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腹ペコちゃん

痛いくらいの日差しがわたしに照りつけ、肌を労わるかのように表皮をじっとりと湿らせた。雲一つない真っ青な空と、身体に覆い被さるような湿度が余計に体調を悪くする。

お腹が空いている。そう感じてからしばらくたっただろう。捻りうめくような腸蠕動音すら聞こえなくなったときくらいから、暑さと相まって調子が悪い。これも全て空腹のせいだろうか。

どんな味を体が欲しているのか考えてみると、胃がもたもたするような、ムカムカするような、そういった味を今は求めていない。さっぱりとした、後に引くコッテリ感の少ないものが良い。街に出ると、満ち溢れた多種多様な品々がひしめき合い、わたしとしては食事をせずには帰れない。こんなに暑くてうんざりするほどの日でも、生きていくために。



恵子はスマホを見ながらニヤついた。

今日は結婚して早20年。日本人はとにかく「周年」という概念を喜び、祝う。私たちもこれから周年とやらを祝おうと企てている。今日はいつになく暑いので、駅からほど近い東洋美術の展覧会を観に行き、優雅な時間を過ごす。ほどなくして、出会ってから初めて訪れた情趣のある古いレストランでワインを一杯、いや二杯。少し酸味の効いたポモドーロソースの牛肉煮は当時の私たちにとって贅沢品だが思い出深い。ほろ酔い気分で夜道を歩くと、ふらついた勢いで体を寄せ合う。こんなこと恥じらいも無くできるのは記念日くらいなものである。

恵子はイタリアンレストランのホームページを見ながら想いに耽ていたころ、待ち合わせ時間の10分が過ぎたあたりで雅史からメッセージが届いた。

「節目なのにごめんなさい。けどだからこそ、今なんだと思う。君にはもう魅力を感じない。離婚したい。」

恵子は言葉を失った。ただ愕然とした表情で遠くを見つめることしかできなかった。



家に帰るとすぐに眠気が襲う。空腹を満たしほっと一息したころ、さっきいただいた食事の味を思い出した。どことなく相性が悪いせいか、時間をかけているぶん味深く感じるが、後味はさっぱりとしていてしつこくない、求めていた通りの味だった。美味しかった。

今夜は風もなく湿っぽいので、肌の保湿は適度にしておこう。最近購入した化粧水は成美がおすすめしてきたが、やはりもち肌の女がこだわる物は上質なのか。また今度日焼け止めのおすすめでも聞いておこう。

明日はどんなものをいただこうか。

 


成美は足早に待ち合わせの駅へと向かっていた。

「やばい、寝過ごした。翔平との待ち合わせにだいぶ遅れた、怒ってるかな。」

待ち合わせの時間よりも15分ほど早く着いていた翔平は、駅ビル内の喫茶店でコーヒーを嗜めていた。

「ごめーん!もう着く!今どこにいるの?」

翔平のスマホに映し出された成美からのメッセージに気づいて間も無く、淡いオレンジ色のカーディガンと、真新しい光沢を放つグリーンのローシューズが目立つ華奢な女が窓越しに見えた。

