暁降ちを待つ
「ご指名ありがとうございます」なんて、テンプレな台詞を吐いてみたら目のまえの女性はきょとんとした顔をしていた。
「えっと・・・?」
「佐藤冬樹さんのお宅でお間違いないでしょうか?」
そう言うと、女性はようやく合点がいった顔をした。その顔を見て、私も状況を悟る。デリヘルに登録する客が本名を晒さないなんて珍しくない。客の名前が本名かどうかなんて私も興味ない。だから佐藤冬樹という名前も偽名だったとしても驚かないが、女性が男性を装ってデリへルを呼んだとしたら話は別だ。うちの店は女性の利用を禁止している。つまり、目のまえの彼女の要望を叶えることは出来ない。彼女が何を求めているかは知らないが。
「申し訳ありませんが、当店は男性のお客様のみのご利用になっておりまして」
「そうじゃなくて」
事務的な口調で告げた私の言葉を女性は遮った。
「頼んだのは私じゃないんです・・・けど、今いないからとりあえず中に入ってくれませんか?」
自宅の玄関先でデリヘル嬢が淡々と説明するのは確かに何も頼んでいない彼女からしたら嫌だろう。私は、少し悩んで部屋の中に一歩踏み出した。
「コーヒーと紅茶、どっちがいいですか?」
「お構いなく」
「まあそう言わず。私も喉渇いたから。お客さん放置して自分だけ飲んでるなんて嫌じゃないですか」
私は自分のお客さんに会いに来たはずなのだが、見ず知らずの女性にお客さん扱いされている。その状況に少し首を傾げつつ彼女の恰好を見た。先ほどまで風呂に入っていたのかもしれない、肩下で切りそろえられた栗色の髪はしっとりと濡れており着ている服は高校の指定ジャージだろう。知らない高校名が胸元に刺繍されている。確かに彼女は私のお客さんではないのだろう。明らかにこれから人に会う恰好ではない。
「えっと・・・じゃあ、私も同じもので」
「じゃあ紅茶にしようかな。レモン、ミルク、ストレート、どれがいいですか?」
「ストレートで」
裾が少し擦り切れたジャージを着た彼女は、黄色いマグカップに紅茶を注ぐと私にソファに座るように指示した。テレビとローテーブルと革のソファ。一つ一つの家具の大きさが、二人で暮らしているのだなと物語っていた。
「佐藤冬樹っていうのは、私の彼氏なんですけど」
何となく予想出来ていたことではあるが、結局私は少し驚いてしまった。それは、そう種明かしをした彼女の声に怒りも悲しみも全く含まれていなかったからだ。
凪いだ声で彼女は続ける。
「たまにあるんです。女の子呼んでたことを忘れて出かけちゃうのが」
「そう、なんですか・・・」
「今日は大学の時の友達と飲みに行くって言っていたので多分本当に忘れてるんじゃないかあと思うんですが」
彼女の凪いだ声と比例するように私の気持ちも萎えていく。だって、これは予想以上に面倒くさい。私がここに来ている以上は料金が発生しているわけで、でも目の前の女性は私を指名しているわけではないので支払いを請求しても拒まれる可能性がある。お茶まで出してもらっておいて自分勝手な話しだが、私は前払い制度を導入しなかった店長を恨み、渋々声をかけた。
「あの、当日キャンセルの場合も料金が発生してしまいまして・・・」
「ああ、大丈夫ですよ」
おずおず、という風情で話しかけてみた私に、彼女はカラカラと笑いながら答える。
「ちゃんと支払います。よかったら、騙されてくれませんか?」
「・・・え?」
「貴方は今日、指名されたお客さんのところに行って、通常通り仕事をしてお金ももらった。そういうことにしてほしいんです。それでウィンウィンだから」
恐らく彼女はお店のルールで男性しか利用できないと私が言ったことを指摘しているのだろう。確かに私は店の規定違反に目を瞑らなければならない。だがそれを差し引いても私の方に利益が多い、というより目の前の彼女に利が全くない申し出に首を傾げた。
「私としては願ったり叶ったりですが、ウィンウィンというのは・・・?」
「冬樹先輩って、何時間で指名してるんですか?」
あ、佐藤冬樹って本名なんだと思ったことは覚えている。
「2時間です」
「そっか。じゃあ、2時間ここにいてください。ここにいて、私のお喋りしてほしいんです。・・・それだけでいいから」
