面倒な酔っ払い
どこかに設置されたスピーカーから、女性の声が機械的に何かを読み上げるような放送がかかった。だが風向きが悪いのか、元からここが村の外れだからなのか、何を言っているのかはよく聞き取れなかった。
神白の耳には「外出を控えてください」という締めくくりだけが聞こえた。
「え、なんて言った?」とトモルが聞いた。
「ワニって言ったな」と伊東。
「外出を控えてくださいって……」神白は言った。「えっ、てことは、また脱走?」
「夜は動けないって言ってたのに」伊東は大きく溜息をつき、それから何を思ったかとっくりにそのまま口をつけてぐびぐび飲み始めた。
「伊東君、何してんの」
「いやもう食事終わりだろ? もったいないからこれだけ飲んでく」
「やめろよ」トモルがわりと本気の口調で止めた。「お前のその飲み方のほうがもったいないって」
「倒れるからやめて」と神白も言った。「あのさ、状況的に僕たちが飲ませたみたいな雰囲気になるだろ。君がぶっ倒れたら…」
伊東は黙ってとっくりをどんどん傾けていき、本当にペットボトルのような勢いで空にしてしまった。
それから音を立てて空のとっくりをテーブルに置き、「じゃ出掛けましょうか」と言った。
「出掛けるの?」
「だってユウちゃんが逃げたんだろ。今度こそ射殺だ。見届けるぞ」
伊東は元気よく立ち上がったが、さすがにその足元が危なっかしく、一歩目でふらついた。
「マジで何やってんの」神白は慌てて立ち上がって支えた。「君は留守番だよ」
「いや、行くよ。行くって」
「けっこう酔ってないか」
「君、飲んでないよね。運転して」
「あのね…」
「おい」トモルが箸を置いてじっと見上げてきた。「行くんなら、僕も乗せてけよ」
「はあ?」神白はうんざりして叫んだ。「自分で歩けない奴がふたりじゃねえか!」
「僕は歩けるって」伊東は神白の支える手を振りほどいた。「さあ行こう。早く行かないと見逃すぞ。バーンとやられるぞ、バーンと」
「やっぱり酔ってるだろ。頭の働いてない伊東君とか、連れてって何のメリットが…」
「メリット? ああ酷い、アキちゃんはそういう目で僕を見てるわけだ」
伊東はかなり怪しい足取りで部屋の隅に向かい、そこに畳んで置いてあった車椅子を広げた。
「伊東君、僕がするから」神白はトモルに肩を貸して立たせながら、部屋を見回した。卓袱台は夕飯の鍋や皿でいっぱいだった。「……君さ、呂律が回るんならフロントに電話して、ここ下げるように言ってくれる? 水もキャンセルして」
「呂律ね、うんうん、呂律」伊東は歌うように言いながらプッシュホンに向かった。
「あいつマジで酔ってるぞ」トモルが車椅子に収まりながら、呆れたように言った。「大丈夫なのかよ」
「中途半端な酔い方だな。いちばんタチが悪い…」
いっそのこと完全に潰れてくれれば扱いは楽なのだが。
3人ともすっかり浴衣で寛いでしまっていたので、身支度して建物を出るまでに数分を使ってしまった。
外は異様な蒸し暑さだった。
台風が運んで来た熱気なのだろうか。それに、息をしていられるのが不思議なほどの湿っぽさだった。大粒の雨が、不規則にうねる強風に乗って縦横に吹き付ける。
ワニの騒ぎと関係なく、いずれにしろ外出は控えたほうが良さそうな天気だった。
車に入るまでの間にかなり濡れた。
伊東は助手席に乗り込み、シートベルトを締めながら、自分の足元を覗き込むような妙な姿勢で少しの間動きを止めていた。
「大丈夫?」神白は発進しながら聞いた。「伊東君」
「酔った…」
「当たり前だ」
「いや、うん、まあ、支障はない」伊東は首を振りながら顔を上げ、それから素早くスマホを取り出した。
「ちょっと。スマホ見てる場合なの? 吐いたらその場で放り出すよ」
「そういう酔い方はしてないよ」伊東はさらさらと親指を動かし、また長文を打ち込み始めた。
「いつも何を投稿してるの?」
「え、投稿なんてしてないよ」伊東の手は止まらなかった。「連絡を取ってる」
「誰と?」
「『本命』を口説いてる」伊東は画面を見たまま、微笑んだ。
「はあ。伊東君さあ、もう少し真面目に生きなよ…」