「ごめん、待ったよね?」

待っていたことを承知の上での質問であるにもかかわらず、翔平は平素に嘘をついた。

「全然、むしろゆっくりできたよ!」

「すまんすまん、急に眠気が。勝てなかった。」

「赤ちゃんだね、ほんと。」

「やめてそれ、ムカつく!」

「いや遅れたの成美だから言い返す権利ないし!」

喫茶店前で繰り広げられた2人の会話模様は、側からみればわかりやすい仲睦まじいカップルであった。

「まだ上映まで時間あるよね、お昼にしよっか。なんの気分?」

「うーん、中華かな。」

「賛成!私もテレビで炒飯特集見てから、食べたくて食べたくて。」

「決まり!映画館のほうに中華屋あるみたいだからそこにしようか」

「うん!餃子も食べちゃおー。」

自然な流れで互いの指と指を交わし繋いで歩を進める。華奢な成美のきめ細かい白肌が、燦々と照らす太陽の光によって艶めいた。

「翔平、映画楽しみだね。あれ、相当胸キュンらしいよ。友達も彼氏と見たんだって。」

「面白いらしいね。てか、まさにザ・カップル向きの映画で少し恥ずかしいね。」

翔平は、恋愛映画やドラマを見た後には必ず距離を縮め、スキンシップが増える傾向にあると成美は熟知していた。わかりやすく真っ直ぐな翔平の態度や仕草が好きだった。

「ねえ、あれもしかして私の知り合いかも。おーい!」

向かい道路で辺りを傍観している白いパーカーを着た女に、成美は少し背伸びをして大きく手を振った。

「成美?あれ、デート中?」

「そうなの。まさかデート中に遭遇するとは。今からご飯?」

「そうよ。今探しているとこなの。あ、そういえば、こないだおすすめしてた化粧水、あれめっちゃいいね。毎日愛用してる。」

「でしょ。あれ高くない割に上等品なんだから。」

「ほんと。また教えてね。」

「もちろん!私これから映画なの。話題のやつ。」

「え、もしかして、恋暮らし?成美はいいね、一緒に見る人がいてさ。」

「いつかできるって!かわいいんだから!化粧水塗りたくって女子力高めちゃいな!」

「そうするわ。じゃあまたね!」



お腹が空いた。起床してすぐに頭によぎった言葉だ。腹持ちの良いものなどこの世にはない。世間に溢れているわたしの栄養源は数知れず、腹を満たすことは容易であるが、腹持ちは良くない。

わたしは人とまるで違う。わたしもまた人であるが、人とは言いたくない。人として正常な感情を保つための「幸せ」。それこそがわたしの栄養である。それを失い嘆く様は、人としての重要な生命力を欠落している状態と言える。しかしわたしは、「幸せ」に味を感じる。「幸せ」の感情を失った時、対象の悲観的感情が大きければ大きいほど、美味しく感じる。それは他者に依存せず、自分自身の感情も例外ではない。なのでわたしはより「幸せ」を求める。大きな「幸せ」がわたしにとっての旨みとなるからだ。

わたしは今日も旨みを求めて街へ出た。家からほど近い、活気のある若者通り。街の一角には映画館の入った大きな商業施設。辺りには煙草を吸い戯れる中年男性。揃って並び歌を歌いながら笑い合う家族。油まみれのガラス越しに見える味噌ラーメンを頬張る男性。手を繋ぎ会話をするカップル。これら全てがわたしにとって旨みであった。

空腹を満たすため、辺りを見渡していたころ、向かい道路で大きく手を振り陽気な笑顔で見つめてくる女がいた。高校時代からの親友の成美であった。

成美はわたしの特殊な食事情の唯一の理解者であり、軽蔑されてきた過去の泥を拭ってくれた。

「どんな内容の食事であろうと、私はあなたの人間性を否定しない。」

成美からかけられたこの言葉を忘れることはない。だからこそわたしは成美とは適度な距離を保った。成美が「幸せ」を失った時、わたしがそばにいないことで失った理由はわたしではないと証明したいからだ。

久しぶりに成美と顔を合わせた。話をした。向こうはそれまた美味しそうな「幸せ」を纏い、映画館へと向かっていった。

たわいもない会話をし、手を繋いで颯爽と歩いていくカップルを背に、わたしはある違和感を覚えた。その違和感は確かに、向かい道路の女が成美だと認識してからであった。それは、高校時代からの親友である成美が、オレンジのカーディガンに緑のシューズを合わせたファッションでわたしの前に現れたことである。まさか、成美が。絶対に味方であった親友が。過去にあんなことがあり苦しめた事実を理解し、励ましていながら。

過去のトラウマというものは時がいくら経とうと払拭されることはなく、根強く残るものである。普通の人にとってたかが色と色の組み合わせは、わたしにとって、心臓を掴み鼓動を止めようとする大きな手となり苦しめ、拒絶した。

わたしのことを表では肯定しながら、ひっそりと否定的感情を表現するなんて。

わたしは今日の栄養となる「幸せ」を決めた。



わたしはこの食事情のせいで、散々ないじめを経験した。人の「幸せ」が栄養だなんて、普通の人間からしたらとんだ笑い話、もしくは化け物じみたおとぎ話のことだ。高校時代、あるものが校内で流行した。それは[幸せは蜜の味]と書かれ、オレンジに緑を基調としたデザインのステッカーだった。まさにデザイン部の人間が、わたしが「幸せ」を食べることを風刺したステッカーであり、所狭しと流行し、皆が学生バッグに貼付した。見兼ねた校内教育委員会は購買でのステッカー販売中止を宣告したが、いじめの風潮は留まることを知らず、皆がオレンジに緑を基調としたファッションを学制服にアレンジし着用した。学生内では世代を超えて一ファッションとして流行し、隠密に残る軽蔑表現に心を苦しめ続けた。わたしは教育委員会へ精神的暴力を被っていると訴えたが、一トレンドとしての学生ファッションと一蹴された。



悲嘆の涙にくれる。

わたしは成美を追い、空腹を満たした。




「翔平!!」

鈍く大きな音が辺りに響いた。まるで、大木をビルの上から落とした様な。

片方のハザードランプを破損したトラックは、大きな衝撃とともに停止した。

道路の四方には、真新しい血液とハザードランプの破片が散らばる。

「ゔうわぁぁあぁぁあ!!!!!」

成美は絶句した。




成美の「幸せ」は、わたしにとって今までにないほどの絶品と言える味であった。


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