ずっと優しく笑っていた見知らぬ女性は、今日初めて寂しそうに笑った。
「私は、大和純って言います。お姉さんの名前は?」
「あんまり知らない人に本名教えない方がいいですよ」
小学生にするような注意をしてみると大和さんはくすくすと笑った。
「そうですね。お姉さんの源氏名?でいいので教えてください」
「私のことではなく・・・鈴木更紗です」
「なんだか、本名みたいですね」
「本名ですから」
「・・・あんまり、本名教えない方がいいですよ」
大和さんは呆れの混じった目で私を見た。どの口が言うかと突っ込みたくなって、すんでのところで踏みとどまる。私だって、今日一日、2時間で別れる他人に名前どころか何一つ教えるつもりはなかった。それなのに、どうして彼女に素直に話してしまうのか分からなかった。
「敬語じゃなくても構いませんよ、お客様ですし」
だから、不意に話題を変えてみる。
「・・・お客様だからってこっちの立場が上、みたいなのあんまり得意じゃないんです。だから、私もタメで話すので、更紗さんもタメで話してくださいね」
「え、それは・・・」
「で、私のことは純って呼んでください」
「分かっ、た、純。私のことも、更紗って呼んでね」
そう言うと、純は満足そうに笑った。
「それで、何の話がしたいの?」
「え?」
「何か話したいこと、というか聞いてほしいことがあったから私を買ったんじゃないの?」
まあ、十中八九今この場にいない佐藤冬樹さんのことだろうけど。という言葉は言わずに呑み込む。純は、私が言ったことをじわじわと咀嚼してからにやりと笑った。
「冬樹先輩と私って何年くらい付き合ってると思う?」
やっぱり佐藤冬樹さんの話だったか。私は純の顔をじっと見ながら真意を探る。
「純って今いくつ?」
「23だよ。更紗は?」
「25」
「あ、じゃあ冬樹先輩と同い年かなー」
どうでもいい情報を楽しそうに語られる。共通の知人のような空気を出されるが、私は佐藤冬樹さんのことは何一つ知らないのだ。だから、純の質問を真面目に考える。先輩という呼び方をしているということは、多分学生時代、かなとあたりをつけてみる。
「高校?」
「え?」
「いつから付き合っていると思うって純が聞いたんでしょ?高校の時?」
「あ、ああ」
純は自分がした問いかけを今思い出したという顔をした。
「惜しい!大学の時からだよ」
「ふうん。先輩って、学部の先輩とか?」
「ううん。高校の時に同じ部活だったの。付き合いだしたのが大学ってだけ」
「何部だったの?」
「んー、美術部」
「へえ、意外」
「意外かなあ」
照れたように笑う純を見て、やっぱり意外だと思った。屈託なく笑う表情も、均衡の取れたプロポーションも、運動部と言われた方が納得出来る。
「まあでも全然絵なんて描いてないけどね!」
「え、じゃあ何してたの?」
「美術室でお菓子食べながらお喋り」
前言撤回する。だべりながら放課後を過ごす学生時代はなんだか純らしい気がした。まだ出会って数十分だが。
「うちの高校って部活入るのが必須でねー。美術部は一番不真面目だったんだ。顧問もめったにこないからお菓子食べてくだらない話をして、時々みんなで遊びに行ったりして。楽しかった。・・・更紗は部活何やってた?」
「帰宅部」
「そうなんだ」
「お金が好きなの」
「へえ?」
「だから高校の時から空いてる時間はとにかくバイトしてた」
「なんか更紗っぽいね」
純はカラカラと笑った。思わず、出会って数十分の人間が私の何を分かるんだと言おうと思ったが、さっき自分も同じことを思ったと思い出す。
「先輩は、私に美術部入ればって誘ってくれたの」
純は足のつま先を擦りあわせる。目線は下を向いていて私に話しかけているはずなのに私を見ていないようだった。
「私ね、友達少なくて、部活も本当は入りたくなかったの。ガチでやってる強豪の部活なんてもってのほかだし、ゆるゆるの仲良し部活に入っても多分他の子と仲良くできないだろうなあって思ってたの」
「人当たりよさそうなのに、意外」
「そう見える?やった。めちゃくちゃ頑張ったからね」
