第90話 【白き腐敗】はお腹が空いた
お腹がすいた。
それの願いはそれだけだった。
百年前。
世界各地に突如として現れたダンジョンによって世界は大混乱に陥った。
ダンジョンによる大地の侵略と、あふれ出したモンスターによる暴走被害。
理解を超えた現象に対して人類は何の対策も持っておらず、銃器すらろくに効かないモンスターを前になす術もなく敗北していった。
それでも人類は抵抗した。
ダンジョンを踏査する冒険者が生まれ、ダンジョン産の武器を集め、強化し、魔法やスキルといった新しいルールに適応し、自らの力に変えていった。
そんな人類を嘲笑うように【最初の災厄】が現れ、地球に修復不可能な傷をいくつも刻み込んだ。
それが決定打になった。
いつしか人類全体に、この世界はもう終わりなんだという、緩やかな絶望が広がっていった。
人に優しくできるのは、自分に余裕がある者だけ。
他人に伸ばしていた手は、やがて自分たちに伸ばすようになる。
誰かに分け与えるのではなく、自分のために使うようになる。
未来ではなく現在を優先し、隣人ではなく自分の命を優先する。
思いやりを失った世界では格差が広がり、差別と分断が世界中で加速する。
貧しい国は大国に奪われてさらに貧しくなり、飢える者は周囲から略奪されてますます飢えていった。
その国もまたそうだった。
隣接する大国が、自国優先主義を真っ先に掲げたため、発展する途上だったその国は瞬く間に奪い尽くされた。
昔から出生による階級差別が根強い国だったこともあり、最下層で生まれた者には家畜以下の人権もなかった。
そして、そんな者たちを顧みる余裕が、当時の世界にはなかった。
そうして、新たな【災厄】が生まれた。
その者に母親はいなかった。
捨てられたのか、亡くなったのかもわからない。
父はいた気がする。優しく大きな手で頭を撫でてくれた。そんな気がする。
今もうその温もりはどこにもない。
一人だった。
お腹が空いた。食べるものは何もなくて、体は痩せ細っていた。
両親の愛情も、雨風をしのぐ家もなかったけど、飢えが一番辛かった。
孤独は我慢できる。寒ければ体を丸めればいい。だけど飢えだけは我慢できなかった。
お腹が満たされなければ、心も乾いて荒れてしまう。
ただ目の前にあるものを食べて生きるしかなかった。
這い回るネズミを捕らえた。
疫病が流行っていたが、最下層の人間にはそんなことを知る機会も、病というものを理解できる学もなかった。
泥水を啜った。
それが汚れた水なのか、別の何かなのかを知ることもできなかった。
砂つぶを噛み締めた。
味も何もなく、口にするたびに喉が渇いた。
食べても食べても満たされなかった。
お腹が空いた。
頭の中がそれだけでいっぱいになる。
生きたいという根源的な欲求さえ消え、お腹を満たしたいという、原始的な欲求だけが残される。
お腹が空いた。
痩せ細った小さな手が砂をつかもうとする。
もうその力も残されておらず、小枝のような指が地面をかいただけだった。
お腹がすいた。
お腹がすいた。お腹がすいた。
お腹がすいた。お腹がすいた。お腹がすいた。お腹がすいた。お腹がすいた。お腹がすいた。お腹がすいた。お腹がすいた。お腹がすいた。
おおお腹なかなかなかなかんかかがすいすいすいすいすすすすすすす
【信号受信…認証完了…構成情報変換開始──貴方の願いを叶えます】
ご馳走が目の前に現れた。
あたたかな湯気をくゆらせ、香ばしい匂いが周囲に広がっていく。渇き切ったはずの喉に涎が溢れた。
手を伸ばした。
砂粒ひとつ掴めないほど痩せた指だったけど、触れるだけでご馳走が口の中に入ってきた。
美味しかった。
この世の何よりも美味しかった。
ほんの一欠片が口の中に入るだけで、旨味が身体中で爆発し、全身が瑞々しさを取り戻すかのようだった。
乾いた砂に水が染み込むように、体の細胞全てが歓喜に震えた。
美味しいなあ。
もう一度指を伸ばした。
さっきよりも少しだけ動きやすくなった手で、さっきよりも少しだけ多くのご馳走を捕まえた。
美味しかった。
ほんの一欠片を食べた時よりも、一度にたくさん食べた方が美味しかった。
噛み締めると果汁のように甘い汁が喉を潤し、コリコリとした食感が舌だけでなく耳まで愉しませてくれる。
食べれば食べるほど頭の中は幸せに満たされ、体は力を取り戻し、もっとたくさん食べられるようになる。
体が力を取り戻すと、周囲の状況も見えるようになる。
ご馳走はそこら中あると気がついた。
動かないご馳走も、動き回るご馳走も、たくさんあった。
美味しいなあ。美味しいなあ。
貪るように食べ尽くした。
美味しいものはいくらでも無限に食べられた。
食べても食べてもご馳走は世界中にたくさんあった。
この世界に美味しくないものはなく、存在するもの全てがご馳走だった。
こんなにたくさん美味しいものがあるなんて、世界はなんて素晴らしいんだろう。
体に血が巡ると、脳が思考を再開する。味を覚えると、違いも感じられるようになる。
小さいご馳走より、大きなご馳走の方が美味しい。
動かないご馳走よりも、動くご馳走の方が美味しい。
芳しい匂いを放ち、丸々と太った、生命力に満ちたご馳走の方が美味しい。
だから食べた。食べ尽くした。まだ食べられる。もっと食べられる。
美味しいなあ。美味しいなあ。
なのに。
どうしてだろう。
食べても食べてもお腹が空いている。
もっと食べたい。
もっともっとたくさん食べたい。
もっともっともっと美味しいものをたくさんたくさん食べたい。
満たされない。お腹が空いている。心が渇き、体が飢えている。もっと、もっと、と声がする。
もっと、もっと、美味しいものを──
……あれ。これはなんだろう。
遠くに美味しそうな気配を感じる。
力強くて、瑞々しい光にあふれた、見たこともないほど美しいご馳走。
この世界の物とは思えないほど力強い光に満たされた、世界一美味しそうなご馳走だ。
それを感じた瞬間に全身が歓喜に震えた。
あれを食べることができれば幸せになれる。きっと心も満たされる。
そうしよう。そうしよう。
いっぱい、いっぱい、食べるんだ。
そうすれば。
きっと。
お腹いっぱいになれるはずだから。
お腹がすいた。
それの願いはそれだけだった。