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Celestial History 番外編 〜孤高の闇術士〜

作者: 高野稜

おかげさまでCHも連載1周年を迎えることができました。

皆様へ感謝の気持ちを込めて、この物語を送ります。

 静かだ。

 ≪鐘楼の殿≫の中の、実習室と呼ばれる部屋の一室。簡素な石造りの壁に囲まれた部屋だが、その広さゆえにさほど窮屈には感じない。ガラスがなく、穴が開いたままの状態になっている窓から、午前中の優しい日の光が差し込み、部屋全体を適度に明るく照らす。

 アピスはそんな部屋の中、一人の男と対峙していた。

 もうほとんど40に近いだろうに、衰えを感じさせないがっしりとした体格。黒髪を無造作に束ね、黒い実習着に身を包む男はそれだけでただならぬ風格を漂わせる。その上、こちらを見つめる黒い瞳の眼球は、まるで鷹の目のように鋭く、厳しい。

 アピスは相手から視線を逸らすことなく、大きく深呼吸した。この緊張感は、この男との戦いからしか得られない。『最強の術士』と呼ばれるようになった凪との手合わせとはまた違う緊張感。

 今日こそは勝てるような気がする、なんて思わない。

 目の前にしただけで、叶わないと、本能がそう悟る、敗北感。

 しかし、深呼吸をしながら心の中でそれを必死に振り払う。始めから駄目だと思っていては、本当に勝てるわけがない。別に、打ちのめす必要はないのだ。実習の課題は、いつだって同じ――彼に、傷一つつけること。しかも相手は身一つなのに対し、アピスは精霊の使用こそ制限されているものの、ありとあらゆる武装が許されている。現に今日は、その両手に一対の短剣が握られている。その剥き出しになった両腕か顔、首筋のどこかを掠るだけで良いのだ――それだけのことなのに。

 何度目の深呼吸をしたときだろう。アピスは自分の集中力が極限に高まったと判断した。

 その瞬間、彼女は力強く地面を蹴る。表情は変えない。というより、変える暇もない。その場に常人の目があれば、彼女が音もなく一瞬にして男の目の前まで移動したように見えただろう。ナイフを構えた状態で男を見上げたアピスは、同時に身体をひねる。右手の刃が、凄まじいスピードで男に迫っていく――

「――!?」

 刃が男の黒い服にめり込む直前、アピスは目を見開いて後ろに跳躍した。鷹の目がこちらを見下ろし、僅かに動いたのがわかったのだ。

 アピスの判断は一瞬だった。判断に迷いもなかった。相手の反撃を読み取ると同時に、防御に入る。教科書通りの、完璧な流れ――それでも、アピスの身体には男の拳がめり込んでいた。小さな身体がぶっ飛び、広い部屋の壁に激突する。身体の一点から全身に広がった衝撃に、アピスの口から小さく悲鳴が上がる。

 ゲームオーバー。何度殴られようが、投げ飛ばされようが、アピスが声を出さなければ実習は続けられる――音なく、確実に相手を仕留める技、暗殺術。これはその授業である。とはいえ、彼が相手では、流石のアピスも3、4回飛ばされれば音を上げてしまう。しかも今日はこれがもう5回ほど連続して行われていた。彼女も限界に近い。 込み上げる吐き気を必死に堪えて、アピスはふらふらと立ち上がった。そんなアピスに、男は――始めの位置から全く動いていない――静かに告げた。

「午前はこれで終わりだ。午後は《課題》で街に出てもらう」

「わかりました…」

 どことなくほっとした顔をして、アピスはどさっとその場に腰を降ろした。それまでは全く乱れていなかった息が、途端に荒れだす。彼女の凄まじい集中力は彼女の身体能力を極限まで高めるが、その反動はそれ以上に凄まじいものだった。昔は、よく実習後に意識を失って医務室の世話になったものだ。