笑っている時の純の声がぽんぽんと飛び跳ねるようなのに、思い出を語る時の純は小さな声で呟くように語るからか何だか聞いているだけで寂しくなる。純が私から目を離しているのをいいことに、私はそっと瞼を閉じて純の声を聞いた。
「一年生?」
「え、あ、はい」
冬樹先輩は、へらへらとした人だった。軽薄という言葉が似合う人だった。対して私はチビで気弱で人見知り。担任の先生にすら名前を覚えられていないような地味な生徒だったので、冬樹先輩のような派手な人(その時冬樹先輩は右耳にピアスをしていた。ピアスはもちろん拘束違反だ)に話しかけられたことがなかった。美術部って多分地味な子多いし、黙って絵を描くだけなら人と話さなくていいかも。そんな安直な考えで美術部の前をうろついていた私に話しかけてきた冬樹先輩は明らかに怖いタイプの先輩でビビりの普段の私なら即逃走の構えを取るような人だった。
「見学?」
何も答えない私を見かねてか、冬樹先輩はもう一度私に話かける。
「えっと・・・美術部ですか?」
美術室にいるんだから美術部員に決まっている。私は馬鹿な質問をした自分を恥じたが一方でちょっと期待もしていた。例えば、今美術部の人たちは外に写生に出かけていて、その間不良数人が美術室でたむろしている、とか。まあ、そんな場所で部活するのは恐ろしいから結局なしではあるのだが。でも、美術部ですか?いいえ。すみません間違えました。で解放されるならまだましだ。
それなのに、冬樹先輩は答えた。
「うん、俺とそこの女子3人と男子4人全員美術部だよ。まあ、絵なんて俺ら描いたことないけどな」
快活に笑った冬樹先輩から逃げる方法を模索する私は、しかし足を床に縫い付けられたみたいに動けない。
「冬樹、その子怖がってるんじゃない?」
突如、冬樹先輩の背後から声がした。窓際でお菓子を食べながら喋っていた女の先輩のうち一番背が高い人だった。冬樹先輩とは多分15センチくらいの身長差。少しも笑わない無表情のまま彼女は冬樹先輩に指摘する。
「え?まじで?何で」
「私たちそこそこ柄悪いから。新入生からすると普通に怖いでしょ」
「そっかあ」
初めて思い至ったという顔をした冬樹先輩は、ぐりんと顔をこちらに向けて真剣な顔で問いかけた。
「俺、怖い」
「えっと・・・あの・・・・・・はい」
こんなことを言ったら怒られるんじゃないかと声に出してから気が付いたがもう遅く、私の返事は冬樹先輩の耳朶に響いた。
「そっかあ、君!名前は?」
「大和、です」
「大和!俺は佐藤冬樹だから」
「えっと・・・はい?」
「大和、お前美術部に入れよ」
そう言われて私は断る勇気も、逃げる口実も思いつかずにあれよあれよと不良の巣窟に足を突っ込んだ。
「百合さん、爪塗らせてくださいよ」
「えー、やだ」
美術部に入って2カ月。私は一瞬で美術部に馴染んだ。最初に怯えていたのは何だったのか。実際話してみると彼らはずっと気さくで優しく、どこまでも私と同じ、人間だった。それまで宇宙人のように感じていた不良たちは正体が分かると怖くなくなるということを実感した。
それは偏に誘ってっくれた冬樹先輩が私を怖がらせまいと話しかけてくれたおかげでもあったし、気遣いが欠落しがちな冬樹先輩のフォローをするように私を気にかけてくれた百合さんのおかげでもあった。百合さんは、冬樹先輩が初対面で私に迫った時に諫めてくれた女の先輩で、冬樹先輩とは中学の頃からの友達らしい。賑やかで軽薄な冬樹先輩と、凪のようで儚い百合さんは正反対に見えるのに一緒にいるのが当然みたいな雰囲気を常に持っていた。
「純、昨日貸してくれた本の続き、明日持ってきてよ」
「いいですけど、前貸した分ちゃんと持ってきてくださいね」
百合さんはお調子者の不良が集まる中で多分異質だった。読書家らしく他の先輩が来るのを待っている間、よく本を読んでいた。ちらりと見えたその本が私が集めているシリーズを書いた作家の別のシリーズだったこともあり、本のか貸し借りが出来るようになった時は飛び上がりたいほどに嬉しかった。同性の私から見ても百合さんは息を飲むほどに綺麗だったから。
「うわ、二人で何読んでんの」
「本なんて読まないのに、知る必要ある?」
