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喧嘩するふたり

二章


1.


不愉快なまどろみの中で、ずっと誰かが耳元で喋っていたような気がした。


染みついた煙草のにおいで頭が痛い。ソファは一部、歪んでいて、どうしても腰のあたりが横すべりしていく。そのため、気づくと変な力が入ったまま眠り込んでいて、身体の痛みは昨夜よりも増していた。


声はまだ聞こえていた。伊東の声だ。歌っているという感じではなく、誰かと話しているようだ。電話だろうか。


「うん。……じゃあ、トモ君も元気でね」


その言葉を聞き取った瞬間に、神白は飛び起きた。


「おはよう」伊東はスマホを耳元から離して言った。


「伊東君、それ僕のスマホ?」神白は向かいのソファにいる伊東を睨みつけてしまった。「トモ君と話したの? 今、話してた?」


「お前のスマホはこっち」伊東は不機嫌そうに、テーブルの上のスマホを取って差し出した。「トモ君の番号だけ見せてもらったよ。大丈夫、他は何も見てないから」


「パスコードを覚えたの?」


「いや、昨日解除したんだよ。解除するために、お前にパスコードを入れさせただろ」


「ちょっとさ」神白は、勢いよく身を乗り出して伊東の手からスマホをもぎ取った。「あのさ伊東君。僕から君にルールを示して守らせないといけないのかな」


伊東は神白の剣幕にだいぶ驚いた様子で、少し間を置いてから「何。どうしたの」と言った。


「なんでトモ君と先に話すんだよ?」神白は泣きたくなってしまった。「僕が話さなかったから? そういうこと?」


「いや、何の話」伊東はうんざりしたような顔で言った。「僕、ただ、彼の具合を聞いて、見舞いに行ってもいいか聞いただけで……断られたけど」


神白は、トモルが伊東に何も話さなかったことに気づいた。


「ねえ、トモ君は大丈夫なの? ……なんか君の様子見てると、彼、もう長くないのかなって心配になったから」


「……いや、それは無いよ」神白は壁の時計を振り返った。ナイトパックの終了まで30分を切っていた。「もう出よう。これ以上歌わないでしょう」


伊東は黙ったまま、いらいらとした動作で伝票の挟まったクリアケースを取り、先に部屋を出て行った。


時間としてはかなりの早朝だったが、外はとっくに日が昇り、昼間と同じ明るさだった。まぶしさで目が痛い。


車に乗ってから神白は財布を開いた。

「伊東君、僕のぶんを……」


「いいって」伊東はすごくいらついた声で言った。


「いや、ちゃんと自分のぶんは出すよ」


「いいって」


「いいから、お願い」神白は千円札を3枚出し、伊東の手を取って無理やり握らせた。


それからエンジンをかけた。

かけてから思った。この時間帯ではまだ、どの店も開いていない。コンビニだけだ。そしてコンビニは今、目の前にあった。


どこにも行くあてはない。しかし、すでにかなり蒸し暑くなっていたので、エアコンはあったほうが良い。だから、エンジンを切りたくもなかった。


伊東は受け取った金をポケットに突っこみ、「僕、もう、帰ったほうがいいですか」と言った。


「ごめん」と神白は言った。


「帰るね。自分で帰る」伊東はドアを開けた。


「待って」神白は思わず彼の腕をつかんだ。「ごめん。ちょっと待って。本当に。今、話すから……」


「あのね」伊東はだんだん、怒りよりも呆れが勝ってきたような顔で、「話すとか話さないとか、さっきからうるさいんだけど。お前の私生活に何の興味も無いから、こっちは。勝手に悩んでればいいと思うよ。その手を放せよ」


「トモ君が結婚するんだ」神白は急いで言い、それから伊東の腕を放した。「うちを出て行くんだ。来月」


伊東はちょっとの間、黙っていて、それからドアを閉めてもう一度席に収まった。

「……君の元カノと?」と、伊東は言った。


「は?」神白はまた半ば怒鳴ってしまった。


「え、そういうことじゃなく?」


「何を言ってるんだ。違うよ。あっちは何年もつきあってた相手だ」


「うん……いや、よく分からないな。それっておめでたい話なのかと思ったけど、つまり、相手が君の元カノとかじゃない限りは。普通に祝ってあげられないの? なんで?」


「なんでだろう……」

それは、神白にもうまく説明ができなかった。あの夕食の席で、トモルが彼女にプロポーズしたと報告したとき、なぜあんなにも嫌な空気になったのか……ひとつひとつのやり取りはごく当たり前のもの、よくあるもの、これまでの経緯から予測できていたものばかりだ。たぶん、全てが組み合わさった結果、なのであって、どれかひとつでも欠けていたら、違っていたのであって、その「どれかひとつ」にはやはり、自分と元カノのことも含まれているのだった。