「まだ恐怖が残っているようだな。

本能を捨て去れ。

相手が攻撃の意志を見せても、逃げようと思うな。

殺られる前に殺る――それを忘れるな。攻撃が最大の防御だ」

「――せ…先生、は…」

 荒れた息を抑えながら、アピスは男を見上げ、苦笑する。

「…本当に、お強い…です……凪なんかより、ずっと。『最強の術士』って、実は先生のことなんじゃないですか?」

 冗談気分で言ったが、本心でもあった。もう何年も前から薄々感じていたこと。凪なんかより、圧倒的な強さをこの男は持っている。アピスだって『最強の闇術士』と呼ばれるほどの実力者だ。そのアピスをものともせずにあしらう能力の高さは、こういった、明らかにアピスが体格的に不利にある肉体鍛錬だけではなく、精霊を使った実習からもうかがえる。男は上級精霊こそ扱うものの、その精霊の位はフォルテを始めとするアピスの契約している精霊には遠く及ばないのに、アピスは傷一つ、この男につけられた試しがない。

「ふん――」

 アピスの言葉に、表情に乏しい男にしては珍しく眉を動かした。しかしそれも一瞬のことで、彼はすぐさま元の無表情に戻ると、鼻で笑うようにして、アピスの問いを流し、くるりと背を向けてその場から立ち去ってしまった。

 無言で立ち去った辺りからして、おそらく彼はアピスにはその微妙な表情の変化を読み取れなかったと思ったのだろう。馬鹿な生徒の戯言という風に済ませようとしたのだ。しかし、この≪鐘楼の殿≫で暮らすうちに知らず知らずと彼女は人の顔色を機敏に察し、立ち回るという術を覚えってしまっていた。勿論、今の表情の変化にも気付いていた。そして、

 それが、何故だか少し悲しげに見えて――

 一人残されたアピスは、肩で息をしながら、立ち去る男の背中を見送り、小さく首をかしげるのだった。




**********




 その日の夜のことだった。

「――おーう、アピス!」

 聞き覚えのある声に――聞き覚えのある声だっただけに、アピスはあえてそれを無視して≪殿≫の長い回廊を歩き続けた。しかし、大人の男相手ではコンパスが違いすぎる。すぐさま追い付き、進行方向に回り込むと、彼はアピスの行く手を阻んだ。30代半ばとは思えない童顔にこれまた子供っぽい無邪気な笑顔を浮かべて、アピスに目線を合わせるように少し腰をかがめる。

「なんだよー、おねえさん。ご機嫌ナナメ?そういや今日の午前中はまたあいつにぼこぼこにされたらしいな」

「…スィーニー先生邪魔。明日また朝から実習なの。今日はもう早く寮に帰って寝るの」

「担当教師には勝てないわ、後から入ってきた後輩にも勝てないわ…『最強の闇術士』の名が泣いてるぞ?」

 人の話を聞くわけがない。スィーニーはにやにやと、そう言ってアピスをからかう。一日の終わり、特に実習のあった日に会うといつもこれだ。彼はアピスをからかうことを一日の日課かつ娯楽にしているに違いない。もう慣れたものだ。このやりとりだって、これまでに何回繰り返したかわからないほど。アピスは溜息をついて、いつもと同じ答えを繰り返す。

「別に、『最強』の二つ名は私のことを指してるわけじゃないもん。たまたま私が『最強』って言われる闇精霊のフォルテと契約してるってだけでしょ?」

「フォルテは『最強』じゃなくて『最高』闇精霊な。

そんだったら『最高の闇術士』じゃねえか?そんだけの実力があるってことだろ。だから『最強』」

「…先生が私を褒めるなんて気持ち悪い」

 いつもならアピスの言い訳に対して「そうだな」と笑い飛ばすスィーニーが、珍しくまともにとりあっている。不審そうに自分を見上げるアピスに、彼は豪快に笑って胸を張った。