それで、百合さんと話す時の冬樹先輩がただでさえ幼い精神年齢がさらに5歳くらい下がるように見えるのも好きだった。
「おう!俺は漫画しか読まねえよ」
「冬樹先輩、補習はどうしたんですか」
「サボった!補習してもどうせわかんないし!」
元気いっぱいそう語る冬樹先輩に、百合さんはあきれ顔で笑う。
「理央たちはみんな補習受けてる。不真面目なのは冬樹だけだよ」
そう。この先輩たちは意外と素直なのだ。テンションが高くで目立つ人たち(しかも見た目が派手)なので遠巻きにされがちだが授業は基本サボらないし、補習もちゃんと受ける。冬樹先輩も今日の補習を休みこそしたが、普段は授業もテストもちゃんと受けている。冬樹先輩は、もともと思考が少し足らない人なのだ。だから辛抱も足りないし、面倒くさいなあ、よし、サボろうという結論に達する。
でも、先生に怒られるのが怖いから、他の人たちに注目されるのが怖いから。そんな理由で授業中に気分が悪くなったとしても保健室に行くことすら出来ない私には冬樹先輩は酷く眩しく見えた。
「大和さん、美術部の人にパシリにされてない?」
心配、というていで話しかけてきたクラスの女子たちは、しかし顔には隠せない好奇心と嘲りが浮かんでいた。
「え・・・?」
次の授業は音楽のため移動教室。日直だった私は黒板を消すのに躍起になって、気が付いたら教室には私と、クラスでも目立つ、ギャルたちしか残されていなかった。
何を言われたのか理解出来なかった私の耳に、「やだー}とか。「はっきり言ったら可哀そうだよ」なんて声が響く。足先から震えが回ってきて、ようやく私は恐怖を思い出す。
「えっと・・?」
「だからあ、美術部の人たちって派手じゃん?」
焦れた様子で話しだしたリーダー格の女子は、いらついた顔を隠さないまま私を見下す。
「なんで、大和さんみたいな地味な子があの人たちと仲良くしてるのかなって考えてたんだけど、やっぱりパシリにされてるとか、いいように虐められてるくらししか考えられないの」
ああ・・・。やっと私は目の前の彼女たちの苛立ちを理解した。先輩たちは、確かに目立つ。派手な身なりも当然だが、イケメン美人の集団なのだ。顔が整った人たちしかいないのかあの集団は、と美術部に入った時に怒りにも似た感情に襲われた。多分、このギャルたちも私と同じだ。嫉妬と羨望を感じていたのに、そんな彼らが自分よりも明らかに劣っている人物を仲間として認めたのが信じられない。気持ちは分かる。私だって信じられない。
でもなら、今膝から湧き上がってきた震えは、どうして怯えではなく怒りだと私は感じているのだろう。
「私・・・ちゃんと先輩と、後輩で・・・別にパシリに使われてるとかじゃ、なくて・・・だから・・・」
「はあ?」
「だから、そんな風に言うの、先輩たちに失礼だから、やめてほしい」
私は怒っているのだ。多人数で詰められたからではなく、自分を馬鹿にされたからではなく。先輩たちを馬鹿にされたから。だって、百合さんも、冬樹先輩も、理央先輩っも、みんなみんな優しい。ぽっと出の私に、みんな優しくしてくれて、仲間に入れてくれた。私と話なんて合わないだろうに私の話を聞いてくれて、興味を持ってくれた。先輩たちとつり合いが取れてないなんて、私が一番分かっている。自分がダサいことも。未だにクラスに友達はいないし、授業中に当てられてもはっきり答えられないし、担任に名前を間違えられる。学校内で先輩たち以外に話せる人なんていない。こんな自分が先輩たちと一緒にいるなんて分不相応だ。でも、そんな自分のせいで先輩たちが悪く言われるのは、我慢できない。
言ってしまった言葉に震えが止まらない。でも、後悔はしていない。
「生意気・・・!」
ボスギャルが私の右手を掴む。力が思ったよりも強くて、反射的に目を瞑った。
「純ー、今日昼飯一緒に食うかって百合が」
緊張した糸を緩める、間延びした声。
「冬樹先輩」
そう私が呟いたのは冬樹先輩の耳には届いていなかったかもしれない。さっきまで鉾差しを私に定めていたクラスのギャルたちが冬樹先輩の登場に黄色い悲鳴を上げる。
「お、足田じゃん。何してんのー」
「えー、これから移動教室なので、大和さん誘って一緒に行こうと思ってただけですよー」
