ユウちゃん大暴れ(後)
ユウちゃんは動きを止めてしまっていた。何かの加減で引っ掛かっていたらしい板切れがふと落ちて、地上に溜まっていたガラス片に当たって妙な音を立てた。このままユウちゃんがまったく動かなくても、いつかこの廃屋は自然とつぶれてしまいそうに見えた。
猟銃の威力と遠藤の腕前を信じるなら、決着は時間の問題のようにも思える。
しかし、神白の内心には不安が重く居座り、嫌な汗が止まらなかった。
いざというときに、ちゃんと走れそうもない人間がふたり。それが余計に気掛かりを増幅する。
風向きが急に変わり、焚き火から大量の火の粉が巻き上がった。その光に反応したのか、ユウちゃんはまた屋根の上で身じろぎし、わずかに口を開いた。
白く、ずらりと並んだ、尖った歯が見えて、一瞬で閉じた。
直後、またしても長い尾が振り上がり、壁に打ち付けられ、その壁が半分ほど崩落した。
もう、廃屋の左側の壁はほとんど骨組みしか残っていない。
トモルが溜息をついた。
「……遊んでるんだ」
誰も返事をしなかった。
伊東が遅れてスマホから顔をあげ、「まあね、お腹がすいてるという感じでもないね」と言った。「目的は無さそう。家を壊して遊んでるだけかも」
「だいぶ警戒もしてるけどな」長髪の男はつぶやいた。「少し、追い込まないと駄目か」
「何をするんです?」遠藤が聞いた。
「こちら側から、」男は廃屋の右側のほうを示すように軽く腕を振った。「回り込んで、撃つ真似をするか、あるいはもうひとつ火を焚く……」
「いや、やめたほうがいい」と、トモルは言った。
長髪の男ははっきりと不愉快そうな顔でトモルをじっと見下ろした。「何が?」
「ゾンビと同じだろう。人間を怖がらない。普通の獣のように追い立てられない」
「けど、熊だってね…」
「先にしびれを切らした方が負ける」トモルはまた少しずつ頭を持ち上げようとしているユウちゃんを指さした。「しばらくあいつの『遊び』につきあうことだ。焦っていると気づかれちゃいかん。こっちは一晩中でも付き合うつもりだと、大人の余裕を見せないと」
「え、一晩中やるのこれ?」神白は思わず聞き返した。
「どうせそう長くは持たない」と、トモルは言った。「かなり賢いとはいっても、しょせんは気分で動いているだけだろう。気分なんてものは30分も続かないよ……おい、あなた、遠藤さん? あなたもね、いったん構えを解いて」
「なんで口出しするんです?」遠藤は振り返って聞いた。
トモルはそれには答えず、
「知らん顔して2、30分待つんだ。絶対にあいつのほうがしびれを切らして仕掛けてくる。我慢強さで人間には勝てないはずだ」
「まあ、あっち側、壁だからな」短髪のほうの男が言った。「実質、もう追いつめたようなもんだ。焦ることはない」
「うーん、どうだろな……」長髪の男は腕組みをし、渋い口調で言った。「俺はあんまり長引かせるのも良くねえと思うけどな……」
打つ手がない待ち時間というのはかなりの苦痛だった。我慢強さで人間には勝てないはず、とトモルは言うが、昼間の森で「狩り」をしていたユウちゃんを思い返すと、そうとも言い切れない気がして神白は不安だった。かれは何時間でも待つことができるのでは? 同じ場所に留まり、風景と同化して、相手が自分の思い通りの位置に踏み込んでくるまで待ち続ける。頻繁な食事を必要とせず、睡眠のリズムも人間とはまったく違うはずだ。このままもし「一晩中」などということになれば、先にへたばってしまうのは人間のほうだろう。
少なくとも、トモルの体調はそこまでもたない。
どうにかしてトモルを説得し、先に帰らせるための口実を作らなければならない。それを考え始めると神白はまたうんざりして腹が立ってきた。自分で帰ればいいのに! 少なくとも、先に帰らせてくださいと頼むのが筋じゃないのか。おれが世話を焼きすぎなのか? けど、気を遣ってもらえることに甘えて危ない行動をやめないのはトモルのほうで……
危ないことをやめないのは、こっちもか。
神白は伊東を振り返った。
彼はいったん自分の作業が終わったらしく、スマホを持った手をそのままポケットに突っこみ、ユウちゃんと廃屋のほうをじっと見ていた。
ずっと、面白がるような目をしている。不安は無いようだ。
何か考えていることがあるのだろうが、話す気は無さそうだ。聞いてもどうせよくわからない専門用語が返ってきそうな気がする。
それに、結局のところ泥酔しているだけという可能性もある。誰かと連絡を取っているような素振りだが、文字がきちんと打てているのかどうかは怪しい。足元が覚束ないほど酔った状態で、まともな文章が書けるものだろうか?