「ま、俺は認めてねえけど」

「ちょー適当じゃない。最低」

「だって技術講座6年目ってどう考えたって落ちこぼれだろ」

 なにやらやたらと嬉しそうなスィーニー。アピスは図星をつかれて黙り込んだ。

 ≪殿≫の教育課程は大まかに2種類に分けられる。座学と実習だ。一般教養から術に関する専門知識までを幅広く学ぶのが座学。実習は、それをもとに、1人から6人の生徒に対して1人の教師が付き、実戦を行うもので、アピス達のいう担当教師とは実習の教師のことだ。アピスや凪のように強力な術士ほど、一対一で生徒に教師が付くようになっている。

 技術講座とは、その実習の中の一つのカリキュラムだ。精霊をただ使役するだけではなく、実際の戦場の第一線での戦い方や暗殺術など、様々な専門的な戦闘法を学ぶための講座で、基礎講座をきちんと終了していれば、通常は2年ほどで修了できる。

 それを、どうしてか、そのほかの全てのカリキュラムをきっちり最短期間で修了しているアピスが、6年目に入ってまだ修了できていない。確かに、技術講座では暗殺術なら暗殺術、戦争術なら戦争術と、一つの専門術に限って学ぶ者が多いのに対し、アピスはそれを限ることなく幅広く全ての戦闘術に手をだしているため、その分時間はかかるだろう。しかしそれにしても3年あれば十分だ。ましてやアピスの能力の高さである。

 言葉に詰まり、顔を赤くするアピス。その原因が自分にあることに気付いているのかいないのか、スィーニーは悪びれる様子も見せずアピスに尋ねた。

「それにしても、何にそんなに引っかかってんだ?」

「……先生に聞いてないの?

暗殺術…と通常戦闘術の合体。精霊使わないやつね。後これだけなんだ…

一応暗殺術だから、できるだけ早く先生に詰め寄って、先生を仕留めるの。でも先生、反撃してくるんだよね。殴られたり飛ばされたりでもう大変。壁にぶつかる音とかはともかく、私が少しでも音出したら終わりなの。

先生に傷一つつけられれば合格なんだけど…」

「傷?」

 スィーニーは眉をひそめて聞き返す。アピスが頷くと、彼にしては珍しく神妙な顔をして何かを考え込むように黙り込んでしまった。

「先生?」

 アピスも不思議に思って首をかしげる。すると、今までの真面目な顔が嘘であるかのように、彼はがらっと表情を変えて、笑いながらばしばしと、勢いよくアピスの背中を叩く。

「期待されてんなあ!あいつ本気だろ?」

「痛いって!

期待されてるのは良いけど、先生もいつまでも私にかかってるわけにはいかないでしょう?私の専属にたってもう10年近く経つんだよ?」

「良いんじゃね?俺たちだって生徒たくさん輩出するよりかは一人ビッグな生徒教えたって方がキャリアになるし儲けもん…」

「聞きたくないそんな裏事情」

 相変わらず調子の良いスィーニーの言葉に、アピスは彼を睨みつける。スィーニーはスィーニーで、おお怖、とわざとらしい大げさな仕草で怖がると、自分からアピスに絡んだのにも関わらず、アピスの肩に手を置くいて彼女の体の向きを無理やり変えさせて、その背を押しながら言った。

「はいはい。じゃあその先生に迷惑をかけないように早く休んで明日こそ頑張るんだな――ま、今日明日で何が変わるとも思えないけど」

「邪魔したのはどっち!?」

「おやすみ〜」

 ぶつぶつと不満そうに文句を並べるアピスに適当に答えながら、スィーニーはその後ろ姿が長い回廊の影に消えるまで見送った――そして、その姿が完全に見えなくなると、小さく溜息をついて自身も身を翻し、回廊が囲む中庭の方に足を進めた。噴水しかない簡素で寒々しい庭に適当なベンチを見つけると、そこに腰を降ろして、ずっと手に握っていた缶を空ける。一日の終わりに、この安っぽい缶コーヒーを飲むのが彼の密かな日課だった。