ギャルたちが強かに答える。私は、自分が同じクラスの彼女たちの名前を覚えていなかったことよりも、冬樹先輩がクラスどころか学年も違う彼女たちの名前をよどみなく答えたことに驚いていた。先輩、記憶力悪いのに・・・。
「そっかそっかあ。純と、仲良くしてくれてありがとう」
さっきまでのやり取りを見ていなかったのか、冬樹先輩がのんきにギャルたちに声をかけ、「でも」と続ける。
「俺、純に用あるんだよね。悪いんだけど、先に行ってもらってもいい?」
冬樹先輩の提案にギャルたちは異を唱えることはなく教室を出ていく。
「冬樹先輩、用事って・・・?」
後には、私と冬樹先輩だけが残される。ギャルたちがいなくなったことに安心した瞬間、別の不安が頭をもたげる。音楽室は別棟の3階。ここからだと渡り廊下に移動後3階まで上がらないといけないので残り5分の休み時間では間に合うか怪しい。無遅刻無欠席、当然サボりもゼロの私としては授業に間に合わないという懸念から話を早く切り上げようとしてしまう。
「手、見せて」
「え?」
私の了承を取る間もなく、冬樹先輩は私の右腕を取る。冬樹先輩につられるように私も私の右腕を見たら、そこはギャルに握られた形のまま赤く痣になっていた。
「保健室、行こうか」
「え、でも授業」
「純、体調悪い時は休んでもいい。それはサボりじゃないから」
「あ、はい・・・」
頭では分かっていてもそれを実行するのはとても難しい。でもそれは元来私がはっきりと自己主張を出来ないが故だ。だったら、今冬樹先輩の誘いを断ることと、授業を休んでしまうことと、どちらが大変なのだろう。
思考はクリアな気がしていたのに、体の方は全くついて行かず私はただ冬樹先輩にひっぱられるままに保健室に連れていかれた。
「あの、冬樹先輩・・・」
私の声は授業開始のチャイムにかき消される。もうここまで来たら授業には間に合わない。そう思った瞬間、なんだか気持ちが凪いでしまってじっくりと冬樹先輩を観察した。冬樹先輩は、保健の先生を探していたが、見つからなかったようで勝手知ったるといった様子で保冷剤を置くから持ってくると私の右腕に当てた。
「で、今日昼飯美術室で一緒に食うかって百合たちが言ってたけど、来る?」
「あ、はい、行きます」
冬樹先輩は、さっき教室で問いかけたのと同じ質問をもう一度した。ただ、その声はさっきとは違っていて静かで、どこか怒っているようだった。
いつもと違う冬樹先輩に私は居心地悪そうに身じろぎをした。
お互いに丸椅子に座って黙り込んでいる沈黙に耐えかねたのは私の方だった。
「・・・聞かないんですか?」
「何を?」
「虐められているのか、とか・・・」
探るような顔をした私に、冬樹先輩は一瞬目を見開き、それから困った顔をした。
「うー」とか「あー」とか唸った後、冬樹先輩は私に対してふにゃりと笑った。
「お前、凄いなあ」
「え、えっと・・・何がですか?」
「さっき、俺等をかばって怒ってくれたんだろ」
今度は私の方が目を見開く番だった。
「聞こえてたんですか」
「あんなに騒いでたら、嫌でも聞こえる」
「だって冬樹先輩、何も知らない顔して話すから・・・」
「あんな状況で俺が純のことをかばったら余計にこじれそうじゃないか」
「先輩、そういうの考えてたんですね」
「どういう意味だこら」
胸に、じわじわと広がる温かさは何だろう。先輩に褒められたことか、意外と先輩が頭を使っていたことへの驚きか、あの局面で迷わず私の方を助けようとしてくれたことか。冬樹先輩の目を見てみたら先輩はいつもの軽薄な顔で笑っていた。
「純は、もっと根性ないやつかと思ってた」
「根性は・・・ないですけど・・・」
「でも、あいつら純と全然タイプ違うのに。言い返すの勇気いっただろう」
「覚えてないです。気づいたら、言い返してて・・・」
「かっこいいなあ、お前。あ、でもクラスの奴らの名前くらい覚えろよ。で、ちゃんと仲良くしろ」
冬樹先輩がちゃんと先輩っぽい。それよりなにより、私に笑いかけてくれたその顔がキラキラしていて、よくわからないけど、私はその顔を一生忘れないだろうと思ったのだ。