「とにかくさ」伊東は少し声色を和らげて言った。「僕、今日、行きたい所ができたから、車出してもらえる?」


「え? 今から?」


「うん、どうせもうここに用事ないでしょ」


「いいけど……どこ?」


「まず僕の大学に寄ってほしい」と伊東は言った。


「え、なんで?」


「忘れ物」


「今から行ったら7時すぎには着くけど……学校開いてるの?」


「うん、24時間開いてるよ」


「けど、」


「いや、そんなに漫喫に行きたいんなら、行けば?」伊東はまた冷たい声になって言った。「僕はお前に付いてきてもらう必要は無いから。それじゃさようなら」


「待って、わかったって」

神白は仕方なく発進した。


田舎町の早朝は実に静かだった。それに、車内も静まり返っていた。伊東は助手席でずっとスマホをいじっていた。


「伊東君、ごめんね」

誰もいない交差点で信号につかまった時、神白は改めて言った。


「ああ」伊東はスマホから顔を上げずにうっすらと笑った。「まだその話、続いてたの?」


神白は大きく溜め息をついた。腹が立ったというよりも、疲れと胃もたれで息苦しかった。


「こうしよう」伊東はスマホから顔を上げた。「今後、君が『ごめん』か『すみません』を言うたびに、罰金を100円取る」


「なんで」神白は少し笑った。


「謝り方が、腹立つんだよ。だから、僕がいらいらしたぶんの慰謝料として100円。さっきのは特別に見逃す。次から100円取るよ」


「じゃあ僕が、伊東君を怒らせてしまった場合は、どうすればいいんですか」


「100円払って謝ればいいんじゃないの?」


「はあ……」


青信号になったので、とりあえず発進した。


伊東は急に声を立てて笑った。

「神白。嫉妬は見苦しいぞ」


「はあ」と神白はもう一度言った。「嫉妬ねえ……」


「トモ君のほうが世渡り上手なんだから、仕方ないじゃないか。彼は何でも君に先んじてるだろう。それにあのタイプは女子にモテるよ、実際」


「そうじゃなくてね」神白は考えながら言葉を選んだ。「僕が、今落ち込んでいるのは……実家が無くなるからなんだ」


「実家? ……無くなるってどういうこと」


「あの家に住む人が居なくなる。引き払って売りに出す。畑ごと、全部」


「ああ、僕の実家と同じか」伊東はさらりと言った。


「え?」


「しかし君の家は歴史が長そうだもんな。そりゃ大ごとだ」


「伊東君、実家もう無いの?」


「うん、まあ、うちは転勤族だもの。ほんとは僕が大学入った時点で一人暮らし始めて、母は父のところへ行く予定だった。ただ、あのときは……」伊東はちょっとだけ言い淀んだ。「……状況が良くなかったからね。でも、結局は予定通り、あの家は引き払って僕だけこっちに残った」


「そうか」神白はまた謝りそうになって言葉を飲み込んだ。「知らなかった。あそこはもう伊東君の家じゃないのか」


「ていうか、元からうちのものじゃないよ。あそこ借家なんだよ。……君の家は、そう簡単に行かないんじゃないか? 農家を畳むなんて簡単なことじゃないだろう。君は継がないの」


「僕もさ……継げって言われるのかと思ってたんだよね」神白はゆっくりと口にした。「今は、一人暮らしを許されてるけど、いずれは呼び戻されるものと思ってた。だから僕の荷物はいまだにほとんど実家にあるし、僕としては、寝る場所がふたつに増えたくらいの気分で」


実際、夕飯を作るのが面倒、くらいの理由で神白は週に数度は実家に寄っていた。家業の畑は母と、その父親である祖父がときどきバイトを雇いながら切り盛りしていて、しばらくはそれで成り立ちそうに思えた。ただ、いずれ祖父の体力が限界にきたときには、障害のあるトモルには無理なので、自分のほうにお役目が回ってくるのだろうと思っていた。神白はおおむねそのつもりだったし、気が重いことではあったが、受け入れるつもりでいたはずだ。


しかし母はあっさりと「じゃあふたりとも部屋片付けて頂戴ね」と言った。

そして、この家を畳むつもりであることを告げ、跡継ぎはいらないのかと聞き返した神白に対し、「どうせお前は継がないだろうが」と言った。

さらに、母は神白とトモルを見比べながら、「ほんとにねえ。逆だったら良かったのにね」と、言ったのだった。


頭の中が真っ白になった。そのあとの会話の流れを思い出せない。


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