 温かいコーヒーを一口飲み、息を吐く。建物の中より暗い中庭で、彼は初めてその息が若干白くなっていることに気がついた。そう思うと、確かに外気温も以前より低くなっている気がする。尤も、冬でもコートや上着といったものを着ない彼にしてみれば、秋から冬への変化など、大したことではないのだが。

「……あと、何回冬を越せるんだろうな」

 呟きは小さく、闇に消える。勿論、返事があるはずがない――しかし、彼は返事がないことに不満そうに付け足す。

「お前のことだよ。確か、冬のほうが好きだったろう?」

 す、っと。

 闇の中から、黒い影が浮かび上がった。

 黒髪に鋭い眼をした男。アピスの教師であり、≪殿≫の生徒として、そして教師としてもスィーニーの同期である彼は、腕を組んで、珍しく、その顔に迷惑そうな表情を浮かべていた。

「アピスに聞いたぞ?傷つけられたら合格なんだってな。そうしたらアピスは晴れて全過程を修了。卒業試験に挑戦ってわけだ」

「今、話していたのを聞いていた。

別に、傷つけられなくてもいい線まで来たら合格にする。卒業試験も、どうせ私がやるんだから」

「じゃあ卒業試験で傷つけられて終わりか。

なあ、アピスを育てて、それで満足か?

お前の人生、人一人育てて、それだけで本当にいいのかよ?」

「どうせ既に一度終わった人生だ」

 即答。正にそれだった。

 そして正論だった。スィーニーはどこか解せないものを感じつつも、言い返せない。代わりに、大げさに溜息をつき、空を見上げる――石作りの建物のに囲まれた空は小さく、窮屈そうだった。


「禁断の秘術、か……」


 思わず漏らした言葉に、男が溜息をついたような気がして、彼は視線を空からそちらに動かす。しかし男は変わらず、腕を組んで無表情にそこに立っているだけだった。その、ふてぶてしいのにどこか寂しげな彼のたたずまいが――昔から変わらないその醸し出す雰囲気が、余計に彼を虚しくさせた。

「…一度死んだ男には見えねえな。ちゃんとそこにいるし、相変わらずふてぶてしい」

「だが、幽霊みたいなものだ」

 男の口から飛び出した言葉に、一瞬、スィーニーの思考が停止した。彼らしくない、あまりに非現実的な言葉を理解することを頭が拒否したのだ。

 しかし、その一瞬の間をおいて、彼は盛大に噴き出した。男が男自身を皮肉るには、選んだ言葉は的確だが、あまりに子供っぽかった。

「やっぱり不満か?」

「当たり前だ。自分の意思に関係なく勝手に『秘術』とやらの実験台にされて、しかも出来そこないとみなされた。その上自由は認められず、こうやって≪殿≫に縛り付けられている」

 この男がこんなに饒舌なところを、彼以外の誰が見たことあるだろうか。

 この男がこんなに感情豊かに話すところを、彼以外の誰が見たことがあるだろうか。

 ひとしきり笑った後、彼は男を改めて観察した。黒髪を伸ばして束ねているのも、その鋭い目つきも、昔から変わらない。修行時代からそうだった。勿論、出会った当初からはもう何年も月日が過ぎているため、顔に刻まれるしわの数は増えたが――今では自分も同じくらい、出会った当初からは老けたに違いない。

