまるで【百合のよう】に翼いらずに浮いている。
彼女は覗くために真っ逆さま。私は息のために天を向いていて、だから。
『ごめんね』
彼女の、そんな言葉より何よりも、私に冷たく触れたその指先の感触に、思わず生き返るくらいに驚いたのだった。
「っうぅ!」
それが間違いだとしても正しさこそが神ではないから。
無様な私は、死にたくないって暴れた。
『生きて』
苦しみの中百合の笑顔は次第に白に消えて、だからこそ私は諦めに頷くことはせず明滅の中とうとう天使を認める。
「待った?」
「ううん」
青くて天使の梯子眩しい空のもと、今日も私は、生きていた。そして、未だに天使を探している。
あの日、私を生かしたあの天使様を見つけに、私は今日も無様にも息をするのだった。
「もう、四年? 結構僕ら、付き合って長いよね」
「そうね。私が死に損なってからそれくらいだから、合ってるわ」
「あはは……ブラックジョーク。ホント、最初は伊奈がこんな子だとは思わなかったなあ」
「私も、貴方がこんな甲斐性のある男子とは思ってなかった。まあ、最初のラブレターどころか後で何回も聞いた告白内容ほど、幸せにしては貰っていないけれど」
「それはリップサービス……じゃないな。精進します……」
「よろしい」
恋の外だからといって、早々愛するに足りる訳でもない。
でも、好きに好きを返したくなるのは、仕方なかった。だから、私はここに居る。彼と、一緒に居られた。
死にたいくらいに恐縮な悪しき命と感じる我が身を伸ばして、私は彼の手を握る。もう、この温もりが他の誰でもいいとは思えないから。
「それにしても、県境を越えないと中々会えないのは難ね」
「もっと僕も勉強してればなあ……」
「私がもっと勉強をサボっていればよかった?」
「はは。それだけは違うな……」
「なら、これでいいね」
「そうだね」
何もかもがいいわけではなくとも、それでも花は咲くし、私も彼も老いていく。
この合間に数多の畜獣達の躯は平らげられたり砕かれ焼かれたりなどしたことだろう。だが、証もない彼らの死をもうただ残念とは考えない。
満点ばかりが輝くのでなければ、花丸なき答案を誰より大事にするのがこの私だった。
そんな私が死に損なったところで何だろう。心入れ替え彼彼女のためにも、私は間違って生きる。そう決めてから実はそれ程経っていない。
これまでの四年間、殆どが壊れた心を彼と一緒に立て直すための日々。病名と錠剤の甘さに慣れ親しんで、ようやく寛解とされた今がある。
どうしてか作り笑顔がぶきっちょになった私は、でも今は心より笑んで隣り合う。目を細めて、最愛の人になってしまった彼はこう言った。
「僕は、未だに理解できないから、君から目が離せない……危なっかしいしね」
そんな愛言葉に私は当然、こう返す。
「それで良いわ。私はそんな貴方で満足だから」
好き。私達はそんな異口同音を多く調整し合っているのだから、面白い。
光は歪み、結果として影を残す。それらを引きずり、私は歩んで時に縄の痕を忘れた首元に触れて高い音を響かせる。
チョーカーに鈴。そんなプレゼントの意味を検索せずとも知っている私は、だからこそ毎日それを身に着けて、彼の前で笑みに歪む。
でもそれだけの一見つれない私に、寂しがり屋さんの男子はこう問うのだった。
「でも、なら……どうして伊奈は僕を見ないで今空を見てるんだい?」
ああ、青い。それだけで綺麗である。地べたの私は満足していて、でも欲張って願うのだ。
彼は私の過去と本音の殆ど全てを告白として知っていて、だから私が見つけられなくなった彼女のことだって知っている。
もう、会えない本当は認められてなかった、信じたい百合。
私は純潔、無垢、自尊心といった花言葉の殆どを空に捧げて。
「勿論……天使を探して」
生きてと言われたからというだけでなくマドンナリリーを死者に捧げるように、あの子達をなかったことにしないため、満点に届かぬ眩しい空に祈るのだった。
世の中は結構時間とともにどうとでもなってしまう上に、思い込みが正しいとは限らないという隠しメッセージがあったりしますが、そんなのどうでもいいくらいにここまで読んでくださったあなたにいいことありますようにー。