「更紗、聞いてる?」
少しむくれた声に私ははっと純の顔を見た。
「聞いてるよ」
そう言って微笑んでみたら純は安心した顔で笑った。夜はとうに更け、さっきまで今日だった日が昨日になってしまった。
「更紗はさ、初めて付き合ったのっていつ?」
「高3」
「意外~」
「そう?」
「うん。小学校の時にさ、何組か付き合ってる子いなかった?」
「ああ、いたかも・・・」
「そんなイメージ」
「何それ?」
「早熟?クラスの中心人物?」
思わず噴き出した私を、純は心底楽しそうに見つめた。
「確かに、純って陰キャっぽいわ」
「え、嘘!?さっきと言ってること違うじゃん」
「なんか言葉選びとか、考え方とか?多分、純のいうところの陽キャってスクールカーストとか考えないと思うよ」
「スクールカーストって言葉、もう死語らしいよ」
「嘘」
「ほんと」
クスクスと小さく笑う声だけが響く。‘’冬樹先輩‘’は、まだ帰ってこない。
純は静かに私を見つめると、あとどのくらい?と聞いた。
「1時間、かな」
正直もう、仕事なんて関係なくこの子の話を聞いてあげたいと思った。そう思うくらいに、私は目のまえの女性に同情していた。多分、冬樹先輩は純のことをさして好きではない。だから純は、自分の彼氏がデリヘルを呼ぶことに慣れきっているし、夜中に一人きりで部屋に取り残されても平気そうな顔をしている。多分、それはすごく寂しいことだ。多分、知らないけど最初純は傷ついたんじゃないだろうか。冬樹先輩が自分を見てくれることに期待して、裏切られて。傷ついたけど、傷が癒える前に新しい傷をつけられるから純はやがて期待することをやめて痛みに慣れた。
凪のような瞳。一切の動揺を見せない言動。性格を変えてしまうくらい冬樹先輩のことが好きなのに、痛みに慣れきるくらいに傷つけられ続けた彼女が可哀そうだった。
それでも、彼女は私と一期一会だから包み隠さずに話しているのだ。この家のドアを開けたらただの他人に戻るからこそ今私に話している。そう考えると、間違っても「もっといてもいいよ」なんて言えなかった。
「うーん、冬樹先輩の話ずっとしていたら1時間なんて足りないなあ」
「足りないの?」
呆れをにじませた声でそう問いかけると、純は幸せそうに笑った。
「うん。冬樹先輩は凄いからね」
「凄い・・・?」
「うん。凄い、好き。・・・どうしよっかなあ。私が冬樹先輩に振られた話と、付き合い始めた話と百合さんと冬樹先輩が別れた話と、大学の話と色々あるけどどれ聞きたい?」
まるで私がせがんで話を聞いているみたいに言わないでもらいたい。
「おすすめあるの?」
幼子をあやすように聞いてみると、純が満足そうに微笑む。
「じゃあ、冬樹先輩が一番かっこよかった時の話にしようかな」
「純、久しぶり」
大学2年。冬樹先輩との再会は全く予期していなかった形で訪れた。冬樹先輩が卒業してから、私は冬樹先輩とは一切連絡を取っていなかった。高2の運動会で、百合さんと冬樹先輩が付き合いだしたことを知って、冬樹先輩に告白して、振られた。そこから冬樹先輩にまだ迫るようなガッツは私にはなかったし、冬樹先輩たちから離れるという選択肢ももう頭になかった。友達のいない私は、優しい先輩たちを眺めながら高校時代を過ごした。
卒業した先輩の進路すら、私は今ここで初めて知ったのだ。
「冬樹先輩、馬鹿じゃなかったんですね」
「出会いがしらに失礼だな」
私の言葉に、冬樹先輩は昔と変わらない笑顔で反応する。
まずくはないかもしれないが特段うまくもない焼き鳥、揚げ物がウリの大衆居酒屋で開かれたのは、合同コンパと呼ばれるいわゆる彼氏彼女を下がるイベントだった。
隣の県の国立大学に進学した私は、高校時代の反省をいかして多くはないが少なくもない友達を作るように奔走した。先輩たちがいてくれて助かった面も当然あるが、やはり大切なのは同い年の友人だ。申し訳程度に出来た友人に、隣の県立大学の男子と合コンやるんだけど、来ない?と聞かれて今に至る。
隣の県立大学も、そこそこの学力を必要としていた記憶がある。高校時代に補習から逃げまくっていた先輩がまさか大学生になっているとは。というか、何よりそれより。