「――ギルトでもないのに、しかも専門機関で教育を受けるまでもなく5体の上級精霊との契約を同時に成功させた『孤高の闇術士』。

不慮の事故で若くして命を落とすも、『禁断の秘術』により、出身である第72世界の全てを犠牲にして再び蘇った男、か。

かっこいい経歴じゃねえか」

「だが『秘術』は失敗し、完全ある復活は叶わなかった――得たのは精霊と同じ、不安定な精神体。傷をつけられればあっけなく消滅する、脆い身体だ」

 ちゃかすように言うスィーニーに、男はかぶりを振って真面目に返答する。その答えにつまらなさそうに彼は口を尖らせるが、男は無視をした。

「なあ、『秘術』って結局何なんだ?」

 ふと、疑問に思ってスィーニーは男に尋ねる。それに対して、男の答えは実にシンプルだった。

「知らん」

 さすがのスィーニーも呆れる。

「自分のことだろうが…」

「まあ人の命をどうこうするっていうんだから――聖族が噛んでるのは間違いないだろうな」

「神の力か…まあ、聖族以外にそんなことができる奴がいたら秩序も何もあったもんじゃないからな。

あいつらも…何考えんてんのかさっぱりわかんねぇ。ただでさえ俺達より長生きだってのに、不老不死でも目指してんのか?」

「ふん…理解しようとするだけ無駄だな」

「ま、そんなお前も――」

 どこまでも他人事のように、男は鼻で笑う。男を見上げながら言うスィーニーの口調は軽かったが、その表情は限りなく不審そうだった。

「――憎くて仕方ないはずのその聖族につきっきりなんて、理解しかねるけどな」

 男はぴくりとわずかに眉を上げる。スィーニーの言うことは尤もだった。アピスはまぎれもない聖族。そのことは、彼がアピスの専属になる前から知らされていたはずである。いくら≪殿≫に拘束されている身だといっても、断る自由くらいは許されているだろうに――というか、スィーニーの記憶が確かならば、この男、確か自分からアピスの担当を申し出ていたはずだ。

 男はその問いに答えるのに躊躇しているようにスィーニーには見えた。スィーニーですらあまり見たことのない、戸惑いの表情がその目に浮かぶ。だが彼も彼で負けじとその目と睨みあっていると、やがて根負けしたように、男は溜息をついて口を開いた。

「…アピスは―――世界を変える」

 いつもの淡々とした口調。澱みなく、確信に満ちた声。スィーニーが突拍子もない彼の宣言に訝しげな表情を返すのは当然のことだった。

「――少なくとも、そのきっかけになる。

20年前の事件で、全てが変わり始めている。コードウェルが滅びたことで、聖族は絶対の存在ではなくなった。彼らがこの後、再び繁栄していくためには、今までの絶対的な聖族の在り方では通用しない。

今の腐った神の権威に縋る聖族の在り方とは違う、新たな聖族と、この世界の在り方――それを模索していくのが、アピス達の世代の役割だろう」

 スィーニーは妙に納得してしまった。実に彼らしい意見だ――否、彼にしか出てこない意見かもしれない。確かにコードウェルの滅亡はスィーニーにも大きな衝撃となった。聖族の絶対神話が彼の中で揺らいだのもその時だった。しかし、他の聖族は依然として君主として各国に君臨しており、彼らが絶対だというイメージは再び固定されてしまっている。聖族を疑うことは神を疑うことであり、そんなこと、相変わらず彼には出来ることではない。

 だが、『秘術』の実験台にされたことを通じて聖族の影の部分に触れてしまった身としては、最早全てがまやかしにしか見えないのかもしれない。彼がその実験を通じて何を見たのかはスィーニーの知るところではないが、死後再びスィーニーの目の前に現れたこの男の目は――暗く、澱んだものだった。

 尤も、一度死んでしまえばこのような価値観が身につくものなのかもしれないが。

 とにかく、何かに彼が絶望していたのはスィーニーにもわかっていた。そして、今、彼の言葉を聞いて全てが繋がった気がする――聖族として生まれながら、聖族の中に生まれなかったアピス。何の常識にも囚われない彼女に、彼はこの世界の未来を託しているのだ。

 だからこその厳しい教育。決して志半ばで倒れぬよう、安易に他者の手にかかることのないよう――『最強』という鎧を、彼女に着せるために。

 意外にも――というのも失礼な話だが――熱い彼の思いが伝わり、スィーニーは自然と笑いが込み上げてきた。そして思い出す。昔からそうだったのだ。表では冷めた顔をしていても、心の中は常に思考が巡って彼の気持ちを盛り上げている。そういえば、政治学かなんかをサボった時に、後から何とはなしに授業の感想を聞いたら、今のように淡々とした口調で、しかし熱く、今後のセレスティアの政治のあり方について論じられたことがあった。