「え? 何を想像してるの? 別にナンパなんかしてないよ」
「僕が言ってるのはね、そのテキトーな口の利き方をやめろってこと」
フロントガラスに大粒の雨が叩きつける。川沿いの道は暗かった。川の景色はほとんど闇に沈んでいたが、水位が上がり黒い濁流が渦巻いているのがチラチラと見える。
「やだな。この道、冠水しそうだな」後部座席のトモルが呟いた。「帰りは通れないかも」
帰りなんてあるんだろうか、と神白は思った。
「ああ」伊東がスマホを持つ手を下ろし、深く溜息をついた。「酔った。酔ったな」
「そうだろうね」
「伊東君ってたぶんすごく馬鹿だろ」とトモルが言った。「勉強ができる馬鹿だろ。こういう奴が世の中を駄目にしてくんだ」
「うーん、でもいい気分だ」伊東は鼻歌でも歌い出しそうな口調で言った。「何もかも、上手くいきそうな気がしてきた。かなりいいぞ」
上手くいくと言っても、この後どう転んだところで「いい気分」にはならないはずだが。伊東の晴れやかな表情が酒によるものなのか、それとも彼の元々の価値観によるものなのか、神白には判断がつかなかった。
道は川沿いを逸れて山に入っていく。風で千切れたらしい葉や枝が雨と一緒にバラバラと降り、車の前面を叩いた。
今朝、遠藤の運転で入った分かれ道を探して、神白はライトを何度か切り替えながら目を凝らした。
森の樹々が細い道路の両側から迫り、頭上も覆っている。そして全ての枝が、うねるようにざわめいている。
この森が、山がもっと遥かに広大なら良かったのに。「ユウちゃん」があの巨大な体で好きなだけ暴れ、疲れ果てるまで走り回ってもまだ人里にたどり着かないほど、広く深ければ……
もしくは、あれほど大きくなりすぎなければ。
共存はできない。飼うことももう無理だ。だから飼わなければ良かったのだ、と、他人なら気楽に言える。最初から全てが間違いだったと。ワニを飼おうとしたことも、手放して見捨てようとしたことも、面倒ごとを押し付けて放置していたことも……全部間違いだった。
だが結局のところ、誰かがその始末をつけなければならないのだ。
朽ちかけた階段の手前に、遠藤の車と、見知らぬワゴン車がもう1台停まっていた。その後ろに駐車しながら、神白は今更ながらトモルを連れてきたことを後悔した。断れば良かった。
「ああ、何、登るの? 階段?」トモルは僅かに顔をしかめた。「知らんかった。え、遠い?」
「いいから来い」神白は後部席のドアを開けて弟の腕を強く引き、勢いをつけて背負いあげた。「伊東君。車椅子持ってよ。あと、明かり持ってくれる? 僕の鞄にライトが」
「ああ、はい、はい」
雨は弱くなり、代わりに風が強まっていた。辺りには外灯ひとつなく、空も雲に覆われ真っ暗だ。
伊東の持つ懐中電灯の明かりだけが頼りだった。
「アキちゃん」おぶわれたトモルが、急に低い声で言った。「ごめん」
「何が」
神白は階段を登り始めた。重いとは感じないが、膝が軋む。そもそもこの階段自体が、不規則な形で登りにくい。
「アキちゃん、踏み外すなよ」伊東がすぐ後ろから付いてきながら、呑気な口調で言った。「君が落っこちて歩けなくなったって、僕はおぶわないからな」
「ああ」酔っ払いは黙れ、と言いたかったが、さすがに喋る余裕が無かった。
「あのさ、疲れたら下ろして置いてけよ」背中でトモルがぶつぶつ言った。「おれはボチボチ這って追いかけるから」
「ああ」
勝手なこと言いやがって。どいつもこいつも。
足元に集中していたので、階段の終わりに差し掛かっていたことに、登り切ってから気づいた。
「うっわなにあれ」トモルが前方を見て叫び、神白は遅れて顔を上げた。
岩壁の前の広場にはかなり本格的な石かまどが組まれ、この風雨にも関わらず大きな火が焚かれていた。その側に遠藤と、見知らぬ男ふたりの姿があった。焚火が逆光になり、顔はほとんんどわからない。
焚火の明かりで前方が見えていた。岩壁の手前に忘れ去られていた、二階建ての廃屋。
その朽ちた穴だらけの屋根の上に、黒々と濡れた巨大な「怪物」がのし掛かかり、かれは大きな昏い目で、確かな意思を持ってこちらを見つめていた。
 