「冬樹先輩、百合さんはどうしたんですか?」
今この場に冬樹先輩がいることで一番驚いているのはそれなのだ。冬樹先輩と百合さんは、仲の好いカップルというよりもお互いのことを熟知している熟年夫婦の域だった。甘い空気はなくとも別れることもないような。その冬樹先輩がここにいることは、浮気なのか別れたのか。それを問いただそうにも冬樹先輩はとうに輪の中心で笑っており、私はお通しのポテトサラダをゆっくりと咀嚼することしか出来なかった。
「冬樹先輩、このあと時間ありますか?」
ようやく冬樹先輩と話せたのは合コンがお開きとなり、店の前で二次会に行くかどうかを話し合っている時だった。鬼気迫る顔で冬樹先輩に声をかけた私を見て、見ず知らずの人たちが勝手に邪推してくれる。
「いいじゃん行って来いよ冬樹」
にやにやしながら冬樹先輩をこちら側に引き渡そうとする人たちに簡単に礼を言い、私は冬樹先輩の裾を掴んだ。
「純、なんか用?俺茜ちゃん狙ってたのに。ほら、セミロングの黒髪の子、可愛かったなあ」
人通りもまばらな夜道を二人で歩く。黙りこくった私と反対に、冬樹先輩が饒舌だった。話題の品はなかったが。
「冬樹先輩、コンビニ寄ってもいいですか?・・・私の部屋で飲みなおしましょう」
「・・・いいぜ?」
私の提案に冬樹先輩はにやりと笑った。
「おお、結構いい部屋住んでんじゃん」
なんて笑っていた冬樹先輩を酔いつぶしたのが10分前。冬樹先輩は今や私の部屋で真っ赤になってい倒れていた。大学に入って最初の飲み会で、私は私が酒に強いことを知った。
だから、勝算はあった。きっとこうなるだろうなという予感すら。
「純・・・?」
舌足らずな声で私を呼んだ冬樹先輩は、自分がどうなっているのかすら理解していない。
私が知っている先輩はもっとずっと大きく見えたのに、今私の部屋の床で倒れこんでいる先輩は小さくて憐れで、可愛かった。
「冬樹先輩・・・」
私はそんな冬樹先輩に馬乗りになりながら舌なめずりをする。頭はクリアで、緊張の一つもしていない。自分が冷静じゃない感覚はあるのに、冷静な私はどこか他人事で、私本体をぼんやりと眺めているような感覚。自分自身の心と体が乖離しているのを、確かに私は感じていた。
「先輩・・・」
人差し指で冬樹先輩の頬をなぞってみる。先輩は、ぼんやりとした顔で私を見た。
「純、どうした・・・?」
頭は回っていないのに、なけなしのプライドをはたいて私の心配をしてくれる冬樹先輩は健気で可愛い。そして私は、どうしようもなく冬樹先輩の後輩なので、先輩に心配されたら考えていることを零してしまう。
「なんで、百合さんじゃないんですか?」
冬樹先輩の目が見開かれる。そんなことを聞かれるとは思わなかったと、その目が語っていた。
「私、百合さんのこと尊敬してます。大好きです。だから、百合さんと冬樹先輩が一緒にいるならそれが一番綺麗なんだと、思っていました。私は一番じゃなくてもいい」
薄く笑った私の顔は、冬樹先輩にはどれだけ醜く見えているのだろうか。
「・・・でも、これは駄目です。あんな、あんな女、冬樹先輩に相応しくない」
聖域だったんだ。ずっと。百合さんも、冬樹先輩も、私にとって。不純物は要らない。私が不純物だと言うのなら喜んで身を引こう。
でも、不純物を是と冬樹先輩が言うのなら、それならいっそ。
「あんな女と付き合うくらいなら、私だっていいじゃないですか・・・!」
こんな最低な告白があってたまるか。冬樹先輩は完全に酔っぱらって私の言っていることを理解出来ているか怪しいし、私は涙と鼻水でぐちゃぐちゃだし、何より愛の言葉として最低すぎる。
覆水盆に返らず。でも、零れた言葉は消えない。私がしゃくりあげる音がうるさくて、冬樹先輩に何も聞こえていないといい。
「・・・別れても、百合が一番大事なのは変わらない」
酔いは完全にさめていないだろうに、先輩がぽつりと呟いた。
「それなのに、別れちゃったんですね」
私が自嘲気味に呟く。
「ああ・・・」
ふいと、冬樹先輩は私から視線を外す。瞬間、重い沈黙が辺りを包む。しんしんと降り積もる雪ですらこの中だと五月蠅く感じるかもしれない。それほどに深い沈黙を破ったのは、冬樹先輩だった。