 にやにやと笑うスィーニーに気がついた男は、「全て、予測でしかないがな」と、若干ばつが悪そうに付け加える。照れたのだろうかと思うとスィーニーはますます笑いが込み上げてきてならなかったが、あまり馬鹿にしても大怪我に繋がりかねないので、ほどほどにして残っていたコーヒーを一気に煽る。

「――さて、と。

そろそろ俺も寮に帰るかねえ。凪の奴、明日から課題で第8世界に行くから、俺、暇なんだよな。

お前んとこの実習、見学しに行ってもいいか?」

「……好きにしろ」

 流石、というか、既に男はいつものようなゆるぎない無表情に戻っていた。本当に面白い男だ。本当に――失うには、色々な意味でもったいない。

 再びそのことを思い出してスィーニーの顔が曇る頃には、男は身を翻して闇の中に姿を消そうとしていた。特に止める理由もないので、そのまま背中を見送る。そしてそうしながら、男の言葉を頭の中で反芻する。

 男が言うならば、これから何かが変わるんじゃないかと、彼はそんな気がした。それも、そう遠くのことではないに違いない。この10年以内に、セレスティアは大きく変わるだろう――アピスの手によって。

 彼ははあ、と白い息を吐き、夜空を仰いで独りごちた。

「――本当だったらすげーことになるな。歴史に名が残る偉人になっちまうってことだろ?

『世界を変えた女』…いやーかっこいいねえ!」

 言っていることは妄想に近いが、彼は決してそんな気はしなかった。あの男が言ったんだ――現実になるに違いない。予測はどんどんと確信に近づいていく。

 しかし知りあいからそんな奴が出るとはなあ、どうして俺の教え子じゃないんだろ、キャリアをまた一つ逃して…ああでも結局あいつが教師じゃないとそのアピスは生まれないわけで―-そうやって、とりとめのない思考を巡らせていて、ふと気付く。

「――でもじゃあ…あいつは『世界を変える男』、になるわけか……」

 世界を変えるきっかけを作る大本。全ての始まり――それは決して歴史には残らない、永遠の日陰者。ましてや彼は『禁断の秘術』の手にかかり、出来そこないとして既に社会から存在を抹消されている。

 スィーニーは笑った。声を出して笑った。どことなく乾いた笑いが、冷たい中庭にわずかに響く。

 どこまでも、彼らしい――


 『孤高』――それは決して人には見られない、遥かなる高み。


 それでいて高貴。

 それでいて孤独。


 彼は立ち上がった。明日は早いらしい。しかし、これから今日の凪の授業評価も書かなくてはならないし、やることもたくさんある。

 結局、この先世界がどうなろうと、自分がこの場所でこの生活を続けることは変わらないと、彼は頭のどこかで察していた。彼はこの≪殿≫の中では至って普通の人生を送る、至って普通の人間である――そのくらいのことは自分で理解していた。

 しかし、人生には何回か、奇異な縁というものがあるという。

 その奇異な縁――それを持った全ての者たちが、今、一堂に彼の周りに会しているのではないか。

 ならば、この瞬間を大切にしたいと彼が思うのは自然なことだった――この瞬間が永遠に続けばいいのにと思うのもまた、自然なことであった。

 だが、叶わぬ夢に思いを馳せても仕方がない。

 今、自分にできることは、この瞬間を精一杯満喫すること。

 今を生きればいい――そう思えば、気はいくらか楽になった。必ず訪れるだろう悲しい未来のことは、今は忘れて。

 手にした空き缶を握りつぶして、近くのごみ箱に投げ入れる。かーんと、金属同士がぶつかる冷たい音を残しながら、彼の姿もまた、闇に溶けていった。

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