遠藤と猟友会の2名は寄り集まって何事か話し合い始めた。ある程度の時間が経ったらこちらから仕掛けていくという話をしているように聞こえた。しかし専門用語が多く、また、男たちの言葉はだいぶ訛りも入っているようで、詳細はわからない。
「そんなに不安そうな顔をするなよ」
伊東が振り向いて、急に真面目な顔つきで言った。
「怖いの? アキちゃん」
「いや……怖くはないよ」
自分ひとりだったらな、と神白は心の中で付け足した。
風はすっかりやんでいる。その代わり、再び雨が降り出した。
生温い空気に慣れていたせいか、肌に当たる水滴がかなり冷たく感じる。
思わず、神白は弟を見た。
身体を冷やすと、また痛む……
トモルは廃屋にのしかかる巨大なワニを眺めながら、薄く笑っていた。
この数年来、見たことのないような満足げな顔だった。
「アキちゃん。あれ、すげーな」と、トモルは言った。「あいつ生きてるんだよな? あれ生きてて、何か考えたりしてるんだよな? しかも誰かがこしらえたんじゃなくて、勝手にどっかから生まれてきて、自分で大きくなったんだろう? すごくないか?」
「……そうだね」
人の手に作られていないもの、人知の及ばぬもの、自然、神……
ここにあるものはすべてがそうだ。
人が作ったもの、人が持ち込んだものも、いずれは朽ち果て、あるいは野性にかえり、人の手に負えなくなって森に呑まれてしまう。
人はその端に立って、眺めて圧倒されるだけ。いっときの暮らしの糧を借りるだけ。思い通りにつかうことなどできない。
「すみません、下がってください」
遠藤が立ち上がって振り向いた。
「もうここまでです。ケリをつけます」
「時間切れ?」伊東がスマホを出しながら聞いた。
「気温が下がってます。ユウちゃんの活動の限界です。洞窟に逃げ帰られる前に、追い立てて仕留めます。あなたがたはそこまで下がって」
遠藤は階段の降り口を指した。
「あと10分待てない?」伊東はちらりとスマホを見た。「いや、5分……じゃなくて、2分」
「何があるんです?」
「僕の呼んだ援軍が来る」
「え?」
「間に合った、気がする……」伊東が微笑んで何か言い出そうとしたが、それは掻き消された。
廃屋が崩れ落ちた。
屋根が割れ、壁が落ち、剥き出しになった骨組みと柱が折りたたむように同じ向きへ倒れる。まず2階が消え、そして1階も潰れていく。
ガラスの割れる音が混じる。
ユウちゃんは動じた様子もなく、黒く大きな体で瓦礫を押しつぶしながら、改めて尾を伸ばし、前足で地面を捉えた。
真正面。ふたつの大きな目が、焚き火と人間たちをじっと見すえた。
僅かに開いた口から、歯が見えた。
向かってくる。
ほぼ同時に、遠藤が構えの姿勢に戻り、次の瞬間に耳元を殴られるような激しい銃声が響き渡った。




