ユウちゃん大暴れ(前)
巨大な尾が廃屋の壁を打った。
屋根と2階全体がばねを持ったようにたわんで、「ユウちゃん」の巨体も端から滑り落ちそうになる。今にもすべてが崩れてしまいそうだ。
少し遅れて窓枠がひとつ外れ、残っていた窓の残骸とともに地面へ叩きつけられた。
辺りが暗く、他に人工物も無いためか、見ているものの本当の大きさが実感できない。廃屋はまるでおもちゃの家のように見えた。
雨は小粒でまばらになっていた。風は不規則に、繰り返し向きを変えながら強く吹き付ける。
遠藤は火の焚かれたかまどより少し離れた位置に戻って、片膝をついた。そこにもうひとつ、小振りの石かまどのようなものが組まれ、昼間も見た長い猟銃が設置されていた。防水布と木の枝のようなもので巧妙にカモフラージュがされている。銃口は廃屋のほうを向いていた。
廃屋の上の「ユウちゃん」は、人間たちのいる地上に向かって大きな右目を向けていた。屋根を踏みしめる前足に、抉ったような傷跡が見える。肌に痛々しい凹凸が生じ、白く変色している。あれが以前撃たれたときの銃創ということか。
あれだけの傷をつけられるのなら、猟銃での駆除は不可能ではないはずだが。問題はこちらが無傷のうちに決着をつけられるかどうかだろう。
「何を待ってるの?」伊東は遠藤に向かって聞いた。「撃たないの?」
「角度が良くない」と、付き添っていた男のひとりが割り込むように言った。「もうちょい、降りてきて欲しいんだが。頭を撃ちたい」
「気付かれてんじゃねえかなあ」もうひとりの男が言った。「少なくとも、あすこから降りたら不利になるって知ってんな、ありゃ」
男ふたりはどちらも、3、40代に見えた。片方は長髪を後ろでひとつにくくり、もう片方は刈り上げて少し染めている。ふたりともそれなりに腕っ節のありそうな体格だったが、服装は神白たちとさほど変わりのない普段着で、手ぶらだった。
「猟友会のかたですか」神白はトモルを車椅子に収めながら、尋ねた。
ふたりは曖昧に頷いた。
「自分たちの武器は?」と、伊東が聞いた。
「あるよ」と長髪の男は言った。
「ある? どこに?」
「然るべき場所に」そう言って長髪の男は何故か笑った。
「あなたがたわりと邪魔ですよ」遠藤はスコープを覗き込んだまま、振り返らずに言った。「ユウちゃんを怯えさせたくないんで、用がなければ帰って欲しいんですが」
「僕は用があるよ」伊東はまたスマホを出して、画面に水滴がつくのも構わず、操作し始めた。
「お前は帰った方が良さそうだな」神白はトモルを振り返って言った。
「じゃ、そこから突き落としてくれ」トモルはいましがた登ってきた階段を示して言い返した。
「いやほんとに、ユウちゃんがこっちに向かってきたらそうさせてもらうよ。ほんとにやるよ」
「ああ、やれよ。できるんなら」
「うるさいですよ」遠藤が振り向いた。「帰れなんて言ってません。黙ってください」
「いや、いや、帰れって言ったよ、さっき」トモルは車椅子の上で少し身を乗り出した。「あなたもなかなか激しいね。なぜ警察を呼ばないの? 怪獣退治にしちゃ随分と所帯が小さすぎないか」
「大人数で脅すとまた洞窟に引っ込んでしまうから。もう今夜で蹴りをつけたい」遠藤はまた前方に目を戻した。「ボクだってずっとこの村にいるわけにはいかないんです」
「お祖父さんの仮の相続人だっけ? じゃ、生活基盤はまだ元の土地にあるわけだ」
「そうですね」
「どこなの? 学生って言ってたっけ?」
「静かにして…」
遠藤が言いかけた言葉を飲み込んだ。
ユウちゃんの長い尾がまたふわっと持ち上がり、廃屋の壁を思い切り打った。
壁の一部がまるで砂の城のように崩れ落ちる。足場が悪くなりバランスを崩したのか、ユウちゃんは傷のある右足を大きく踏み出して姿勢を変えた。
巨大な顔が正面を向き、こちらにせり出してくる。
遠藤が息をつめて肩に力を込めた。
「まだだ!」長髪の男が鋭く言った。
ユウちゃんは巨体に見合わぬ素早さで頭を持ち上げ、屋根の上を後ろ向きに半歩戻り、元通りの姿勢に収まった。
「まだ……」長髪の男はその動きを睨みながら、「賢いやつだ」と言った。「どの角度なら攻撃されないか、計ってるんだ。こっちの動きを見てる」
「ムカつくなあ」と、もうひとりの男は言った。「こんな面倒とは思わなかった。屋根に上がらせるんじゃなかったな。さっき撃てば良かった……」
ぶつぶつ言いながら、彼はそばに積んであった袋の中から薪を取ってかまどに足して行き、長い金属の筒で息を吹き込んだ。「火、どうする? とりあえず保っとくけど」
「いったん、保って」長髪の男はワニから目を離さずに言った。「これね、小さくすると俺らが不利になるんじゃないかと思う。たぶんあいつのほうが目がいい」
「熊よりめんどくせえなあ」短髪の男は妙に呑気な口調で言った。
風が、少し弱まっているような気がした。天候が良くなってきたというよりは、「目」のようなものに入りつつあるのかもしれない。樹々のざわめく音が遠のくと、先ほどよりも不穏な空気は増してきた。
伊東はずっとスマホに夢中だった。
文章を打っていた様子だが、おもむろに持ち上げてユウちゃんのほうへ向け、写真を撮った。
場違いな撮影音が鳴って、遠藤がまた迷惑そうに振り向いた。
「フラッシュをたかないでくださいよ」
「大丈夫」伊東は機嫌良さそうに微笑んでいた。
「どこに投稿してるんです? 場所を公開してもらっちゃ困りますよ。野次馬が来るから……」
「投稿なんてしてないよ。大丈夫」
「伊東君、それ、今じゃなきゃ駄目なの?」と、神白は聞いた。
「そりゃそうだよ」伊東はまだ酔っているのか、そんなこともわからないのかと言わんばかりの口調で、「まったく、君というやつは。能天気で困るなあ」
「いやどう考えても、能天気なのは伊東君のほう……」
「何もわかっちゃいないな。ほんとに馬鹿ばっかりで困るぜ」伊東はニヤニヤ笑いながら、スマホからまったく目を離さなかった。「ほんとに、馬鹿ばっかり、ウケる」
「おい、こいつをまず階段から叩き落そうよ」トモルがうんざりした顔で言った。「どうせ酔ってるからわかりゃしねえ。明日の朝迎えにくりゃ全部忘れてるよ、きっと」
「トモ君……」伊東はずっと文字を打ち込みながら口を開いたが、そのまましばらく間を置いてから、「……いいぞ。順調だ」
「何が?」
伊東の返事は無かった。