「純、俺と付き合う?」
「・・・え?」
「俺は純のこと、恋愛感情として全然好きじゃないけど、後輩としてならそれなりに大事に思っている」
ぽかんと口を開けた私は冬樹先輩にはさぞ滑稽に見えただろう。
「多分、俺は本気で好きな相手とは上手くいかない気がする。その点、純とは長く付き合える気がするんだ」
鈍器で頭を殴られたようだった。目の前の男は私を振りたいのだろうか、付き合いたいのだろうか。どちらだろう。
「純は、俺が人でなしでも、別の女の子の所にいっても、百合のことが一番大事でも、傍にいてくれるだろう?」
先輩は、本当はこれっぽちも酔っていなかったのかもしれない。この提案を私に飲ませるためだけにこの状況を作り出した。・・・そんな筈はない。冬樹先輩の頭の出来は私だって知っている。この人は割合きめ細かいけれど、先回りして反応を窺うようなそんなことを考えて人付き合いをする人ではない。
だから、冬樹先輩は今、予想外に私に酔わされて、襲われて、それでも冷酷に私を脅している。まるで私がどう答えるか、初めから分かっていたかのように。
私は逡巡し、頷く。それを見て先輩は満足そうに笑った。
「それのどこが冬樹先輩がかっこよかった話なの」
憮然とした顔の私に、純はへらりと笑った。
「格好よくなあい?・・・私、冬樹先輩のほとんどは可愛くてダサい人だと思っているの」
「へえ・・・?」
「だから、残り2割もない格好いい部分を見たらドキドキしちゃう。ギャップ萌えってやつだね」
「違うと思うけど・・・原理は分かる。でもそれを差し引いても冬樹先輩はかっこよくないんじゃない?」
「そう?ボロボロの状態なのに、私からイニシアティブ奪おうとしてるんだよ。・・・そういうとこ、素敵」
純が、空になったマグカップを自分の頬に引き寄せた。私に笑いかけたその顔が、あまりに曇りがなくて私は思わず目を逸らす。
多分、いや絶対純は苦しいんだろうと思っていた。付き合っている相手にぞんざいに扱われて傷つかない人間なんていない。なのに、純は自分の意思で選んでここにいる。そして冬樹先輩のことを、今でも初恋を抱きしめるような笑顔で語る。
頭がおかしい。狂っている。
純のことをそう思ってしまい、足首からぞわりとした感覚が流れてきた。
「・・・そろそろ、時間だね」
名残惜しそうに純がつげ、私はようやく意識を仕事に戻す。
「延長、しない?」
「・・・うん、しない」
「わかった。今日はありがと」
その場でにこにこ現金払い。さっさと清算を済ませた純は「玄関まで、送る」と言った。
靴を履いて、純と向かい合う。もう、純に会うことはないだろう。私は最後に何を言うか考えあぐねていた。
またね?さよなら?
友達じゃあるまいし、私が名残惜しく感じていることすら気づかれるのがなんだか癪で、言いたくない。
絞り出すように口から出た言葉は、多分純好みだっただろう。事務的に私は告げる。
「またのご利用、お待ちしております」
「冬樹先輩が指名して?」
「そうね」
互いに顔を見合わせて、クスクス笑ってみる。それを破るよに純が告げる。
「んー、やだ」
「え」
「だって更紗、めちゃ可愛いから。本当に冬樹先輩が更紗に会ったら、きっと更紗のこと好きになっちゃう」
頬を膨らませた純が思ったよりも幼くて、私の頬は自然と緩む。
「なあに、それ」
軽い口調でそう答え、緩く手を振って、別れた。
扉の閉まる音が、やけに重く響いた。
深夜よりも夜明けに近い時間は風が冷たく、ポケットに両手を突っ込んで首を縮めながら歩く。
こつ、こつ、という自分の足音が響く度に考えるのはやはりさっき話した純のこと。
多分冬樹先輩は今日はもう帰ってこない。
冬樹先輩が帰ってくるのは明日か明後日か。そんなの知らないけど、多分純は冬樹先輩が帰ってきたら、あの見る人をとろけさせるヨナ笑顔で迎えるのだろう。
全然好きじゃん。
純が、冬樹先輩を?
私が、純を?
人の恋路を邪魔するやつは、
「馬に蹴られて、死んじまえ」
純に対して言ったのか、自分に対して言ったのか分からないその言葉は、誰もいない夜道に小さく響き、そして誰にも拾われることなく落ちて、消えた。