第一話
冬の冷え込みは徐々に落ち着き春の暖かい日差しを感じるようになる四月初旬だが、バタークリームを彷彿とさせるアイボリー色のタイルを貼り合わせた工房ではオーブンの熱気で室内にいると汗ばむくらい温かい。
黒いカジュアルなコックコートを着る彼の額には小さい水玉の汗が吹き出ており、頬から首筋を通り流れ落ちる。天板から焼き上げた生地を取り出して粗熱を冷ます工程を流れるような手つきは初心者ではないと第三者が見てもわかる。
軽快なリズムで踊っているような動きは桜森永人の調理技術で基礎の高さを伺えた。冷蔵庫から大きなシルバーのボウルを手に取ろうしとした処でパチっと乾いた音が鳴り手を引っ込め、自分の悩ましい体質に発した指先を眉を歪めて恨めしそうに睨む。
「ようやく春の新作に合うクリームが出来たみたいねハル坊、この色と香りのチョイスは惹きつける魅力を感じるわよ~」
「盛り付けも終わっていないのにクリームだけ先に食べますかね、それに今日から高校生なので『ハル坊』は卒業して普通に名前で読んでください」
シルバーのボウルにテイスティングで使う小さなスプーンを筋肉質だが厚みの感じない締まった細い腕で器用にクリームすくい上げた人物にあきれ顔で反論する。男女の中性的な声を発する人物は桜森永人とは異なり白色で正当なパティシエが着るコックコートの上からでもその体が細身だとわかるくらいボディラインがすっきりとしている。右胸元には名前をアピールするかのような金色で特徴あるデザイン文字で『ケーニヒス黒根』と刺繍されている。
ボディライン以上に特徴的なのはヘアアレンジで髪はピンク色のグラデーションで染め上げ、頭部の左側面は刈り上げ残りの長髪はパーマで巻き上げている。
ケーニヒス黒根の後ろではアシスタントのメンバーが興味ないのか遠巻きに見ながら事の一部始終を観察している。
「そんな事を言っている限り『ハル坊』からの卒業はまだまだね、その考えはイチゴのようにスイートね、でもこのクリームの発想はビターな感じで素敵よ。試しに今日のショーケースにデビューさせるから五十ストック作れるかしら」
「その数なら学校にも間に合いそうだからやります、本当にお客様に出しても?」
「自信を持ってお出しなさい。ハル坊の技術とスイーツの魅力を表現する力は指導してきたワタシが保証する、だからハル坊のスイーツと出会ったお客様を虜にしなさい」
「すごく感動的なセリフなんですが、『ワタシの弟子はここまでシゴキきましたよ』としか聞こえないのは空耳ですか」
「オモシロイ事を言うようになったねハル坊。今日は何だかクリームたっぷりのスイーツを用意しようと思うからストック分全てを生クリームにしてもらおくな、しかも電動ホイッパーは|故障・・》しているからちょっと手間になるかもしれないね」
イタズラでたのしみなごらもなぶるケーニヒス黒根の視線を浴びる桜森永人の生存を渇望する本能は自然と危険察知した。
「が、学校へ行くまでに五十個を用意しないといえないから忙しいなあぁ」
試行錯誤の末にようやく完成した春を楽しむスイーツを作り上げるために、用意した素材や焼き上げた生地を一つのアートを描くかのようにトレーの上にひとつ、またひとつと姿を現す。その姿は薄い紅色のクリームにルビー色のイチゴや濃い紫イチゴに包まれ、そのクリームを小麦色の生地が上下から優しく包みこまれている。最上部の生地には焦がした飴をコーティングされており見た人の食欲をくすぐる。
パズルに最後のピースをはめ込むかのように最後のひとつがトレーに乗せられた時、部屋の隅に置いていたこれから高校の三年間を過ごす学校指定のカバンから持ち主へメッセージを受信したことを訴えるかのように小気味良い音が流れる。
スマートフォンのディスプレイには『宗崎修江』と『日馬清加』という名前が計ったかのように交互に着信者の名前を告げている。
この着信通知を受けて自分の都合良い時間であれと儚い希望を胸に、壁時計の針が示す時間を確認した桜森永人は記憶していた待ち合わせ時間まであと僅かだと知り、数少ない友人との約束を死守する為に己が持つ最速の手際良さと友人がご機嫌麗しい事を願いながら登校の支度を始めた。